20141019『和解の務めの使命』Ⅱコリント5:11-26岩井基雄師

「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。」                    (Ⅱコリント5:19,20)

 「私は何者なのか…」。あなたはどう答えるだろうか。また幾つか挙げられる答えの中で、大切なものを選び分けていくとしたら、何を削り、何を残すだろうか。自己理解が問われる。

 パウロの使徒性が幾度も疑われていった。無論あの12使徒ではないが、パウロが主の使徒であったことは神の御前に明らかであったが、パウロは幾度もそれを説明する必要があった。この個所でパウロは自分自身を3つの表現で著している。

 ①キリストの愛が取り囲んでいるゆえに、自分に死に、自分のためではなく、主のために生きる者、熱意のある者である。

 ②キリストにあって新しく造られた者であり、過去の赦しと新しいいのちに生かされ、日々主を知り続けている者である。

 ③神よりの和解の務めを委ねられた者であり、その和解に生かされるとき、どんな者も神の義となるのである。

 それは、私たちも教えられ、目指すべき方向性であり、使命である。愚かな者を主は選び用いようとしてくださっているのだ。

和解は普通、罪ある者から願い出るものであろう。しかし、主がその和解を完全になりたたせ、しかも願い出てくださり、その務めを私たちに委ねて下さる。その重さと恵みを味わいつつ、和解の使者として遣わされて行く者とされよう。

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