月別アーカイブ: 4月 2014

20140427 『「もしも」の生き方から神の栄光を見る人生へ』 松村隆先生<元 ウィクリフ宣教師>

『「もしも」の生き方から神の栄光を見る人生へ』 

主を信じるということは、「イエス様を罪からの救い主として信じます。」と言ってキリストに人生を捧げた日、それで終わることではない。多くの人が、イエス様に救われて、天国行きの切符を手に入れて、それで信じる業が終わったように勘違いしている。後は、自分の知恵の範囲で分かるところだけでキリスト者生活をおくってしまいがちである。それでは、この地上での一人一人の人生の意味がなくなってしまう。

罪という概念も、良く間違うのではないか。日曜学校で、良く教えられる「けんかは罪だ」のレベルではなく、神のみこころを知りながら従わないこと、神の力が示されているのに信じないことが罪だ。

イエス様は、ラザロのよみがえりの奇跡をなさる時、人々の信じない心、キリストの前で常識的な考えしかできない人々に心を痛め、憤りさえ覚えながらその業をなされた。イエス様の涙の奥には、深い複雑なものがあったに違いない。主は、マルタに人の知恵では理解できない領域で、人を死よりよみがえらされる永遠の力をお持ちの救い主を信じるように挑戦された。私たちも日々、自分の知恵ではどうすることもできない領域で、よみがえりの主を信じるようにみことばからの挑戦を受けているのではないか。常識で生きる私たちは、FBやTwitterで愚痴を言い、誰かに話して何か解決したように思い込んでしまう。むしろ、「信じるなら栄光を見る」と言ったではないかという主のお言葉に耳を向け、「主よ。あなたを信じます」と告白して信仰による一歩を踏み出すとき、私たちは、世に証し者として立つことができる。

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20140420 『復活の主との出会い』 ヨハネ20:11-21 岩井基雄牧師

『復活の主との出会い』 

「イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』」                         (ヨハネ20:21)

主イエスを丁寧に葬ったのは、サンヘドリンの議員であったアリマタヤのヨセフであった。主への愛を勇気をもって示したのだ。

最初に墓に行ったのは、マグダラのマリヤと他の女性達であった。彼女たちも又、自分たちにできる限りのことをしようとした。墓の石が取り除けられているのを見たマリヤは、それを報告しに戻る。そしてペテロとヨハネと共に再び墓に戻ってきた。墓が空であり、主の身体がないことを確認した二人が戻る中、マリヤはそこを離れることができなかった。そこにも彼女の愛が示されていよう。

このマリヤは主に七つの悪霊を追い出していただいた女性であり、心から主を愛していた。彼女は天使をも主イエスをも最初は理解できないほどの悲しみを覚えていたのであろうか。しかし主は、その彼女に最初にご自身のよみがえりを示された。主は彼女の愛に応えて下さり、失望に喜びと希望を、そして彼女に主のよみがえりを伝える使命を与えられた。そして主は私達にも真の希望と栄光の勝利を示され、平安のうちに私たちを遣わして下さる。どんな悲しみをも包み、勝利と希望を与える主を心から愛し仕えたい。

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20140413 『一粒の麦』 ヨハネ12:12-26 岩井基雄牧師

『一粒の麦』 

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

(ヨハネ12:24)

今日から土曜日までを受難週であり、主イエス・キリストの十字架を心深く覚える時とさせていただきたい。

主を通して再度いのちを与えられたラザロの存在もまた、祭司長たちにとって疎ましいものであり、主と共に命が狙われた。主をもてなし、図らずも主の葬りの用意をしたマリヤ達の姿は私たちに、どこに心を向けているかとのチャレンジでもあろう。

ろばの子の背に乗る、主のエルサレム入城は、ゼカリヤ9章の預言の成就でもあった。イスラエルの王が来られるとの成就は、人々の期待に反し、平和のろばの子によるものだった。真の王は、ご自身が一粒の麦となり、いのちがけで主の民を愛するお方であり、異邦人をも含む全ての人に、救いと勝利をもたらす王であった。その栄光は十字架と復活によって成就する。

その主に仕える者は、そのいのちがけの愛に応答していくのだと、主は私たちを招かれる。その招きは祝福と愛に満ちている。この受難週に、私たちは主の愛と恵みを受け止め、主に従いたい。

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20140406 『私は今は見える』 ヨハネ9:13-23 岩井基雄牧師

『私は今は見える』 

「彼は言った。『あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。』」

(ヨハネ9:15)

生まれつき目が不自由だった男性が主イエスによって癒されたことが様々な議論を生んでいった。それはその癒しの日が安息日だったからだ。主はなぜ敢えてその日を選ばれたのだろうか。そして他の病の人々をも主は、安息日にお癒しになった。真の安息がなんであるのか、本当に癒される必要があったのは誰であったのか、主は私達にも問いかけている。

彼の証言は真実であった。かつては見えなかった者が、見えるものとされた。主イエスによって自分の目が開かれたという証は。安息日の癒しのわざを裁こうとする人々にとっても、強烈な証となっていく。両親でさえも恐れたユダヤ当局者たちを彼は恐れない。そして「神の栄光」が彼を通して表わされていく。目が開かれていく人生は、私たちすべての人に備えられている。しかし、自らが盲目であること、罪によって心の目が閉じられていることを認めなければ、私たちはその恵みの豊かさを知りえない。主は私たちを心から愛し、私たちの人生を豊かに変えようとしてくださっている。そこにこそ驚くべき恵みがある。

次週 【聖日礼拝】 『一粒の麦』 ヨハネ12:12-26 牧師

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20140330 『主にある喜びと悲しみ』 2サムエル6章 岩井基雄牧師

『主にある喜びと悲しみ』 

「ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終え

てから、万軍のの御名によって民を祝福した。」

(2サムエル6:18)

 主の恵みによって新しい都に移ったダビデが、まず最初に導

かれたのは、主の契約の箱をその都の中心に据えることであ

った。その契約の箱は主の臨在の象徴であったゆえに、その

優先順位は大切な意味を持っていた。ダビデは早速実行に移

したが、主の律法に則して事を運ばなかった。もともと神の箱

は、牛車に載せるべきものではなく、レビ人のケハテ族に属す

る者が肩に担うべきものと定められており、また、聖なる箱に触

れる者は、たとえケハテ族であっても必ず死ぬとあらかじめ警

告されていたのだ(民4:14‐15)。それに加えて、ウザ自身の慣

れや心の状態の問題があったであろうか。

問題が起こった後、ダビデは綿密に神の御言葉を調べた上

で、改めて神の御旨通りに神の箱を迎えることが出来た.彼は文字通り喜び踊ってこれを迎えたが、妻ミカルは父サウルの影響やプライドが邪魔をしてか、ダビデをさげすみたしなめた。しかし、ダビデはそれを意に介さず、かえって妻のほうを戒め、主ご自身の恵みと憐れみ、そして主の臨在の喜びを豊かに表現したのである。失敗を通してこそ、その喜びを深く味わったのだろうか。主の恵みの豊かさはそこにもある。

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