月別アーカイブ: 3月 2014

20140323 『赦し、慰めてあげなさい』 コリント2:1-11 岩井基雄牧 師

『赦し、慰めてあげなさい』 

「あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。… もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。」

(コリント 2:7,10)

主の教会の中にあっても様々な誤解や人間関係の問題が起こることがある。初代教会も例外ではなかった。パウロの訪問予定の変更や、彼の手紙について、様々な誹謗があったようだ。しかし、主の教会は、悔い改めへ導かれていった。教会に様々な問題が起こるとき、それは教会の成長の大きな機会となる。私たちはあらゆる場合に主の御心を求め、ともに悔い改め、成熟を目指していくことができる。

悔い改めた教会がパウロを誹謗した者を処罰し、処罰された者は反省していることを、パウロはテトスから聞いた。そこでパウロはその人を心から赦すよう教会に勧めている。主の教会の交わりの素晴らしさは、赦しあえることにある。しかもそれは単に表面的な赦しではなく、主が私たちを赦して下さったゆえに赦しあえる恵みに基づくものである。パウロは、自らもその人を赦すことを宣言する。赦しの恵みは、決して一方的なものでは終わらない。主の愛は深く広く、人々を取り扱い、さらなる恵みへと私たちを導いていく。そこにこそ主の教会の素晴らしさがある。私達もまた、主に赦されたものとして、心から赦すもの、主にある兄弟姉妹を慰める者とさせていただこう。

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20140316 『信じる人はみな』 ローマ9:30-10:13 鈴木俊見神学生

『信じる人はみな』 

「キリストが律法を終わらせられたので、 信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ人への手紙10章4節)

パウロはローマ人への手紙の8章までで福音の素晴らしさを語ってきました。しかしパウロの心には、その素晴らしさにもかかわらずイスラエルが救われていないという大きな悲しみがありました。信じた異邦人たちの中にもそのことに疑問を持つ者がいたようです。パウロはその疑問に答えながら、なぜイスラエルが救われないのかの理由を述べていきます。

その理由は彼らが律法の行いによるかのように義を求めたこと、そして神の義に従わなかったことでした。そもそも律法とは人の罪を明らかにするものであって、その行いによって救われるようにと神様が与えてくださったものではありません。イスラエルの誤りは、神が示してくださった規準を受け入れずに、自分たちにもできると考えた律法を守ることを規準にしてしまったことでした。神に義と認められるのは、神様が与えてくださった信仰のみによるのであり、そこに信仰ではないものが入り込んではなりません。もし、信仰ではないもの、律法の行いによるという考えが少しでも入り込んでしまうなら、それはキリストの十字架の死を台無しにしてしまうことになります。

私たちはいつも信仰によってのみ救われることを確認し、感謝したいと思います。また、罪を示されるたびに悔い改め、それすらもすでに赦してくださっていたというキリストの十字架の救いの素晴らしさ、福音の奥深さを味わいましょう。

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20140309 『神のわざが現れる』 ヨハネ9:1-12 岩井基雄牧師

『神のわざが現れる』 

「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」

(ヨハネ9:3)

生まれつき目の不自由な人を前にして、主イエスの弟子たちは、「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。」と主に尋ねた。その本人がどのように思うのか、思いやりや配慮を欠くことばの背後には、因果応報的な考え方がある。

様々な問題が起こった時、その原因を追究する姿勢は重要であるが、犯人探しの無責任なあり方もそこに露呈される。主イエスは全く逆の視点でその人を見つめた。それはその人を通して、その痛みを通して神がわざを行われ、栄光を現されるという視点だった。実際に主は彼に触れ、具体的な愛と恵みを与えた。その方法はユニークだが、人からの施しを受けることしかできなかった本人にとって、自ら歩みだす大きな励ましとなっている。そしてこの後彼は大胆にその喜びと感謝を表現していくことにある。目の癒しにとどまらず、彼の人生を、心そのものを光へと導いた主こそ、真に「世の光」である救い主であった。

闇の中に輝く光は、人の罪を赦し、いのちある光へと導くだけではなく、その人を通して他の人々が光へと導かれていくいのちの連鎖を生み出していく。弱さを持つ人々を通して神のわざが表わされていく、そこにこそ神の愛といのちの輝きがある。

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20140302 『主のことばを守るとき』 ヨハネ8:48-59  岩井基雄牧師

『主のことばを守るとき』 

「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」                          (ヨハネ8:51)

仮庵の祭りの出来事の中にあって、イエス・キリストはユダヤ人達に「誰でも渇いているものはわたしのもとに来て飲みなさい」(7:37)、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は…いのちの光を持つ」(8:12)と語られ、真理へと招かれた。そして主のそれらのメッセージを通して、彼らからイエスを信じる者達が起こされてきた(30v)。しかしそれは十分な信仰ではなかったようだ(45v)。

真の信仰、そして信仰の成熟は、イエスのことばにとどまることによってもたらされるいのちの関わりだからだ。自らのプライドを捨て、神から遣わされた者として、イエスを受け入れ、そのことばを信じ従う者こそが、キリストのいのちを受け、生きる者とされるからだ。時を越え、アブラハムが生まれる前からわたしはいる「エゴー・エイミ」と語られるキリストのことばに心から耳を傾けていくものこそが、真実に神のいのちに生きる者とされるのである。イエスのことばを守るものが決して死をみることはないと主は私達にもチャレンジされる。私達は、キリストのことばに生かされているだろうか。そのことばをどのように受け取っているだろうか。主からのいのちへの招きに心 から応答する者でありたい。

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