20131020 『今日、もし御声を聞くなら』 鈴木俊見神学生

 『今日、もし御声を聞くなら』 

「きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」

                      (詩篇95:7c〜8)

詩篇95篇は、キリスト教会の初期の頃から、礼拝の中で招詞として読まれている箇所のようです。それはこの詩篇には礼拝への招きが書かれているからです。しかし、この詩篇は単に礼拝への招きだけではなく、礼拝そのものについて重要なことを教えています。

第一には、主の前に出るためには主の招きが必要であるということです。私たちが罪人であることは主の前に出る者としてはふさわしくないことを意味します。一般人が王の前に出るためには王の召しが必要であるように、主の前に出るためには主の招きが必要です。

第二には、救いの岩、大いなる王、創造主である神を礼拝するということです。そのお方の業を覚える時、叫ぶほどの喜びとともに、伏し拝まざるを得ないような恐ろしさも覚えます。私たちは誰に礼拝をささげているのかをしっかりと自覚する必要があります。 

第三には、御声を聞く時の私たちの態度です。羊がその牧者の声を聞くように、主の声を聞く時、私たちは心をかたくなにしてはなりません。もし、心をかたくなにすれば、命を失うことになります。

救い主であり、創造主である主はいのちを得させようと語ってくださっています。私たちは心をかたくなにすることなく、むしろ教えられやすい器となって、主の声を聞きたいと思います。

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