月別アーカイブ: 1月 2014

20140119  『主の前の責任』 サムエル4 岩井基雄牧師

 『主の前の責任』 

「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださったは生きておられる。…今、私は彼の血の責任をおまえたちに問い、この地からおまえたちを除き去らないでおられようか。」

(サムエル4:9,11)

私たちの日々の歩みや、決断を伴う行動には、様々な思惑や計算が働くことがある。しかし、主はその心のうちにある動機を問われる。私達の行動には責任がある。

アブネルという強力な支持者を失ったイシュ・ボシェテは気力を失い、イスラエルの民もまたおびえた。しかも、イシュ・ボシェテの側近の部下には、サウル家に恨みを持つと思われるバアナとレカブがいた。彼らは、イシュ・ボシェテを殺害し、その首をはね、ヘブロンのダビデのもとに来て、これを進呈した。この2人も、自分たちの浅ましい考えに基づき、ダビデが喜んでくれると思い、褒賞を期待してやって来たのであろうが、その思いに反して、彼らの受けたものはダビデによる激しい叱責であり、無惨な処刑であった。彼らも、以前のアマレク人のように、主を待ち望み、自分の手で復讐することを極力避けようとするダビデの敬虔な思いを推し量ることが出来なかったのである。イシュ・ボシェテの首は、丁重にアブネルの墓の中に葬られた。それは神の民としての誠実な責任ある行動であった。私たちは、様々な問題を抱える中で、どう行動し、決断していくであろうか。

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20140126 『神から受ける慰め』 コリント1 岩井基雄牧師

 『神から受ける慰め』 

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」                         (コリント1:4)

コリント教会にあった問題は、決して単純なものではなく、また現代の私たちに無関係なものでもない。多くの共通点があり、主の教会が通る闘いがそこに描かれている。しかし、この第二の手紙の中にあっては、コリントの教会が主の前に悔い改め、変えられている姿を喜ぶパウロの心も描かれている。主の教会や私たちは変えられ続けていく希望がある。

そして、その希望の原点には神様から受ける恵みの慰めがある。その慰めは、それを受けることによって、他のどのような苦難の中にいる人をも慰めることができる力強い慰めだというのだ。慰め主なる神の本質を私たちが知り、それを豊かに味わう時、私たちの人生そのものが変えられ、そしてどんな者をも主は用いて下さる。パウロ自身が通った多くの苦難や痛みを通して、主の教会が力を受け、慰めを受け、恵みの中にあって前進していくのだ。なお問題や課題が残っていた故に、この手紙が存在している。しかし、そこにこそパウロの祈りがあり、主の取り扱いがあり、教会に進むべき方向が明確に示される。パウロはあのコリントの人々を「誇り」として表現する。私たちの歩み や人生には、希望がある。主がともにいて下さり、慰めの器として用いて下さる。

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20140112 『私もあなたを罪に定めない』 岩井基雄牧師

『私もあなたを罪に定めない』 

「イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」 (ヨハネ8:11)

この部分は、有力な古い写本に欠如しており、文体等からも、本文に含まれていなかった可能性がある。しかし、私たちはこの出来事の中に、救いと赦しの本質を見ることができる。

姦淫の現場でとらえられたこの女性がイエスのもとに連れてこられたのは、イエスを告発する理由を得るためであった。姦淫は十戒の中でも禁じられており、違反した場合には石打による死刑に処せられた故に、律法学者やパリサイ人がイエスに尋ねるまでもなく、答えは明白であった。しかし、彼らがイエスのもとへやって来たのは、女を赦せば明らかに律法違反であり、石打ちを認めるなら、イエスが教えてきた愛とも反し、ローマの法秩序を無視する者として訴えることが出来たのだろう。しかし、女性だけが連れてこられた背景には、策略の可能性も小さくない。

たとえ策略に嵌められたとしてもこの女性は明らかに罪を犯し、裁かれて当然であった。しかし主イエスは、彼女と同じく身をかがめ愛を注ぎ、彼女を裁こうと石を携えてきた人々の心の闇に光を当てられた。ただ一人彼女を裁くことのできる主も、彼女を裁かず、赦しを宣言された。彼女の驚きを思う。しかし罪赦された者としての歩みへと主はこの女性を、そして私たちを導かれる。主の赦しと救いは、私たちにいのちと力を与える。

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20140105 『日々新たにされて』 岩井従男師(脇町キリスト教会名誉牧 師)

