月別アーカイブ: 10月 2013

20131027 『誠実に生きる恵み』 岩井基雄牧師

『誠実に生きる恵み』

「ダビデはヤベシュ・ギルアデの人々に使いを送り、彼らに言った。『あなたがたの主君サウルに、このような真実を尽くして、彼を葬ったあなたがたに、主の祝福があるように。今、主があなたがたに恵みとまことを施してくださるように。この私も、あなたがたがこのようなことをしたので、善をもって報いよう。』」

(サムエル2:5,6)

 神と人との前に好意と誠実を得る歩みが私たちに求められている。サウルの死を誠実に弔ったヤベシュ.ギルアデの人々の歩みは、争いの中にあって不思識な光を放つ。

 ヘブロンにおいてダビデに働かれる主の導きは、サウル家にとっての脅威となり、このあとこの2つの家には争いが続く。その背後にあったのは両方の将軍、ヨアプとアプネルの争いでもあり、それが背後にあって、ことが進められていく。アブネルの提案による代表者12名たちによる争い、そこから全面的な争いとなり、ダビデの側が優勢となっていく。人間の争いの根底にある罪の問題に光が当てられる。ダピデの将軍ヨアブの兄弟アサエルがアブネルに殺される経緯も詳細に記される。そしてこのことがヨアブの心の奥の殺意となっていく。人間的な思いをそのままにするとき、私たちの心は罪の奴隷となっていく。

 何に対して、誰に対して誠実を尽くしていくのか。ヨアプだけではなく、イスラエルの民、そして私たちに問われている。主に伺いを立て、歩み続けるダビデとて例外ではない。私たちの誠実さはどうであろうか。

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20131020 『今日、もし御声を聞くなら』 鈴木俊見神学生

 『今日、もし御声を聞くなら』 

「きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」

                      (詩篇95:7c〜8)

詩篇95篇は、キリスト教会の初期の頃から、礼拝の中で招詞として読まれている箇所のようです。それはこの詩篇には礼拝への招きが書かれているからです。しかし、この詩篇は単に礼拝への招きだけではなく、礼拝そのものについて重要なことを教えています。

第一には、主の前に出るためには主の招きが必要であるということです。私たちが罪人であることは主の前に出る者としてはふさわしくないことを意味します。一般人が王の前に出るためには王の召しが必要であるように、主の前に出るためには主の招きが必要です。

第二には、救いの岩、大いなる王、創造主である神を礼拝するということです。そのお方の業を覚える時、叫ぶほどの喜びとともに、伏し拝まざるを得ないような恐ろしさも覚えます。私たちは誰に礼拝をささげているのかをしっかりと自覚する必要があります。 

第三には、御声を聞く時の私たちの態度です。羊がその牧者の声を聞くように、主の声を聞く時、私たちは心をかたくなにしてはなりません。もし、心をかたくなにすれば、命を失うことになります。

救い主であり、創造主である主はいのちを得させようと語ってくださっています。私たちは心をかたくなにすることなく、むしろ教えられやすい器となって、主の声を聞きたいと思います。

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20131013 『正しい判断と裁き』  岩井基雄牧師

『正しい判断とさばき』 

「イエスは彼らに答えて言われた。『わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。』」

(ヨハネ7:16,17)

 私たちは様々な場面で判断を求められる。しかし、正しく判断し、その真理に従うことは決して簡単なことではない。

主イエスは、仮庵の祭りに大勢の人が集まる中でみわざを表すようにと兄弟たちに促されたのだが(3,4v)、主は密かに上って行き、そこで人々に教え始められた。主はご自身の栄光を求めてではなく、ご自身を遣わされた方の栄光を求めておられたからである(18v)。そしてそれは人々の正しい判断を導くためであった。イエスがどういう方なのかを巡って、これから様々な議論が始まっていく。主は決定的な奇跡を見せ、みわざを表す事によらず、真理を語り、みことばを伝える中でこそ、人々を導こうとなさっている。驚き経験だけでは私たちは正しい判断ができない。
それに加え、主はユダヤ人たちの心にも光を当てられた。誰でも神のみこころを行おうと願うなら、主の教えが神から出たものかどうか、正しい判断ができるというのだ。主への妬みを抱き、殺意を持っていたユダヤ人たちは、彼らが驚くような真理を語るイエスの教えを受け入れることができず、彼がなさるみわざも正しく判断することができなかった。内側にあるものが真理の光を阻んでしまうのである。私たちの心は整えられているだろうか。

