月別アーカイブ: 4月 2015

20150419 『主にささげる恵みと感謝』  Ⅱコリント8:1-15 岩井 牧師

『主にささげる恵みと感謝』 

「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです」
                            (Ⅱコリント8:2-4)

 主の教会の交わりの原点は、主が愛の故に、ご自身貧しくなって下さったことにある。他者のために自らを犠牲にする恵みは、自らにも恵みと祝福を与えてくれる不思議な交わりである。
 パウロはエルサレム教会の窮状を覚え、他の教会からの支援を呼びかけていった。それに応じて、多くの教会が自分たちの貧しさを越えて、豊かにささげていったのだ。それは主の恵みと愛に応答する歩みだった。激しい試練の中にあっても、彼らの内側には満ちあふれる喜びがあり、それが具体的な愛の行動へと繋がっていった。私達にとっても、委ねられている賜物や財をどう用いるのかには、様々な葛藤がある。しかし全てが神から託されているものであり、私達はその管理者であることを覚える時、私達の心が違ってくる。主の主権を認める事こそが、私達の心も歩みをも変えていく。それは信仰の働きであり、献身の成長を必要とする。私達はどのように主に仕え、他者のため に自らを喜んで献げているだろうか。全ては主に献げていくものであり、主への感謝を表していくことだ。与える祝福へと共に向かおう。

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20150412 『主の平安と愛の力』 ヨハネ14:25-31  岩井牧師

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20150405 『新しいいのちに生かされて』 ペテロ1:1-21 岩井牧師

『新しいいのちに生かされて』 
 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」
(ペテロ1:3)
今年も主の復活の喜びをともに味わえることは、何と大きなことだろうか。新しい歩みに向かうこの4月の最初。主にあってそれぞれの歩みが十字架と復活の恵みによって整えられ、憐れみの中を生かされていく。主の愛と希望に溢れるスタートだ。
ペテロがこの手紙を書いた時、ローマによるキリスト者への迫害が強まっていく中だった。安心できない困難と痛みと闘いの中で、主にある真の希望に心をとめるようにとペテロはキリスト者を励まし、導いていく。どんな迫害の中でも主の復活の希望に生かされ、天にある朽ちることのない宝に目をとめ、力ある恵みの中を歩むようにと語る。自分に降りかかる可能性のある困難の中で、主を三度否定したあのペテロからは想像できないような変化であり、力強さである。主は人を取り扱い、内側から変えてくださる。真のいのちと希望に生かされる者は、どんな中にあっても主の臨在と助け、守りと平安によって歩み抜いていくことができる。このイースターのいのちと希望は私たちの 人生に力と潤いを与える。私たちは真の希望といのちに生かされているだろうか。主の福音と勝利を周りの人々にも力強く語らせていただこう

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20150329 『神様に栄光をもたらすとは』コリント5:11-21 藤嶋光 男宣教師

『神様に栄光をもたらすとは』 
 神様に栄光をもたらすとはどういうことなのでしょうか。よく使われるフレーズですが、なかなかはっきりと意味をとらえることが難しい言葉のような気がします。しかし、聖書を読んでいくうちに意外と単純明快な事のような気がしました。コリント第二の手紙のあちこちにその事を示しているような箇所があります。「それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。」(1:11)
また9章11節にはこうあります。「あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。」そして、さらに4:15では、「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。」とあります。ここで再三出てくることは、人々が神様に感謝することが、すなわち、神様に栄光を帰すことです。では、既にイエス様を信じ、創造主なる神様に感謝を捧げる私達にとってはどういうことなのでしょう。私達には「和解の務め」が与えられています(コリント5:18-19)。「和解の務め」とは「和解のことば」、即ち福音を、まだイエス様を知らない人々に伝える働きであり、それは全てのクリスチャンに与えられているものです。

 私達の人生は、第一にイエス様を知り、救われて永遠の命にあずかる為の機会であり、第二に、神様の私達に対する愛、恵み、慈しみを味わう機会であり、そして第三に、神様に愛されているという喜びから、私達に与えられている「和解の務め」に参加する機会だと思うのです。私達はどのように毎日の日々を、そして一生を送ればよいのでしょうか。

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20150322 『人間の罪の現実』 サムエル13:19-38 岩井牧師

