月別アーカイブ: 8月 2014

キリストのことばとわざ

キリストのことばとわざ

「しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」                          (ヨハネ10:38)

先の「わたしと父とは一つ」というイエスの発言が、ユダヤ人の反感を更に深めていく。すでにユダヤ人たちはイエスがご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたことに対して殺意を顕わにしたが、ここでもイエスの言葉は死に値する神への冒涜的な発言と理解された。しかし、主イエスご自身は、ご自分のわざそのものから、ご自分が神の子であることを認め、それを知るようにと彼らにチャレンジされた。自分の理解を超えた神の存在の豊かに出会う時、そこには私たちがキリストのなさったわざに目を留めるようにとのチャレンジがある。キリストが神でなければできない奇跡のわざを主は歴史の中に刻まれた。私たちはそれをキリストの愛のわざとして、見るように招かれている。

ユダヤ人たちの暴虐の手を逃れるために、イエスは神殿を去って、バプテスマのヨハネが初めにバプテスマを授けていたベタニヤへ行かれた。かつてヨハネがイエスについて数多くの証言をした場所である。そして彼の証を聴いた人々がその真実さをキリストを通して認め知っていく。主は人の証の真実さをも用いて下さる。ことばにもわざにも力のある救い主キリストを、私たちもまた、力強く証していくことができる。主の恵みに生かされたい。

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20140629 『試練の中でどうやって「信じる」?』 ローマ8:28 金田豪 師

『試練の中でどうやって「信じる」?』  
「 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」       (ローマ8:28)

どうしてこんな事が起こるの?どうして神様は祈りに応えてくれないの?どうして神様はこんな事を許されるの?そう思った事はないでしょうか?クリスチャンになっても試練にぶつかる事があります。聖書はそんな試練を「喜びと思いなさい」と言います。でも苦しい中で、辛い中で、悲しい中で、どうしたら喜べるでしょう?そもそもどうして神様は私たちを試練に合わせるんでしょう?ローマ8章28節で神様はすべてを益としてくださる、と書いてあります。でも試練の只中にあるとそれが「益となる」とは思えなくなる時があるかもしれません。周りの人たちは「神様が何とかしてくださるから大丈夫」って励ましてくれるけど、本当にそう信じてるのかなって思う時があるかも しれません。
2000年にカナダの神学校を卒業して、2002年にアメリカで日本人教会の開拓を始めるまで、私は「すべての事を益としてくださる」神様の導きを体験しました。人の思いを遥かに越えた神様の導きは私の信仰の宝となりました。人生は荒野の旅のように、試練の連続です。口先で「神様がいるから大丈夫」と言うのは簡単ですが、本当にそう信じられないと試練の中でつぶされてしまいます。ローマ8章28節がどういう意味なのかを理解する時、私たちはどんな試練の中でも神様を体験し、信頼し続ける事ができるようになるのです。

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20140622 『主の働きの光栄』コリント3:1-18 岩井基雄牧師

『主の働きの光栄 』  
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」 
                     (コリント3:18)
旧約で約束された新しい契約は、モーセの十戒のように石の板に書かれるのではなく、人の心に書かれる。その時、人の心は聖霊によって、石のような固い心から柔らかい心に変えられていく。その心に、主は新しい契約として恵みの福音を書き付けて下さった。それがそのままパウロの使徒性の推薦状ともいえる。人が変えられていくことにこそ、いのちの証がある。
さらに、主イエスを信じる者に与えられる2つの恵みが語られる。第1にモーセが主に向く時に顔覆いをはずしたように、人が主に向けば顔覆いが除かれ、主は「生かす御霊」として信徒の内に働き、律法への隷属から真の自由へと解放して下さる。第2に、モーセが主の栄光を反映して顔が光を放ったように、主キリストを仰ぐ者は、鏡のように主の栄光を反映させることができる。この恵みは主を信じる者みなに与えられるのだ。それは消え去る栄光ではなく、栄光から栄光へと進み、弱い私たちが主と同じかたちに姿を変えられるという、驚くべき恵みの栄光へと向かう。それは私たちの歩み如何によるのではなく、御霊なる主の働きによる。そこに私たちの主にある光栄の人生と祝福がある。
栄光への生涯を歩ませて頂こう。

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20140615 『神のもてなし -ジュスト高山右近の信仰- 』 高 橋敏夫師

『神のもてなし -ジュスト高山右近の信仰- 』 

 
「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
  (ローマ1:17)
1549年(天文18)年8月15日、宣教師フランシスコ・ザビエルが、キリストの福音を携えて鹿児島にやってきた。ザビエルは、日本がまだ知らなかった西洋の宗教と共に、ヨーロッパの科学的思考や文化、芸術、医療など、さまざまなものを運んできた。しかし、キリスト教自体は、当時の権力者たちには必ずしも好意的には受け止められていない。特に、秀吉の死後、新たに幕府を確立しようとしていた家康にとって、この世の権力にも屈しないキリスト教信仰は、害毒でしかなかった。1614(慶長19)年、キリシタン禁制の徹底した取り締まりが全国に向けて発布され、各地で信者への弾圧と残忍極まりない迫害がなされるようになった。
その年、金沢の客将であった高山右近は長崎への追放、ひいては国外への追放命令を受け、年の終わりに遠くマニラへと旅立って行ったのである。私は、高山右近を自分の信仰の目標とし、一生追及していける歴史上の人物としている。右近の茶の湯の師匠である千利休を通して、キリスト教と日本文化の象徴である茶道の関係も学んだ。武将、茶人、信仰者である右近の人となりを、牧師であり茶人である私なりの視点で考察してみた。
<『キリシタン大名 高山右近を追え!』高橋師著「はじめに」より抜粋>

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