月別アーカイブ: 12月 2015

20151213 『主の正義と真実の約束』 イザヤ11:1-9  岩井牧師

『主の正義と真実の約束』 

「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、  はかりごとと能力の霊、主を知る知識とを恐れる霊である。」
<イザヤ11:1,2>
 預言者イザヤを通して、主は救い主のメシヤの預言を民に与え、希望と「インマヌエル」の愛と約束を与えた。
 イザヤは、当時の世界を支配するアッシリヤの崩壊を預言し、エッサイの子孫、ダビデの家系から出る若枝としての救い主の出生を預言している。エッサイという名の背景には、軽蔑または貧しさが含まれている。エッサイという表現を使用することを通し、弱く、小さく、貧しい存在から、ダビデの王権にも勝る救い主の主権が訪れることをイザヤは明示している。
その救いい主メシヤは神の霊に満ち(ヨハ1:33‐34)、知恵と権力を持ち、(神の子として)神を知り神を真に畏れる方であることを続けて、力強く預言している。さらに3‐5節は正義をもってこの世をさばき治めるメシヤの働きを預言し、続く6‐9節はそのようなメシヤの主権的支配下の世界がどのように平和なものであるかを預言している。そこには、まさに「平和の君」(9:6)を通してなされる新しい世界、新天新地へとつながる再創造への恵みに満ちた預言がなされている。クリスマスの喜びは、どんな現実からも主の大いなる平和と祝福へと導かれる希望にある。

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20151206 『インマヌエルの約束』 イザヤ7:10-14 岩井牧師

『インマヌエルの約束』 

「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」         <イザヤ7:14>

 このイザヤの預言の背景にあるのは、アラム―エフライム戦争の頃(前733年頃)と考えられる(参列16:1‐5)。そのような争いが起ころうとする火急の現実は、私達の心に大きな動揺を与える。さらには、さらには、エフライム(北イスラエル)とアラムが同盟を結んで南ユダに戦いを仕掛けてくることが具体的になってきたとき。アハブ王と南王国ユダの民の心は、荒波に翻弄される小舟のように不安に揺らいだ。私達の人生の中にも、そのような揺さぶられる出来事が起こる。しかし、その時にこそ神は私達の人生に恵みを与えてくださるのである。預言者イザヤを通して神が語られたインマヌエル(「神がともにおられる」という意味)の最初のメッセージがこのイザヤ7章である。
 神は預言者イザヤを用いてアハズに迫られた。この「インマヌエル」のメッセージは、究極的な希望をもたらすものであり、完全な成就には神の御子キリストの誕生を待つ必要があった。しかし、ユダの王アハブはこの状況の中で、神に信頼を置くようにとイザヤを通して招かれたのだ。アラムの王レツィンと北イスラエルの王ペカ(レマルヤの子)を恐れる必要はなく、彼らは栄えるように見えても、やがては滅びるという事を、アハブは信頼できなかった。そして問題はさらに複雑になっていく。主を待ち望む歩みは、私達にも主への信頼のチャレンジを与える。あなたはいかがだろうか。置かれている場で信仰を働かせたい。

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20151129 『十分な恵みによって』 コリント12:1-10 岩井牧 師

『十分な恵みによって』 

「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」 <コリント12:9>

 今日から主の御降誕を待ち望むアドベントに入る。待ち望むということは以外に難しい。数分でも待つことが困難な時代に生きる私達は、聖書のリズムで生かされることの重要さを思う。そして、このひと月、心から主を待ち望むものとされ続けたい。そのためには、自分の思いや願いを神様に委ね、明け渡す必要がある。自分の答えを握りしめ、それを待つことはご自身を待ち望むことではないからだ。
 パウロには、取り除いて欲しい「肉体のとげ」があったと告白している。具体的には分からないが、それを三度も願ったとあるとおり、彼の働きや使命に関わることとだったのであろう。しかし、彼が受け取った主の答えは、すでに主の恵みは十分であり、キリストの力は私達の弱さのうちに現れるということだった。素晴らしい経験をしたパウロだった。第三の天にまで引き上げられ、主ご自身との不思議な交わりを受けた出来事は、彼の心を捕らえたであろう。しかし、パウロは自らの弱さを誇るという。祝福の経験ではなく、主の前に跪き、へりくだり、主ご自身を待ち望むその心をも主が喜んでくださるとの思いが原点にあるだろう。私達は何を誇りとしているだろうか。主が謙 って下さったことに心を止め、静かにそして心から主を待ち望む者とされたい。

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20151123 『主の知恵と憐れみ』サムエル17:1-29

『主の知恵と憐れみ』 

「 アブシャロムとイスラエルの民はみな言った。『アルキ人フシャイのはかりごとは、アヒトフェルのはかりごとよりも良い。』これはがアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった。」  (サムエル17:14)

ダビデの参謀であったアヒトフェルがアブシャロムに語った案は、疲れ果てているダビデ達を奇襲し、ダビデのみを討ち取るという非常に優れたものであった。しかし、アブシャロムはダビデの友フシャイのはかりごとも聞いてみたくなった。ここに不思議な神の摂理の御手を見ることが出来よう。神はフシャイを通して、ダビデを助け、アヒトフェルの助言を愚かなものにして欲しいとのダビデの祈り(15:31)に答えられたからである。主はすでにアブシャロムとアヒトフェルへの裁きのご計画を持っておられたことを聖書は記してる(14v)。私たちには、主のご計画や知恵は分からない。それは私たちがたとえ、行き詰まり、八方塞がりの中にあったとしても神の御手に信頼し、委ね、神のみわざがなされること、神の最善がなされることを待ち望むことが出来ることも示している。しかしその中には、ダビデが経験したような失望や、悲しみの逃亡や、裏切られる悲しみを通されるような事もある。そして、そこでこそ、主の恵みや憐れみ、神の知恵や愛を味わっていくことが出来るのである。主は敢えて私たちに苦難を与えられることがある。そこでこそ私達は信仰を働かせて歩み続けたい。

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