月別アーカイブ: 11月 2015

20151115 『神の御手の中で』イザヤ62:1-3 岩井基雄牧師  

『神の御手の中で』 

「あなたはの手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある。王のかぶり物となる。」        (イザヤ63:3)

 今日は、召天者合同記念礼拝です。私たちより少し早く地上の生涯の使命を終え、神様のもとに戻られた方々の優しさや笑顔、温もりを心に刻んで私たちも日々を歩ませて戴きたい。
私たちの人生はどこに向かっているのでしょうか。どこを目指し、何を目的として進んでいるのでしょうか。自らの歩みを振り返り、永遠の時を心にとめて、心静める時を持ちたいと願います。
神の民イスラエルの人々は、多くの問題を抱えていました。天地万物を創造された神を知り、また神に愛されていることを知りながら、その愛を受け止めようとせず、自分中心の歩みを重ね、神に背く道を選び続けてしまったからです。それゆえ神は彼らを敵国へと引き渡され、悲しみの中を歩ませられました。しかしそれこそが、彼らが再び神の愛を受け取り、神と共に歩むための招きでもあったのです。悩み行き詰まることは私たちにとって、心に響く真理や愛への渇きに気づく恵みともなるのです。
問題や弱さ、罪を抱えた神の民を、神は輝かしい冠とし、神の手によって王冠としてくださるというのです。それは死を越えるいのちの輝き、罪の赦しの義の冠、永遠の祝福の冠をも表していました。どんな人生の闇を歩むときも、神の愛の光は私たちを招き、祝福と喜びの人生へと変えてくださいます。そのために、救い主キリストは十字架にかかり、よみがえって下さったのです

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20151108 『大祭司の庭で』ヨハネ18:12-24 岩井基雄牧師

『大祭司の庭で』 

「イエスは彼に答えられた。『わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。』」       (ヨハネ18:20-21)

 私たちは権威的な立場に対して、弱さを持つ。自分の立場が危うくされるような場面では真理を薄めてしまう弱さを抱える。
 ユダヤ当局者、ローマの権威を持ってキリストが捕らえられたとき、キリストのことばに怯んだのは権威を持つ側だった。主の主権の前では、どんな権威も色あせる。当時の大祭司カヤパの舅アンナスは未だに権威を持っていた。予備審問と考えられるその質疑の中でも、主はご自身の主権を明確に示された。
 一度は蜘蛛の子を散らすように逃げた弟子達の中で、大祭司の親戚であったヨハネとペテロは裁判を見守るために、大祭司の庭へと入ってきた。しかし、門番のはしためから主との関わりを問われると、即座に否定してしまう。私たちの弱さの姿もここに描かれていよう。しかし、私たちと神とをとりなす真の大祭司は主イエス・キリストご自身であった。主の権威と愛によって真の贖いととりなしはなされる。そして主は弱く愚かな私たちをも主の祭司として用いられるという。真の大祭司の庭には愛と希望がある

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20151101 『剣をさやに収めて』ヨハネ18:1-11 岩井基雄牧師

『剣をさやに収めて』  

「イエスはペテロに言われた。『剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。』」             
(ヨハネ18:11)
 今日は礼拝後、子供の祝福式がある。子供達が一日一日成長していく様は私達に大きな励ましと力を与える。私達大人もまた、信仰の成熟、主をさらに愛し続ける成長を目指したい。
 主イエスが、最後の晩餐の席で王としての祈り、弟子達や教会の一致を祈られた後、ゲッセマネの園で激しく祈られたことが他の福音書には記されている。この主の苦しみの故に、私達の救いと恵みがあることを忘れてはならない。主が全てを受け止められたときに、イスカリオテのユダを筆頭に、ユダヤ当局者達がローマの兵士達をも伴って、主を捕らえる為に来た。誰を捜すのかとの主の問いに、彼らが「ナザレ人イエスを」と答えたとき、主は「エゴー・エイミー(それはわたしだ)」と応じられた。それは創造主なる神の臨在を示す言葉であり、彼らはその権威に圧倒され、後ずさりし倒れるほどだった。その時、ペテロは持っていた剣で大祭司のしもべマルコスの右の耳を切り落としてしまう。何をして良いか分からず、自分の力で主を捕らえようとすることに抵抗しようとしたのであろうか。しかし、主は全てを受け止められ、ペテロをいさめられた。自分の考えや力によってではなく、主の御旨と時を受け止めることにこそ、主の愛による救いのわざの道がある。そしてそこに私達へのチャレンジもある。

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