月別アーカイブ: 8月 2014

20140824「憐れみと真実の約束」Ⅱサムエル記9章 岩井牧師

「ダビデは言った。『恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。』彼は礼をして言った。『このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。』」                       (Ⅱサムエル9:7,8)

 ダビデとヨナタンの真実な友情は、具体的な愛の実践へと繋がった。愛は行動を生む。サウルとの関わりで苦しみ、追われたダビデも「サウルの家の者」としての残されている者を捜す。そこにも赦しと恵みを見ることができるだろう。主は人を扱われる。

 ヨナタンの子、メフィボシェテが残されていることが分かった時、ダビデは自ら出向き、愛を注ぎ、サウルの土地の全てを彼に戻し、彼を自分の息子の一人のように迎える。メフィボシェテは両足の不自由さを抱え、ロ・デバルと呼ばれる不毛の地に住んでいた。愛や憐れみを受けるにふさわしくないと自覚していた彼を慈しみ、恵みを注ぐダビデの姿に、ヨナタンの真実さの実を見ることができ、またダビデを通して誕生する救い主、主イエスの、私達への愛と憐れみを見ることができるであろう。

 一人の真実な歩みが、次の真実の歩みへと繋がっていく。霊的な祝福を愚かな私達が受けることが出来ることを感謝し、私達もまた、真実な歩みを続けさせていただこう。主は近い。

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20140817 『内なる人は日々新しく』 Ⅱコリント4:12-18 岩井基雄牧師

『内なる人は日々新しく』 

「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」                 (Ⅱコリント 4:15,16)

 私達は皆、弱い存在であり、欠けやすいもろい土の器にすぎない。また年齢とともに、弱さや衰えをさらに痛感し、自信も失いやすい傾向をも持っている。しかし、全てのことを働かせて益としてくださる主は、弱い私たち、いや死に向かう私達をこそ、主のいのちと栄光に輝かせてくださる。

 13節の「私は信じた。それゆえに語った。」とあるのは、詩篇116:10節の70人訳からの引用で、そこには「私は信じた。それ故に語った。そして私ははなはだしく卑しめられた」となっていて、苦難を招いてでも語る信仰の表明が表現されている。苦難の中にあってこそ、私たちは見上げるべき方が明確にされ、真に信頼できる方が誰であり、真の希望がどこにあるのかを教えられる。主は私たちに恵みを豊かに与え、感謝を満ち溢れさせ、神の栄光を現す者としてくださるのだ。それは私たちの内側に共にいて下さる主キリスト、また聖霊なる神の働きであり、私たちは、どんな状況の中にあっても、主なる方に全てを明け渡し、委ねる中でこそ、その勝利を日々味わわせていただけるのだ。

 主に自由に働いて戴き、日々新しくされる歩みを進もう

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2014.8.10 「よみがえりの勝利と主の愛」 ヨハネ11:17-45 岩井基雄牧師

『よみがえりの勝利と主の愛』 

「心の動揺を感じて、言われた。『彼をどこに置きましたか。』彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』イエスは涙を流された。…イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』」

(ヨハネ11:33-35,40)

 愛するラザロが病だときいた後も、なお二日とどまられた主は、その不在の時にさえ、彼らへの愛を表されていた。それは彼ら自身が神の栄光を見るためであった。

 「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」とのマルタのことばは、私たちの現実をも表しているであろう。私たちは目に見えるものに左右されやすく、依存しやすい。主はそれをも退けられたのであろうか。主の到着はラザロの死後4日であった。死の現実に痛みを覚えていたマルタに対し、主は「あなたの兄弟はよみがえります。」と明言された。目の前の問題しか見えず、いのちをも司る主に期待することを忘れる時、主は私達の信仰を呼び覚ましてくださる。また主は私達と共に涙を流してくださる方だ。それは人を支配する死への憤りと共に、人々の悲しみに寄り添われる主の愛の姿であったろう。そして主は疑いやすい人々を真の信仰へと導き、彼らが神の栄光を見ることができるようにと、ラザロを死からよみがえらせて下さった。それは私達の招きでもある。私達もまた、自らの愚かさを認め、主のすばらしさと栄光を仰がせていただく者とされたい。

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2014.8.3 「イエスの愛と犠牲」ヨハネ11:1-16 岩井基雄牧師

『イエスの愛と犠牲』 

「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」

(ヨハネ11:5,6)

 主イエスが、愛された街の一つがベタニヤだった。ここにはマリヤとマルタの姉妹がおり、彼女たちの兄弟のラザロが死に瀕する病で苦しんでいた。そのことを聞かれた後も、主はすぐに駆けつけることをせず、なお二日留まられたと聖書は記している。その理由は主が彼らを愛しておられたからだというのだ。

