月別アーカイブ: 9月 2015

20150927 『真の謙遜と主の恵み』Ⅱサムエル15:24-37

『真の謙遜と主の恵み』  
「ダビデは言った。『主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。』 ダビデが、神を礼拝する場所になっていた山の頂に来た、ちょうどその時、アルキ人フシャイが上着を裂き、頭に土をかぶってダビデに会いに来た。」
            (Ⅱサムエル15:31,32)
 私たちも様々な苦難や非難の中を歩ませられることがある。
神の都エルサレムを追われるダビデの姿は、悲しみと惨めさを覚えるものであったろう。しかし、ダビデはその背後にある神の御手の真実さと憐れみを見ていた。どんな時にもダビデに従う側近達と共に、異邦人傭兵達がいたことは恵みであったろう。
 神の臨材を表す「神の箱」を持ち出すことを止めたダビデの心には、目に見える何かではなく、神の真実と愛を待ち望む信仰の姿勢が現れているのではないだろうか。
 ダビデは妻バテシェバの祖父アヒトフェルが、アブシャロムの側についたことに心を痛め、また彼の知恵に恐れさえ持っていたようだ。しかし、主の憐れみを求める彼の祈りに主は即座に答えてくださった。ダビデと共に悲しみを味わい、主の前に出るフシャイの存在はダビデにとっての「友」であった(Ⅰ歴27: 33)。その背後にはダビデの祈りをもすでにご存じであった神の愛と憐れみがある(イザ65:24)。このフシャイがダビデに伴わずにエルサレムに戻ることに神の守りと知恵があった。人のどんな知恵よりも神の真実と恵みは力強い。私たちは主ご自身に、主の恵みと愛と憐れみに信頼してどんな中をも歩むことができる。
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20150920 『真の誇りと知恵』II コリント11:1-15 岩井牧 師

『真の誇りと知恵』  

「私にあるキリストの真実にかけて言います。アカヤ地方で私のこの誇りが封じられることは決してありません。…誇る者は、主を誇りなさい。」             (コリント11:10, 10:17)

 「誇り」というテーマは、私たちにとって重要な課題だ。何を誇りとして生きるのか、譲ることのできないプライド、健全なアンデンディティーの確立は、揺れ動く社会の中にあってなお求められている。今の青年達も知るべきこと見るべきことを得ている。人としての誇り、キリスト者としての誇りをなお確認したい。
 パウロにとって、主によって召された使徒の召しを疑われ、多くの苦難を通された。しかし彼の「誇り」はどのように人が判断し、評価しようとも揺るがされない主から与えられたものであった。自らの生活は、自ら保つことを通して誰からも非難をされ得ない自律した歩みの中にあった。異邦人へ主の福音を語る器としての自覚がそれを支えていたとも言えるだろう。それゆえに、どのような苦難の中をもパウロは歩み抜き、走るべき行程を走り抜いていった(使徒20:24、テモテ4:7)。
 私達もまた、多くの苦難を通る。理解されない悲しみも、攻撃や迫害を受け、孤独を味わう痛みさえも通ることがある。しかし、私たちの主はその全てを味わい尽くされ、私たちへの愛を豊かに表された。そして私たちの歩みの原点には、この主の愛と恵みがある。この主にあってこそ私たちは誇りある人生を歩む抜いていくことができる。神のことばの知恵に生かされ真の誇りを胸に歩み抜いていきたい。あなたの誇りはどこにあるだろうか。

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20150913 『神の愛と守り』イザヤ46:3-4,9-10 岩井牧師

『神の愛と守り』 
 
「あなたがたが年をとっても、   わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、 わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。    なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。」        (イザヤ46:4)

 少し早い敬老感謝の時を共に迎えることができることを感謝したい。私たちの今を支えていてくださる人生の先輩方の、犠牲や努力、愛の恵みの中に私たちの歩みがある。心から感謝したい。聖書は私たちに、人生の先輩、また私たちを生み育てて下さった両親や家族の方々を心から敬い、感謝し、尊敬するようにと幾度も教えている。その背後に全てを導かれる主権者なる神の愛と存在、導きの御手をも心に刻むことは重要だ。
 主の民イスラエルは、豊かな神の愛に誠実に応えることをせず、その愛を踏みにじり、主が悲しむ歩みを繰り返した。しかし、そんな彼らをも主は愛し、なお背負い、救いだし、導いて下さった。イザヤが幾度も預言した主の裁きとしての「バビロン捕囚」をも貫いて、主は彼らを憐れみ、彼らを守り、約束の地に戻し導いて下さった。そこには主の一方的で無償の愛と慈しみがある。そして、下記に記されているように主は苦しみや痛みをも共にして下さるのだ。愛の主に信頼して、人生の旅路を歩ませて戴こう。
「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」<イザヤ63:9>

