月別アーカイブ: 11月 2013

20131117 『真の希望といのちに生かされる』 岩井基雄牧師

『真の希望といのちに生かされる』 

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。…神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」             (コリント15:20,57,58)

今日は召天者記念礼拝で、先に主のもとに戻られたお一人お一人の笑顔や人柄を思い起こします。それぞれの歩みは異なっていても、神様の愛の中にあって歩まれ、主の主権の中に置かれ、導かれてきたその歩みから私たちも教えられ続けたいと願っています。

聖書は私たちの真の希望は、この地上にではなく、帰るべき真の故郷、神の御国・新天新地にあると語っています。主イエスキリストを信じる者に与えられるいのちは、肉体の死を貫いて、栄光の生涯へと私たちを導くのです。そのためにこそ、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして裁きを受け、死に打ち勝ってよみがえられたからです。それは初穂であり、全ての人に用意されている希望なのです。そして、自らの罪を認め、悔い改めて神に立ち返るとき、どんな時であっても、神は私たちを真の勝利へと導いてくださいます。その勝利は、今の歩みに大いなる力を与えます。どのような状況の中に置かれようとも、堅く立って動かされることなく、神の愛のわざを喜んで行う ことができるのです。全ての労苦が主にあって無駄ではないからです。私たちもまた、この主にある真の希望といのちに生かされて、今を雄々しく歩むことができるのです。

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20131110 『福音の豊かさに生きる』 岩井基雄牧師

『福音の豊かさに生きる』 

「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」                        (1コリント15:3-5)

 「福音」が再発見される必要があると語られます。聖書が語る「福音」ではなく、「救い」にやや偏った福音理解ゆえに、それに生かされるいのちの輝きが十分でない…というような指摘は重要な視点を私たちに与えるでしょう。聖書全体における神の民「イスラエル」の歴史的歩みから、私たちへのチャレンジ、天地創造から新天新地への私達の歩みの全体から正しく「福音」を理解することは、とても重要だからです。

 そこには「救い」に関する理解の薄さが指摘されます。罪贖われて終わり…ではなく、私たちがこの地上にあってどう生きるのか、真に主の復活の希望に生かされ、それを日々の歩みの中で表しているのかが問われます。永遠のいのちに生かされる時、私たちは正しく自分の死を背負いながら、主に従うものとされ、この時代にあってこそ、真に生きるものとされていくことができるのです。

 コリントの教会の中で問われたことは、まさにそれでした。そして私たちもまた生き様が問われています。永遠のいのちを与えられた者として、この地上の生涯をどう歩むのか。問われ続けたいと願います。よみがえりの主が弱い私たちと共におられますから。

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20131103  『福音の豊かさに生きる』 岩井基雄牧師

『福音の豊かさに生きる』 

「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」                        (コリント15:3-5)

 「福音」が再発見される必要があると語られます。聖書が語る「福音」ではなく、「救い」にやや偏った福音理解ゆえに、それに生かされるいのちの輝きが十分でない…というような指摘は重要な視点を私たちに与えるでしょう。聖書全体における神の民「イスラエル」の歴史的歩みから、私たちへのチャレンジ、天地創造から新天新地への私達の歩みの全体から正しく「福音」を理解することは、とても重要だからです。

 そこには「救い」に関する理解の薄さが指摘されます。罪贖われて終わり…ではなく、私たちがこの地上にあってどう生きるのか、真に主の復活の希望に生かされ、それを日々の歩みの中で表しているのかが問われます。永遠のいのちに生かされる時、私たちは正しく自分の死を背負いながら、主に従うものとされ、この時代にあってこそ、真に生きるものとされていくことができるのです。

 コリントの教会の中で問われたことは、まさにそれでした。そして私たちもまた生き様が問われています。永遠のいのちを与えられた者として、この地上の生涯をどう歩むのか。問われ続けたいと願います。よみがえりの主が弱い私たちと共におられますから。

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20131103 『真実な神に遣わされ』 岩井基雄牧師

 『真実な神に遣わされ』 

「わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」

(ヨハネ7:28,29)

安息日に行われた、38年間病いであった男性の癒しを巡って、イエスに対する様々な議論が交わされていく。

 自らに殺意を持つ人々の前に、公然と語るイエスの姿にエルサレムの人たちは動揺を覚えたようだ。しかし、ユダヤ当局者達はイエスに手を出すことができない。主の時が来ていないからではあったが、そこには人への恐れが伴っていた。イエスがガリラヤの出身であると認識していた人々は、イエスを救い主・キリストとして理解しないし、認めようとしない。そしてどんなに主が真の主権者、真実な神から遣わされた者だと語っても聞く耳がなかったのである。それは神の真実さ、真の主権を本当には理解していなかったからであった。自らの理解の中でしか、神を知ることができない者、イエスのわざにしか心を留めない者も主イエスに躓いていく。しかしそこにさえ、不思議な神 のみわざがあった。

 私たちも神を真に知り、主権者なる神によって遣わされた者のことばを受けっていく責任がある。その時私たちもまた、遣わされる者とされていくことができる。

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