 愛しておられるならば、すぐに行く…それが私たちの理解の中心にはあるだろう。しかし、主は時を待っておられた。「もう一度ユダヤに行こう」と主が言われた時、弟子たちは、それがいのちを犠牲にする可能性がある事も示唆した。しかし主は、その犠牲を厭わない。ラザロがすでに死んだことを知っておられ、目を覚ましに行くのだという主のことばは弟子たちには理解できなかった。主のなさること、語ることは時に理解できない。しかし、トマスは、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」と語り、主と共に行くことを決意する。その決意がどれほど脆いかを後に明らかにすることになるが、弟子たちの決意や不安を、主はすべて受け止められたであろう。

 主の愛と犠牲の豊かさを私たちもまた、学び続けていく必要がある。そして弱さを超えて、主を愛する者とさせていただきたい。

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2014.7.27 「主とともにある勝利の歩み」 Ⅱサムエル8章 岩井基雄牧

『主ともにある勝利の歩み』  

「このようには、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。ダビデはイスラエルの全部を治め、その民のすべての者に正しいさばきを行った。」        (Ⅱサムエル8:14,15)

イスラエル全土を収めることになったダビデであるが、それはまた、主と共に、勝利を勝ち得ていく責任もあった。私たちの人生における戦いも、主と共に、祈りつつ進んでいくのである。

ダビデは、大いなる主の助けを受けて、ペリシテとモアブ(1‐2)、ツォバの王とアラム(3‐8)、エドム(13‐14)に対し、連戦連勝の祝福にあずかることが出来た。それは主の憐みと共に、彼の主への信頼と従順の証でもあった。

宿敵とも言えるペリシテに対する勝利については、すでに5章の後半に言及されている。モアブはもともとダビデと友好関係にあったのだが、何らかの謀反があったのだろうか。人は変わりやすい弱さを持っている。人に頼ってはならない。

北方のツォバは、アラム人の国で、ユーフラテス川流域にまで勢力圏を広げていた。彼らは、一度失った勢力を回復しようと出陣したが、ダビデはこれを打ち、多くの兵士を捕虜にした。主に信頼するときに与えられる不思議な逆転の勝利がある。

何よりも、彼らの勝利を与えられたのは主ご自身であった。そして、ダビデは正しくその全地を治め、正しいさばきを行う者とされていったのである。主と共に歩む人生は、主ご自身の勝利を見ることができる。私たちは真実に主に従う者でありたい。

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2014.7.20 「聖徒の不死」詩篇16篇 鞭木由行先生

「聖徒の不死」

「まことに、あなたは、私のたましいを  よみに捨ておかず、

 あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」

(詩篇16:10)

詩篇16篇はメシア預言の詩篇です。特に復活についての預言が語られています。この詩篇の学びを通して,今日は,主イエスの復活,また私たちの復活の確かさを考えたいと思います。ここでダビデは,前半部分(1-6節)にて神への信頼を、繰り返し繰り返し述べています。「私の幸いはあなた以外にありません」とまで,告白しています。私たちがどのような状況の中にあっても,幸いは神にしかないと告白できるのはすばらしいことです。

次に,後半部分(7-11節)において,ダビデは,そのような信頼がもたらす結果を述べています。ひとつは,神が助言をくださることです。「夜になると私の心が私に教える」(7節)のです。次に,神の臨在の内に歩む喜びと安心が語られています。「【主】が私の右におられるので,私は揺るぐことがない」(8節)そして,第三番目の結果が,復活の希望です。「あなたは私のたましいをよみに捨て置かず,あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」ダビデは,確信しています。神がご自分の聖徒を死んだら,見捨てることがありうるとはどうしても思えないのです。特にいつも【主】を前に置いたような人が,死ぬと神はその人について,一切興味を失ってよみに行かせるということが,どうしても信じがたいことなのです。ではダビデは生きたでしょうか。いいえ,彼は確かに死にました。こうして,この時ダビデのこの確信はメシアを預言するものとなったのです。

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2014.7.13 「土の器の中の宝」岩井基雄牧師

『土の器の中の宝』  

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」

(Ⅱコリント4:7)

旧約聖書においても神が陶器師として、私たちが神の手による陶器として記されている。<イザヤ64章、エレミヤ18章 等>

土の器にすぎない私たち人間だが、イエス・キリストにある栄光の希望(3:18)を与えられている者は、勇気を失わないで、真理を明らかにしていくことができる。そして神が、弱い私たちの心を照らし、神の栄光を知る知識を輝かせてくださるのだ。

このキリストの福音に基づく輝きは、土の器の中に入れられている宝だと聖書は語っている。その宝は「測り知れない力」を持ち、どんな状況の中にあっても、窮することも、行きづまることも、見捨てられることも、滅びることもない。それは、私たちの歩みにおいて、また死ぬべき肉体においても、イエス・キリストのいのちが明らかに示される事へと繋がっていく。

私たちの人生には、おおいなる希望と力といのちがある。だからこそ、私たちは苦難をも受け取り、その中にあって神の栄光を輝かせる歩みへと進み行くことができる。もし私たちの人生にそれが欠けているとしたら、何を点検する必要があるだろうか。どこが整えられていく必要があるだろうか。主ご自身の内に、希望と力といのちが充ち満ちている。それを受け取り続けたい。

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