月別アーカイブ: 1月 2015

20150118『主の前の真実が問われるとき』 Ⅱサムエル11章 岩井基雄師

「夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちといっしょに自分の寝床で寝た。そして自分の家には行かなかった。」

(Ⅱサムエル11:13)

先にこのアモン・アラブ連合軍との戦いに対し、ダビデは最初、戦場に行くことをしなかった(10:6-)。王がいないまま敗北したのだが、次にはダビデが先頭に立ち、勝利へと導くことができた。しかし、先の敗北から学ぶことが出来なかったのだろうか。

新しい年になり、再びアラムとの戦いが起こった時、ダビデはヨアブと家来達を送ったが、自分はエルサレムに留まったままだった。そして、その心の隙に大きな罪が忍び込んでしまった。彼が夕方に起きあがって、屋上から見た女性の美しさの故に、彼はその女性と大きな罪を犯してしまったのである。どんな者にも罪の誘惑がある。決して過信してはならない。しかし、ダビデはその罪と向き合うことをせず、その女性の夫を戦場から戻し、彼女の妊娠を誤魔化そうとしたのだ。忠実なダビデの部下であったウリヤは、皆が戦っている時に自分だけが自宅に戻ることが出来ないと誠実さを示し、ダビデの計画は頓挫した。ところがダビデはヨアブを使い、このウリヤを戦場で殺害させてしまう。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)とあるとおり、罪を悔い改めない心は次の大きな罪を生み、死と滅びへと向かっていく。私達は自壊しなければならない。そして、主への大切な働きから簡単に身をひいてしまう誘惑にも注意しなければならない。主は私達の主体的な愛と奉仕への歩み、砕かれた悔いた心を喜ばれる。

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20150111『キリストのユダへの愛』ヨハネ13:21-30 岩井基雄師

「イエスは答えられた。『それはわたしがパン切れを浸して与える者です。』それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。」(ヨハネ13:26)

イスカリオテ・ユダを主がいつ、何故弟子に加えたのか、明確ではありません。その名前からも、カリオテ(ケリオテ)出身の可能性があり、ガリラヤ出身でない唯一の弟子だったのではないかとも言われます。またここでは父親の名前が挙げられていることから、父親も当時良く知られていたのでしょうか。

この最後の晩餐の時には、すでに主を裏切り銀貨30枚を受け取っていたユダでした。弟子仲間の財布を預かるほどの信用も受けていました。しかし、主に香油を注いだマリヤの行為を金銭で測ったのも彼でした(12:5)。様々な計算が主への愛に勝り、主からの愛さえも受け取れなくしていったのでしょうか。彼の心や失望等は想像の域を出ませんが、聖書は一貫して彼の罪の姿を描き、サタンに利用された現実を伝えています。しかし、その彼に対しても主は豊かに愛を注がれました。主賓の愛する者席に彼を敢えて座らせ、主が全てを知っていることを示し、最後の悔い改めの機会を与えたのです。しかし、彼はその愛を受け取ることをせず、立ち上がって祭司長達のところに向かいます。

私達は彼を笑うことは出来ません。私達の心にも、彼と同じような思いが募ることがあるからです。しかし、そんな私達にも主は愛を示されます。私達はどのようにその愛に答えるでしょうか。

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20150104『仕える祝福の道』ヨハネ13:12-20 岩井基雄師

「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」  (ヨハネ13:14,15)

最後の晩餐での食事は、過ぎ越しの祭りの食事でした。モーセの出エジプトの時に、最後のさばきが過ぎ去り、奴隷状態から贖いだされた喜びを味わう食事でした。急いで出発するゆえに、発酵していないパンとぶどう酒を中心とした交わりだったのです。低い机をコの字型に囲み、足を投げ出して食事を共にする当時の食事は豊かな恵みの時でした。

しかし、その晩餐は、主の弟子たちにとって、最後との自覚のないものでした。その交わりの中には、イエスをすでに30枚の銀貨で売ったイスカリオテのユダもいました。恵みの食卓が裏切と緊張を伴うものとなっていたのですが、それを知っているのは主イエスとユダだけでした。自覚のない彼らの会話は「誰が一番偉いか」だったのです。それゆえに、食事の前に足を洗うこともしなかったようです。恵みを踏みにじってしまうような状況の中で、主イエスは弟子たちの足を洗うために立ち上がられ、へりくだりと愛の模範を示されたのです。私達もまた、主の恵みを無駄にしてしまうような無自覚な歩みを重ねてしまうことがあります。しかし、私たちの弱さや問題をご存じの主は、私たちをも憐み、生かし、私達を通して愛と恵みを届けさせて下さいます。互いに愛し合い、仕え合い、赦しあい、恵みに生きる者とさせていただきましょう