『人間の罪の現実』 
「私は、このそしりをどこに持って行けましょう。あなたもイスラエルで、愚か者のようになるのです。今、王に話してください。きっと王が私をあなたに会わせてくださいます。」…タマルは、兄アブシャロムの家で、ひとりわびしく暮らしていた。ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った。…」
(サムエル13:13,20,21)
人間の罪の愚かさを聖書は真実に照らし、私達に問いかける。ダビデが犯した罪の大きさは否定しようもなかったが、その刈り取りをダビデはしていくことになる。
長男アムノンが異母妹タマルに恋し、策略を持って彼女を陵辱しようとしたとき、タマルは必死に抵抗する。神の前のきよさを求める姿勢と友に、ダビデへの信頼が彼女の言葉には表されている。しかし、アムノンは自分をとどめることが出来ない。そしてアムノンは自己嫌悪も伴ってか、タマルを拒絶する。それは先の罪にさらに大きな不真実な罪を重ねることになるとタマルは語るがそれを受け入れる心はアムノンになかった。タマルは実の兄アブシャロムの元で2年間暮らすことになる。全てを聞いたダビデは怒りを顕わにするが何も行動を起こさない。何故なのか。
アブシャロムは2年の沈黙の後、さらなる策略を持って、アムノン殺害へと向かってしまう。憎悪が増幅していく罪の深みの中にあって、父ダビデの沈黙が事を大きくしていく。自らの罪の自責が彼をとどめるのであろうか、しかしなすべき事をしない父の沈黙は、さらなる悲しみを家族にもたらしていく。人間の罪は深い。しかし、主の恵みはさらに大きく、人も家族をも変える。

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20150315 『熱心と愛情』 コリント7:11-16 岩井牧師

『熱心と愛情』 
「彼は、あなたがたがみなよく言うことを聞き、恐れおののいて、自分を迎えてくれたことを思い出して、あなたがたへの愛情をますます深めています。私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることができるのを喜んでいます。」   (コリント7:15,16)
私たちの人生には、様々な苦悩と悲しみがある。しかし、その痛みを通して、私たちは真実へと招かれ、神の愛を知り、悔い改めへと導かれていく。
コリントの教会の中にあった問題を通して、パウロは心を痛め、「涙の手紙」を含む複数の手紙を教会に送った。それは彼らに悲しみをもたらしたのだが、それが実を結び、「神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。」(11v)と言わしめるほどに、彼らの心の中に、主への熱心を引き起こしていった。私たちもまた、罪を示され、神の前に悔い改める時に、健全な主への愛へと導かれていくのは不思議な恵みである。その仲介をしたのは、テモテであった。彼も弱さを持つ主の弟子であったが、パウロに励まされ、教会の変化と悔い改めに恵みを受け、コリントの教会への愛情を深めていった。真剣に私たちの人生に関わろうとしてくださる存在は私たちにとって、どれほど貴重であろうか。主の愛に基づく、そのアドバイスは私たちに主への恐れと愛情を深め、互いに愛する者、信頼し合う者へと私たちは変えられていく。
神の前に整えられていくことなしに、私たちの成長はないが、神の前にある成長は真の熱心と愛情、そして誠実さを築き上げさせていくことができる。私たちも主と人を愛する者とされたい。

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20150308 『助け主がともにいる』 ヨハネ14:13-24  岩井牧師

『助け主がともにいる』 
「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。」      (ヨハネ14:16,17)
子供達に関わる様々な事件が起こる中で、人の心の闇の現実、孤独と見捨てられ不安を抱え、懸命に自分の場を探す子供達の恐懼を思わされる。そしてそれは大人の社会の中にある。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(18v)のことばを私たちは自らに語られた主のことばとして受け取ることができる。弟子達はまだ、主との別れ、主の死と向き合っていなかった。彼ら自身の闇とも向き合っていなかった時に、主のことばが語られたのだ。主の愛に応えられない自己中心さ、弱さ、愚かさ…、その全てをご存じの主が、弟子達を愛され、彼らの守るべき主のことばを示され、「助け主」である聖霊の存在を示された。何という励ましだろうか。主は同じように我が儘な私たちの弱さも罪も全てをご存じで、なお愛され、私たちを真理へと招かれている。「助け主」(パラクレートス)とは、「〜のそばに呼ばれた者」との意味で、「弁護者」「仲保者」等を意味している。告発者から私たちを弁護し、どんな時にも共にいて、真理へと導かれる。罪深い私たちをいのちがけで愛された主は、主を愛し、人を愛し、主のことばを守り、真理に生かされ、愛を実践する者へと私たちを変え続けてくださる。そして共にいて下さる。
もうすぐ4年目を迎える深い孤独と痛みが、歴然として日本にある。私たちも人と共なる愛の歩みを行わせていただきたい。

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