月別アーカイブ: 9月 2014

2014.9.28「主に喜ばれる歩み」Ⅱコリント5:1-10 岩井牧師

そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」                (Ⅱコリント 5:9-10)

 私達、主イエス・キリストにあるものは、真実の希望と勇気がある。外なる人が衰えても失わない勇気の根拠は、「復活のからだ」にあるからだ。地上の肉体は一時的であっても、復活のからだは永遠へと続く。それは主の復活のからだを思わされる豊かな、そして確かな希望である。だから、キリストにあるものは、この確かな希望に生かされていくことができる。ゆえに、土の器としての地上でのうめきも、真の希望へと向かううめきなのである。

 私たちの大いなる希望は、肉体からの脱却ではなく、再臨の主を迎え、栄光のからだを与えられ、死ぬべき肉体が永遠のいのちと希望に満ちた復活のからだにのまれてしまうことである。神が下さった御霊は、この希望の確実な保証でもある。

 このように主とのいのちある交わりが喜びの中心である故に、肉体にいるか肉体を離れるかは大きなことではない。私たちの永遠の目標は「主に喜ばれること」である。またこの肉体で行った善悪すべてについて、私たちは報いを受けると聖書は語っている。主にある者は「火の中をくぐるようにして」救われる(参照Ⅰコリ3:15)。だからこそ、実を結ぶ歩みを歩み続けたい。

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2014.9.21「主の教えを喜びとし」Ⅱコリント5:1-10 鎌田泰行KGK主事

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

(詩篇1:1-3)

詩篇一篇には二つの生き方が描かれている。「正しい者」と「悪者」の生き方である。正しい者の生き方は「水路のそばに植わった木のよう・・・時が来ると実がなり、その葉は枯れない・・・その人は、何をしてもさかえる」と描かれ、対照的に悪者は「風が吹き飛ばすもみがらのようだ」と描かれている。

正しい者として生きる秘訣は、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ(思い巡らす)」ことである。旧約聖書のダビデをはじめ、古の聖徒たちは主のおしえを喜びとして口ずさみ、その報いとして豊かな実を結ぶ人生を歩んだ。しかし、ただひとり完璧に「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」生き方をした主イエスはその従順の報いとしてさかえより先にさばきを受けられ、十字架の上で「木にかけられ・・・のろわれたもの」となった(ガラテヤ3:13)。

イエス様が私たちに代わって律法ののろいと神のさばきを受けたことにより、生まれたままでは主のみおしえを喜びとしない私たちが、主イエスへの信仰を通して、主のおしえに生きる祝福に与り、主イエスの受けたさかえにも与るようになる。

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2014.9.14「主へのささげもの」ヨハネ12:1-8 岩井牧師

「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」 (ヨハネ12:7)

 敬老の日の感謝礼拝を共に迎えることができることは、本当に感謝だ。歳を重ねていくことができることは、主の豊かな恵みであり、誰もが与れるわけではない。その恵みと憐れみを日々覚え感謝する生涯は、周りの方々にも喜びと感謝を分け与えていく。

 愛する兄弟ラザロの死を経験し、4日も経つという絶望の中で、マリヤは主イエスを迎えた。主がここにいて下さったならば…という彼女の悲しみを打ち破るように、主はラザロにいのちを与え、再びともに歩む者としてくださった。その喜びと感謝はどれほどであったろうか。彼女はその感謝を、具体的な犠牲と愛によって主に表わした。それは彼女が特別の時のためにと用意してあったもののようだ。どのように誤解されようとも、彼女の目は主に注がれ、主への愛を豊かに表わしたのであろう。しかし主は、それを「わたしの葬りの日のため」と表現している。

 マリヤがどのように主イエスの死を理解し、それに備えていたのか、聖書は明確には語っていない。しかし、豊かに注がれたその香油は人々の心に記憶にとどまり、この後、主の十字架とよみがえりの勝利の香り、記念の香りとなったのではないだろうか。

 死に備える人生ではなく、永遠のいのちへと備える人生の勝利は喜びと感謝と愛の豊かな実を結んでいく。主の愛を受けて

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20140907 「一人の人が代わりに死んで」ヨハネ11:45-57 岩井基雄牧師

「大祭司であったカヤパが、彼らに言った。『あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』」        (ヨハネ11:49,50)

 神は、時に不思議な人や状況を用いられる。悪い方向に向かう事柄の中にさえ、神は私達に恵みや祝福を用意してくださる。

 過越の祭の数週間前に、イエス・キリストのことを話し合うために、ユダヤ最高議会であるサンヘドリンが招集された。彼らは何とかして、人々の心がキリストへと向かうこと、また自分たちの立場を危うくするイエスを捕らえることを画策している。

 彼らは、イエスに信頼を置き、希望へと立ち上がろうとする歩みが暴動などに発展し、ついにはローマ軍が介入して、自分たちの存在が危うくなることを警戒したのだ(48)。彼らがイエスを殺そうとしていたことを、ヨハネはすでに幾度も言及している。確かに、キリストを十字架刑によって死へと向かわしめるのは、彼らのわざと言えよう。しかし人の思いや計画を超えて、神はご自身のご計画を持って、全てをおさめ導いてくださるのだ。ここでは当時の大祭司カヤパの唇を通して語られた言葉が、不思議にもキリストの十字架の死が持つ特別な意味と目的が暗示された(50‐52)。しかもそれは恵みが全ての民族へと及んでいく事へと広がっていく。神がなさることは時にかなって美しい。私達はどんな状況の中にあっても、神を待ち望み、神と共に歩み続けていくことが出来る。全ての民の贖いとなってキリストは死なれたからだ。

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20140831『ジェノサイドから20年~ルワンダから私が学んだこと』出 ジプト20:3神田英輔先生

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『ジェノサイドから20年~ルワンダから私が学んだこと』  「 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」                       (出エジプト 20:3)

1994年4月6日から100日間で80万~100万人が犠牲になったルワンダにおける大虐殺から20年。6月から7月にかけて20年後を確認するためにルワンダを訪れてきました。

ジェノサイド当時のルワンダ人口は約700万人。うち82%はイエスを救い主と告白。教会堂が虐殺の現場となり、クリスチャンが顔見知りのクリスチャン隣人を惨殺したのです。表面的には見違えるような復興を成し遂げたように見える今、人々と語らい、静かにあの虐殺の背後にあったものを考える時が与えられました。虐殺に積極的に参加した人々、不本意ながら仕方なく参加した人々、あくまで神と自分の良心に従って虐殺に参加することを拒んだ人々。ひとりひとりが心の中に持っていた「世界観」、何を神として仕えていたかが、具体的な行動となって現れたということが理解できました。

私たちの国は、今、強引なリーダーシップのもとに、「ある」方向に突進しているように見えて仕方がありません。この国で生きるキリスト者がどのような世界観を持ち、どのような選択をし、どのように行動するのかが問われているように思います。主だけを神とする生き方がどのようなものであるのかを、ご一緒に祈りつつ考える時となることを願っています。

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