月別アーカイブ: 12月 2013

200131222 『神の愛に包まれて』 岩井基雄牧師

『神の愛に包まれて』 

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」          (ルカ2:11)

 救い主イエス・キリストの誕生は、ローマ皇帝の住民登録への勅令さえも用いて、神のみ手によって導かれていく。被支配の中にあった神の民の救いの希望は、小さな赤子の誕生を通して来る。しかし、その方こそ真の王であり、神の子イエス・キリストであった。

 ふたりの貧しい婚約者たちを神はお用いになった。なぜ彼らが選ばれたのか分からない。しかし、主は心をご覧になられる。彼らの真摯な信仰の姿勢、へりくだった心を良くご存知であったのだろう。貧しい彼らを主は選び、救い主の誕生に関わる人々の拒絶さえ、主はご存知であったのだろう。私たちの頑なな冷たい心の中に、いや罪にまみれた心にこそ、救い主は真の光を届ける…。その愛のメッセージが私たちにも届けられている。

 最初に救い主の誕生の知らせを聞いた羊飼いたちは、人々から時には見捨てられるような存在であった。定住できず安息日を守れない彼らは罪人とさえ呼ばれていたのだ。しかし、救い主の誕生の知らせは、最初に彼らに届けられた。神はどのような人々をも見放さず、見捨てず豊かな愛を注がれる。羊飼いたちは、御使い達の素晴らしい賛美、飼い葉桶に寝ておられるという救い主のしるしを頼りに、全世界への喜びを届けるものとして用いられる。あなたもまた神の豊かな愛に包まれている。あなたはどう応答するだろうか。

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20131215 『あなたのおことばどおり』 岩井基雄牧師

 『あなたのおことばどおり』 

「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」

(ルカ1:38)

人生の中で待ち望むことそのものを問われる事が私達にはあります。そこで私たちは自分の内側にある希望が問われるのです。

 救い主キリストの父母として用いられていくヨセフとマリヤは婚約中にそれぞれが、御使いを通してその信仰が試されたとも言えるでしょう。そして彼らはその試練の中で、主の約束とことばに信頼するように招かれました。そして主は彼らを支える人々を用意されていました。それが親戚のザカリヤとエリサベツでした。子が与えられるという人間的な希望を失った彼らを用い、人々を主に導く備えとなるヨハネを誕生させて下さったのです。人生の試練の中で、私たちも、真に信頼できるお方がだれなのか、そして本物の希望はどこにあるのかを明確にしていく必要があるのです。

 マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と語り、自らを主に心から委ねました。その献身の姿を主は喜び、そして用いて下さったのです。私たちは何を待ち望んでいるのでしょうか。自分の希望の実現のみを待ち望み易い私達です。主からの全てのものを受け取る信仰の成熟を与えられていきましょう。

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20131208 『渇いているものが満たされる』 岩井基雄牧師

『渇いているものが満たされる』 

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」

(ヨハネ7:37,38)

クリスマスの喜びは、私たちの心の空しさ、渇き、孤独が主イエス・キリストによって癒され、満たされることによる。この仮庵の祭りは貧しさの中にあって主の隣在を覚え、主とともに歩むことにもあった。またこの時期に主のご降誕があったのではないかと考える学者もいる。主イエスの時代には仮庵の祭の期間中、ギホンの泉から黄金の器で水が運ばれ神殿の祭壇に注がれた。まさにその時にこの主のことばと招きがあった。真の渇きを自覚する者こそが、主のもとに行く恵みにあずかる。最初に主ご自身のもとに招かれたのは羊飼いであったことにも、主の愛と恵みがあるであろう。

また、仮庵の祭と終末の視点には旧約の預言においても関連性があり、生ける水の川はエルサレムから流れ出る(ゼカ14:8‐19)。それは主の神殿の真の意味であり、神が私たちとともにあるというインマヌエルの預言の成就も真の神殿である主イエスによってなされ、聖霊なる神の恵みを通してさらに深まる。主は私たちの弱さをよく御存じで、私たちを招いて下さる。

自らの渇きを認め、主のもとへと行き、満たされる者でありたい。

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20131201 『主を待ち望む』 鈴木俊見神学生

『主を待ち望む』 

「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。」    ルカの福音書2:25

教会暦では、待降節は11月30日に最も近い日曜日から始まり、1月6日まで続きます。待降節がクリスマスで終わらないのは、それが単にキリストの誕生を祝うだけの期間として考えられているのではないことに理由があります。

ルカの福音書に出て来るシメオンは、正しく、敬虔な人物でした。イスラエルの慰められることを待ち望んでおり、聖霊が彼の上にとどまっていました。それは、彼が旧約聖書の教えを十分に知り、従っていたこと、また、預言されていた神様の救いの約束をもよく理解し、それを信じて待ち望んでいたことを意味しています。ある日、彼は神殿に連れて来られた幼子イエスを見、その手に抱き、「私の目があなたの御救いを見た」と言って、神様の救いの約束の実現を確信しました。

イエス様が誕生してから約二千年たった時代に生きている私たちは、神様が約束を実現してくださったことを覚えると同時に、さらに神様の約束があるということを覚える必要があります。それは、再びイエス様が来られることについてです。私たちもまた、神様の約束を聖書からきちんと知り、主の教えに忠実に従いつつ、主を待ち望みたいと思います。この降誕節に、キリストの誕生を覚えて感謝するとともに、再臨の約束を覚えて待ち望むときを過ごしましょう。

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20131124 『疑いを解くために』 岩井基雄牧師

『疑いを解くために』 

「民はみな、それを認めて、それでよいと思った。王のしたことはすべて、民を満足させた。それで民はみな、すなわち、全イスラエルは、その日、ネルの子アブネルを殺したのは、王から出たことではないことを知った。」

(サムエル3:36-37)

問題が表面化するとき、私たちはその問題だけを取り扱いやすい。しかし、本当の課題はその内側にある。

ダビデの軍師ヨアブによってサウルの軍師アブネルは殺害された。その前に、ヨアブはアブネルの策略をダビデに指摘するが(25v)、この問題は、ヨアブの兄弟アサエルがアブネルによって殺されたことに起因している。しかし、確かにもう一方にアブネルの罪深い性質もあったであろう(6,7v)。しかし、ダビデはアブネルの提案を受け入れ和解へと向かい、妻であったミカルを再び取り戻すことになる。その背後には、アブネルがのダビデへの誓いを理解し(9,10v)、イスラエルの長老をも説得していた経緯があった(17-19v)。人間の策略や問題に妨げられず、神の御旨は不思議に実現へと向かう。不思議な御手がそこにあろう。しかし、それを受け止められないヨアブがアブネルを殺害してしまう。

民がそれをダビデによるものであると疑わないようにダビデはアブネルを手厚く葬り、悲しみを豊かに表す。そして民はそれを良いとした。事の善悪をどこで判断するのか内側が問われる。

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