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20150906 『真理による一致と歩み』ヨハネ17:9-19 岩井牧師

『真理による一致と歩み』  

「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」
(ヨハネ17:17,18)

 キリストが弟子達の為に祈られたその祈りは、彼らをこの地に残すことに基づく祈りだった。しかし、それは仕方なく残されると言うことではなく、弟子達を世に派遣するという大きな使命を持っていた。そして主は弟子達ひとりひとりに、もうひとりの助け主である聖霊なる神を送られることを約束された。
 主の弟子達は優秀でもなく、従順でもなく、愚かさを露呈する弱さを抱えていた。しかし、主はその彼らをこの世に遣わし、彼らを通して「神の国」が建て上げられていくことを求められた。それは彼らが真理に立つことであり、主にある一致を保つことであり、神のきよさに預かり、聖め別たれることをも意味していた。
 主にある真理は、私たちを頑なにしていくのではなく、真理は私たちを自由にすると聖書は語っている。主に与えられた自由の中で、私たちは主を愛することを選び取り、主の心を自らの心とさせていただくことを通して、一つとされ、主のきよさに預かることを通して、私たちは聖別されたものとして、なお神の前にでていく。弱さを抱える私たちが、主の恵みによって変えられ続けていくことは、なんと大きな特権であろうか。私たちを愛してくださる方によって私たちは、真の成長と一致を目指していきたい。

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20150830 『主を知る者の特権』マルコ4:35-41 リーズナー宣教師

『主を知る者の特権』  

「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。』」            (マルコ4:39,40)

 主イエス・キリストに従う生活にも激しい突風が起こることがあり、私たちが恐怖にとらわれることもある。そのただ中でも、主を知ることを深め、確信と力、平安と喜びをいただいて生きることができるのはキリスト者の特権である。
今朝の聖書箇所では、湖上の嵐を静める主イエスを目の当たりにした弟子たちの、「いったいこの方はどういう方なのだろう」との問いが印象的である。その彼らの前で、さらに主のみわざが展開する。レギオンという大ぜいの悪霊につかれた人の悪霊追放、長血の女のいやし、ヤイロの娘の死からの回復。どれも、主イエスの圧倒的な御力がもたらした「救い」〜本来の調和のとれた状態への回復〜である。これらは、目撃者が限定的であることも考えると、弟子たちを教えるためになされた奇跡であるとも言える。主を知り、主を信じ、主に従う生活を始めていた弟子たちであるが、なおも、「この方」が確かにまことの神の救い主である、という理解と告白へと整えられて行く。選び と救い、養育と訓練、派遣、継続教育、再派遣、といったサイクルのなかを、主の弟子たちは生きる。

私たちは、各々の遣わされている、世にある持ち場において、恵みを感謝してこの特権を生きることに心を定め、主の助けを祈ろう。

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20150823 『人の策略と主の摂理』サムエル15:1-18 岩井牧師

『人の策略と主の摂理』 

「そこでダビデはエルサレムにいる自分の家来全部に言った。「さあ、逃げよう。そうでないと、アブシャロムからのがれる者はなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの町を打つといけないから。」
(サムエル15:14)
 ダビデの息子アブシャロムは、様々な策略によって自らの復権を画策していた。そしてそれは成功していくように見える。ダビデにとって、息子アブシャロムの謀反の動きは、ある程度予想できたのであろうか。自分の過ち、また息子アムノンの罪の処罰を十分にできなかったからなのか、ダビデの言動にはわかりにくい面がある。しかし、王ダビデはどこまでも神の前を歩む。
 アブシャロムが民の心を盗み、王位を宣言したとき、ダビデは彼に従う者たちを守るために、逃亡を宣言する。自分の名誉やプライドよりも、しもべたちの安全を優先するダビデの判断は早い。そして真実に彼に従う者のみが彼と歩みを共にした。それは命がけの逃亡の旅でもあった。神の箱と祭司ツァドクは彼との動向が許されなかった。それは契約の箱や祭司の存在が、安易な安心を民に与え、真の御旨がわからなくなることを警戒したのであろうか。多くの人の裏切りを経験する中で、ダビデは真摯に主の前を歩む。しかしそれは自分の過去の過ち、取り返すことのできない罪と向き合う歩みでもあった。しかし主の摂理はそこにある。彼が真実に王となる歩みはへりくだりの道で あった。

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