月別アーカイブ: 10月 2014

20141026『主の恵みの使命』Ⅱサムエル10章 岩井基雄師

『主の恵みの勝利』 

「『強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。主はみこころにかなうことをされる。』ヨアブと彼の部下の兵士たちがアラムと戦おうとして近づいたとき、アラムは彼の前から逃げた。」          (Ⅱサムエル10:12,13)

 私達の生活の中に、時々争いが起こることがある。些細なことから始まることが多いのだが、その背景には、誤解や不安、傲慢や怒りが潜んでいることがある。

 アモン人の新しい王ハヌンは、父ナハシュのようではなかった。父の死の弔問にと、ダビデの送った使者を信頼せず、猜疑心の強い家来たちの進言に従い、逆に死ぬほどの侮辱を与えてしまい、争いが起こってしまった。ダビデの憎しみを買ったと思ったハヌンは、多額の財を費やして、アラム諸王国から戦車や兵を雇い入れさらに争いが広がってしまった。相手の誠意や真実を受け取れない時に、争いや悲しみは広がる。リーダーや責任者がどのような声を聴き、判断を下すか、それは重大な違いを生んでいくことがある。私たち自らが、自分の声や心を知り、治め、その上で神の御旨を求めていくことは、常に重要である。

神の民イスラエルは、アビシャイとヨアブの指揮のもとに勝利した。負けを認められないアラムはさらに勢力を結集し、イスラエルを攻撃したが、ダビデ達は大勝利を収めた。その戦いの結果、ダビデの勢力はユーフラテス川のかなたにまで及んでいく。主の勝利は、恵みの約束に基づき、人の思いを遙かに超えていく(創15:18‐21、7:9)。主の恵みと愛に信頼し、静まろう。

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20141019『和解の務めの使命』Ⅱコリント5:11-26岩井基雄師

「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。」                    (Ⅱコリント5:19,20)

 「私は何者なのか…」。あなたはどう答えるだろうか。また幾つか挙げられる答えの中で、大切なものを選び分けていくとしたら、何を削り、何を残すだろうか。自己理解が問われる。

 パウロの使徒性が幾度も疑われていった。無論あの12使徒ではないが、パウロが主の使徒であったことは神の御前に明らかであったが、パウロは幾度もそれを説明する必要があった。この個所でパウロは自分自身を3つの表現で著している。

 ①キリストの愛が取り囲んでいるゆえに、自分に死に、自分のためではなく、主のために生きる者、熱意のある者である。

 ②キリストにあって新しく造られた者であり、過去の赦しと新しいいのちに生かされ、日々主を知り続けている者である。

 ③神よりの和解の務めを委ねられた者であり、その和解に生かされるとき、どんな者も神の義となるのである。

 それは、私たちも教えられ、目指すべき方向性であり、使命である。愚かな者を主は選び用いようとしてくださっているのだ。

和解は普通、罪ある者から願い出るものであろう。しかし、主がその和解を完全になりたたせ、しかも願い出てくださり、その務めを私たちに委ねて下さる。その重さと恵みを味わいつつ、和解の使者として遣わされて行く者とされよう。

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20141012『豊かな実を結ぶ人生』ヨハネ12:20-26 岩井基雄牧師

                               「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」              (ヨハネ12:24,25)

 ラザロを生き返らせ、時到ってロバの背に乗ってエルサレム入城をなさった主イエスのもとに、礼拝をささげるために来ていたギリシャ人たちが来ます。異邦人の中にも過ぎ越しの祭りの時にエルサレムに上り、神を礼拝し、キリストと呼ばれるイエスに会いたいと願う人々の表れに、主は「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」と語られました。まさにその時が到来したのです。

 そして主は、上記のことばを語られました。異邦人の中に恵みと救いが広がっていくこと、それはまさに豊かな実を結ぶ恵みの証であり、祝福の始まりをも意味していました。しかし、真に実を結ぶためには、主ご自身が一粒の麦として、ご自身をささげ、地に落ちて死ぬ必要があったのです。主がご自身をささげるがゆえに、実が結ばれていく…。それは主から弟子たち、そして私たちへのチャレンジでもありました。私たちもまた、実を結ぶようにと招かれています。聖霊なる神様による御霊の実を結ぶと共に、さらに主を礼拝する人々が異邦人にも起こされていくように私たちは祈り求めるのです。それは自分の栄光を求めず、自分を捨て、主の栄光を求め、主を愛する者に用意されているのです。

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20141005『ろばの子に乗って』ヨハネ12:9-19 岩井基雄牧師

「イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。『恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。』」

                  (ヨハネ12:14-15)

 エルサレム入城の記事は4つの福音書に描かれている。しかし、ヨハネはその意味を旧約からの引用を持って、ゼカリヤ書の文脈が示す王の諸国民に対する関係を中心として描いている。

 当時のイスラエルの人々は、熱狂的な民族主義をもってローマ帝国をうち倒し、イスラエル王国を建て上げるイスラエルの王を待ち望んでいた。しゅろの木の枝を取って…という行為はその彼らの熱狂的な姿と歓迎を描くと共に、ろばの子に乗ってエルサレムに入場されるイエスの姿を描いている。ゼカリヤ書では「軍馬」ではなく「ろば」に乗る王を描いている。預言者イザヤが描いた「良い知らせ」は、「あなたの神が王となる」という宣言であった(イザヤ52:7)。その成就は、イザヤ53章に描かれる「苦難のメシヤ」を通して成就される救いの完成であり、全ての諸国民の王として、主が完全な平和を成就してくださる約束であった。

 人々の期待通りに事は進まなかった。主はその後まっすぐ十字架に向かわれた。しかしそこにこそ、主のご計画があった。私達の思いを遙かに越えて、神のみわざは完成し、私達に救いと平安を与えるのである。十字架を見上げ、主を王として迎えよう

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