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20150101『チャレンジを受け止めて』エペソ3:6-21 岩井基雄師

「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」    (エペソ 3:9-12)

  新年明けましておめでとうございます。

 この新しい一年も、主にあって共に歩める幸いを感謝しています。神さまと共に歩む人生は、チャレンジに満ちています。しかし、それは危険を伴うものではなく、将来と希望を与える神のご計画によるものです(エレミヤ29:11)。神の民は、神のご計画の中にあって、祝福と平安、そして恵みを受け継ぐものとされていきました。彼らには弱さもありました。それ故に葛藤や痛みを通りましたが、主は彼らを憐み、恵みと平安を与え続け、預言の通りに救い主を送り、罪の滅びからの救い、神の子としての恵みの立場、そして神の国の完成へと導く祝福の道を用意してくださいました。そのために用いられたのが、弱さを抱える弟子たちでした。しかし、その弟子たちを通して、主はその使命を成就させ、キリストにある福音の喜び、救いと臨在の平安を全世界へと届けることをご計画なさったのです。

 それは「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義」でした。主は私達「教会」を通して天にある支配と権威とに対して神の豊かな知恵を示そうとなさっているのです。

 私たちの弱さをも超えて神様は私たちを用いて下さいます。そのご計画の中に、私たちも置かれているのです。私たちが先に主の恵みを受けているのは、偶然ではありません。神さまの不思議なご計画の中にあって、導かれています。主は私たちを祝福しようと待っていて下さいます。この年、主の愛と恵みの中で、主を愛し教会を愛し、信頼し従う歩みを続けさせて頂きましょう。主は私達と共にいて下さいます。

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20141228『心を広く、恵みを深く』 Ⅱコリント6:11-18 岩井基雄師

「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」         (Ⅱコリント6:16)

クリスマスの喜びのメッセージは、全世界の人々への恵みの知らせだった。それを羊飼いに、そして東方の博士たちに主が知らせたのは、最も近いものから遠い者、また最も低いとされる者から、高いとされる全ての者を含む喜びの知らせだった。

主の教会はその使命を持っている。全ての民が神の愛と恵みの中に生かされていくことだ。しかし、そこで間違えてはいけないのが、神を知らない世との妥協的なあり方だ。コリントの教会はそこに混乱があった。神の民である教会が、塩気を失い、いのちを忘れ、恵みをおろそかにしてしまう時、真の輝きを失ってしまう。私たちは、どこに置かれても、神にあるきよさと恵みに生かされている使命がある。しかし、一方で私達には弱さがある。その弱さを抱えつつ、私たちは共に主にある歩みを進めていく、それが主の教会の豊かさであり、恵みの深さでもある。なぜならば、主は私たちを限りない愛で愛し、悔い改めに導き、生かし、力を与えて下さるからだ。この一年も様々なことがあった。その中で私たちは主の恵みの広さと深さを教えられてきた。私達もまた、そうありたい。そして主の喜ばれる歩みへと共に進み続けよう。

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20141221「博士たちの礼拝」マタイ2:1-12岩井基雄師

「 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」 (マタイ2:10,11)

救い主イエスの誕生は、ヘロデ大王が亡くなる少し前のことであり(19)、博士たちの礼拝の時イエスはすでに成長していたかもしれない(7、16)。救い主キリストの誕生の知らせは、東方の博士たちによってエルサレムにもたらされた。彼らは占星術が発達していたバビロニヤの周辺から来たのだろうか。そうなら、かつてのバビロン捕囚で東方に移ったユダヤ人の影響もあったろう。異邦人を救いの恵みに招く、神さまの壮大なご計画を想う。主は全ての人を愛し、導き、招いていて下さる。

博士たちは再びメシヤの星に助けられて、ベツレヘムで幼子を見付け出し彼らのいる家に辿り着いた。彼らは救い主を拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。それらは王権と神性と苦難(死)の象徴であり、彼らが持つ最も高価なものをささげたということであろう。主への最善のささげものそこに礼拝の恵みと、主への愛の原点があった。主はあなたを心から愛し、ひとり子を贈られた。私たちはどのように神の愛に応えていくだろうか。

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