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20131006 『旅の原則』 荒平大輔師

『旅の原則』 

 「イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。」

(出エジプト40:36〜37)

 全く予期しないときに雲が上がったこともあるのではないでしょうか。イスラエルの人々はシナイ山の麓でついに幕屋を完成させました。すると主の臨在をあらわす雲が会見の天幕をおおいました。その雲が上れば人々は旅立ち、雲が上らないと旅立たなかったというのです。

 時には疲れを覚え、休息が必要なとき、あるいは向かい風が吹く砂嵐のようなとき、そのような状況の中で出発を余儀なくされこともあったでしょう。また反対に、休息も取れて旅の準備が整っているとき、天候も穏やかで早く次の目的地に進みたいとき、そのようなときに雲が上らないで、理由も分からず足止めされたということもあったのではないでしょうか。

 しかし、雲が上ったときに旅立つ。これが旅の原則なのです。雲が上らないと旅立たなかった。これがこの世の寄留者である神の民の歩みの基本なのです。そのとき初めて荒野を安全に旅することが出来、道しるべもない暗闇であっても確実に目的の地へと前進することができるのです。

 その主の確かな導きを得るために日々みことばと祈りに励みましょう。そしてひとたび雲が上れば、たとえ私たちの計画とは違っても、その雲に従順でありたいと思います。必ず主ご自身が約束の地へと導いてくださいます。全知全能の主への信頼を揺るぎないものとし、雲が上るまではただひたすらにそのときを待ち望み、雲が上ればたとえ向かい風であっても主の導きに従っていきたいと思います。

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20130929 『家族への新しい気付き』 堀 肇先生

『家族への新しい気付き』 

「 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」 

             <ルカ15:24>

 「放蕩息子」の話と聞けば、教会に来ている人や聖書を読んでいる人なら、それは神から逃走した人間の堕落と回心と帰還の譬話であることを知っています。そしてそれは罪人を愛される愛の神の物語であることも。けれどもこの物語は、それに加えてとても示唆に富んだ奥深いメッセージを含んでいます。

 それは「家族」というテーマについて「新たな気づき」を与えてくれているということです。もともと家族の在り方について教えようとしている物語ではないのですが、家族問題を考えさせてくれるのです。例えばその一つとして、家族に問題が発生したとき、その原因となっている人は「○○ではないか」と単純に犯人捜しなどをしたりしてはならないということです。

 原因や理由はそんなに単純ではないのです。放蕩息子の父親のような深い愛を持つ親に養い育てられても、放蕩に身を持ち崩す息子が現れ出るということがあるのです。親が期待していたようにはならないことが起こるのです。家族問題発生の原点は複合的で単純ではないということなのです。この物語はそんなことを考えさせてくれます。これは家族に対する一つの気づきではないでしょうか。礼拝においてそんな「気づき」をこのポイントを加え、六つほど取り上げ、ご一緒に考えてみたいと思います。 

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20130922 『神ご自身の満ち満ちたさまにまで』 鈴木俊見神学生

『神ご自身の満ち満ちたさまにまで』 

「こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」              

 (エペソ3:19b)

 パウロは、神のあわれみと愛、キリストの十字架による赦しを信じる信仰によって、大胆に確信をもって父なる神の前にひざまずき、エペソの教会のためにみっつのことを祈っています。

ひとつめは、内なる人を強くしてくださいという祈りです。救われてもなお、罪との戦いがある中(ローマ7:22参照)で、神ご自身に強めていただく必要を覚えて祈っています。ふたつめは、すべての聖徒とともに、キリストの愛を知ることができるようにという祈りです。クリスチャンが一人でキリストの愛を知っていればよいのではなく、すべての聖徒とともに、そして知れば知るほど、さらに大きいことがわかるキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知ることができるようにとの祈りです。そしてみっつめは、神の満ち満ちたさまにまで満たされますように、という祈りです。これは、ここでのパウロの祈りの総まとめとも言えます。教会がキリストをかしらとして、しっか りと建て上げられること(4:11〜16)をパウロは願っています。

そして、神の栄光があるように、と祈りは締めくくられています。私たちも、キリストのからだである教会が建て上げられ、神の栄光が讃えられるように、このパウロの祈りの言葉をそのまま自分の祈りとして、教会の祈りとして、祈らせていただきましょう。

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