『日々新たにされて』 

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

(コリント4:16)

 明けましておめでとうございます。希望を抱いて新年を迎えられたと思います。今年、私に与えられた御言葉はコリントの手紙からです。パウロはコリントの町に来た時には、弱さを覚えていましたが、神様は「恐れないで語り続けなさい。この町にはわたしの民がたくさんいる」と言われ、一年半腰を据えて伝道しました。

有名な愛の章はコリント13章に、また復活の章はコリント15章にあり、コリント12章には第三の天に引き上げられ、「私は弱い時にこそ強い」という言葉を残しています。

私も最近、全身が痒くてたまらなくなったり、歯が弱くなって食事に苦痛を伴うような、外なる人の衰えを痛切に感じるようになってきました。しかし神様は、私たちのために苦しみも涙もなく、死もなく争いもない栄光の国を用意していて下さっているという約束を覚える時に、喜びに踊るようになるのです。内なる人は日々新たにされるのです。この後を見ると、今の時の軽い患難と、永遠の重き栄光が与えられるという約束がされています。この世にいる限り、患難は免れません。

主は「勇敢でありなさい、わたしは世に勝った」と仰っています。この年、この約束の上に立って、前進しようではありませんか。そして日々にキリストと交わり、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていこうではありませんか。

応答賛美 新聖歌382 心から願うのは

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20140101 『主が与えて下さる志 』 岩井基雄

 『主が与えて下さる志

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」        (ピリピ2:13,14)

  新年明けましておめでとうございます。

 この新しい一年も、主にあって共に歩める幸いを感謝しています。昨年は清瀬教会にとっても30周年の恵みの節目となる年でした。皆様にとってはどのような一年だったでしょうか。又この新しい年、どのような思いを持って始められたでしょうか。

 ここでは、ピリピ教会の不一致の問題を取り扱う文脈の中、主なるキリストのへりくだり、謙卑に倣うようにとのうながしがあり、そこにある恵みによって歩むようにとのチャレンジがあります。「救いの達成」は、主の憐みの中にあって、主が私たちのうちに御子キリストの似続ける歩みを与えてくださることにあります。そのことに努めるようにとのチャレンジは、弱い私たちにとって、主への従順を学び続ける恵みとなっていくでしょう。そしてそれが個人ではなく、私達へのチャレンジであることにも目を留めたいと願います。私たちの成長は、一人だけでなされることではなく、主にある交わりの中にあってなされていくことだからです。私たちはその成長・成 熟への志を持ってあらゆる事柄をつぶやかず、疑わずに忠実になすことが求められています。その日々の歩みの中にあってこそ、私たちの歩みは整えられ続け、非難されるところのない純真な者として、主の御言葉をしっかりと握り、どのような社会や苦難の中にあっても「世の光」として輝いていくことができるというのです。

 私たちの弱さをも超えて働いてくださる神様への信頼が問われます。苦難や怖れや焦りの中にあっても、私たちは主に信頼し、みことばを握り、不平や疑いから離れ、主と共に歩んでいくことを主が助けてくださるのです。主は私たちを祝福しようと待っていて下さいます。この年、主の愛と恵みの中で、主を愛し信頼し従う歩みを続けさせて頂きましょう。

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20131228 『目を覚まし、堅く信仰に立つ』 岩井基雄牧師

『目を覚まし、堅く信仰に立つ』 

「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行いなさい。」

(コリント16:13-14)

  エルサレム教会への献金は、教会の貧しさを共に苦しみ、受けた霊的恵みを覚えて、教会の交わりの広がり、また一致のしるしとして行われた。さらに若き伝道者テモテへの配慮を求めるパウロのことばの中にはコリント教会への愛のチャレンジがある。またアポロではなく主を待ち望むようにとの導きもあった。

 そして、「目を覚まし、堅く信仰に立ち、男らしく強くあること、いっさいのことを愛をもって行う」ことが求められている。どの時代にあっても、どの場所にあってもこのチャレンジは主の教会、そして私達へのチャレンジである。霊的な眼を開いて、この時代を主とともに主の教会が生き抜いていく必要がある。主の御言葉による明確な信仰に立ち、私たちは主の力によって強められていく必要がある。そしていっさいのことを主の愛によって行うのだ。それは主が私たちを限りない愛で愛していて下さっているからだ。 主にある交わりは豊かに広がり、いのちの恵みを共にする。来る新しい年も、心から主を愛する者、すべてを愛を持って行う者とさせていただこう。

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