月別アーカイブ: 10月 2015

20151025 『真の謙遜と主の恵み』サムエル16:1-23 岩井牧師

『真の謙遜と主の恵み』  

「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。」
                           (サムエル16:11)

 私たちは、自分の口では「主の僕です」と言うけれど、誰かにしもべの様に扱われると平静ではいられない…。ある牧師が問いかけてくれたことばを忘れることができない。私たちの心の奥にある姿は、神の前には隠すことができない。

 ダビデは息子アブシャロムに命を狙われる中、サウルの一族であったシムイから呪いのことばを浴びせかけられた。それは誤解に基づくものであった。しかしダビデはシムイ殺害を申し出た甥のアビシャイをいさめ、その言葉の背後に主がおられること、そして自らは「血まみれの男」であることを主の前に認めていることを証した。我が子にさえ命を狙われる自分がサウル家からのろわれるのは当然だとしたのである。ダビデの主の前の謙遜をここに見ることができる。ダビデはのろいを善に変えてくださる主の憐れみに希望をおいたのである。そして後にシムイは自分の過ちを認めることになる(19章)。主はへりくだる者に豊かな恵みを与えてくださる。また、主の恵みは、この後フシャイを通して、ダビデに豊かに与えられていく。私たちもまた、いつも主の前に自らを置き、へりくだり悔い改めの実を結ばせていただこう。

広告

2件のコメント

カテゴリー: Uncategorized

20151018 『あらゆる困難の中でも』 コリント11:16-33 岩井牧師

『あらゆる困難の中でも』  

「 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」                     (コリント11:29-30)

 私たちは、人生において、様々な比較を他の人としてしまう。そして優越感や劣等感を抱えてしまう。何に価値を置き、何を誇りとしているかによって人生のとらえ方はかなり異なってくる。
 パウロは、自らの弱さを誇りとするようにと人々にも促し、自らもそこに価値を置く。それは自分の内におられる主権者なる主ご自身のみを誇ることに繋がっていくからだ。主を誇りとするものは、他者との比較から自由になっていくことができる。しかし、ここでパウロはコリントの教会に入り込んできた歪んだ価値観の故に、自らが通ってきた歩みや困難を語り始める。
 それは、パウロがそれを誇りとしているのではなく、真の誇りは主にあるという文脈で語られ、偽教師へのアイロニーでもある。それを鑑みても、パウロが通ってきた人生は壮絶である。しかしパウロはそれをやむなく語る中にあって、何よりも自分に与えられた主の恵みは充分であるという主のメッセージから自分を見ている。どんな困難があろうとも、死に瀕するような迫害を通ろうとも、恵みの主が共におられ、主の憐れみの中を生かされる喜びをパウロは語り続けている。あらゆる困難の中でも主を喜び、賛美し、主を誇りとする人生の輝きは、私達にも用意されている。どんな中でも主ご自身を待ち望む者とされたい。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20151011 『思いもよらぬ助け』 ルカ10:30-37 町田俊之師

『思いもよらぬ助け』 ルカ10:30-37 町田俊之師

この世界では、思いもよらぬ不幸な出来事が多い
・ 天災 ・人災 ・殺人事件 

1、今日の聖書箇所の場面を描いた人
  <ゴッホの生涯>から<ゴッホの絵>から

2、強盗に襲われた出来事
・ エルサレムからの帰り道、善良な人が、思いもよらぬ出来事(不幸)に遭遇する
・ どうしてこの世界に大きな不幸が存在するのか? 
・ 宗教的人間であった祭司やレビ人は、この不幸な人を助けなかった
・ 宗教的な人間も、この人の助けにはならなかった(宗教的偽善の事実)
・ 全く民族的に敵対関係をもっていたサマリア人は、この人を見て、かわいそうに思い、この人を全力で介抱してあげた(動機はあわれみ)
   ここに、「思いもよらぬ助け」があった

3、イエス・キリストの十字架の出来事
  <レンブラントの絵>から
・ イエスを十字架につけているのは、レンブラント自身であり、自画像である。
・ キリストは、私たちの全く知らないうちに、私たち一人ひとりのために十字架についてくださった(動機はあわれみ)
       ?ここにも、「思いもよらぬ助け」があった

・ イエス・キリストは、私たちにとっての本当の隣人であり、思いもよらぬ助けを与えてくださる方である。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20151011 『思いもよらぬ助け』 ルカ10:30-37 町田俊之師

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20151001 『愛と恵みによる一致』 ヨハネ17:20-26

『愛と恵みによる一致』  

「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」   (ヨハネ17:23)

 どんな共同体の中にも、様々な違いが生じる。それは個性であり、豊かさであり、広がりを生むのだが、時には不協和音となってしまうことがある。キリストの教会もまた、例外ではない。そして多くの違いを共有する教会故に、そこにキリストにある一致が生まれたときの力は、他を圧倒するほどに祝福を生む。
 主イエスが、ゲッセマセの園で祈られた祈りの中心は、主の教会が一つになるようにということだった。弱く混乱を来す弟子達だけではなく、彼らを通して誕生していく主の教会の為に主はとりなして祈られた。その一致をもたらすものは何であろうか。
 この主の祈りの全体の中で語られているのは、神ご自身の一体故の私たちの一致である。父なる神とキリストが一つであるように私たちが一つであるという恵みを主は私たちに与えられる。そしてその鍵は主の元に、主のそばに私たちがともにいることにある。それは決して簡単なことではない。しかし、それこそ一人一人の成長の鍵であり、主の教会の成熟の基盤だ。主の愛をいっぱいに受け取ると共に、そこに溢れている豊かな恵みに生かされ、主にとどまること、そこから生まれる教会の一致は、周りの人々に大きな証となり、彼らのキリストの愛への導きとなる。

2件のコメント

カテゴリー: Uncategorized