月別アーカイブ: 2月 2016

20160207 『ユダヤ人の王、キリスト』 ヨハネ19:17-27  岩井牧師

『ユダヤ人の王、キリスト』 

「 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。」   (ヨハネ19:19-20)

 私たちの主、イエス・キリストは全てのことをご存じでありながら、それらの全部を受け止め、まっすぐに主体的に、十字架に向かって行かれた。当時十字架刑に処せられる者は刑場に引いて行かれるまでの間、首に罪状書きをつるされたか、そのような札に先導されて刑場に向かったと言われている。すなわち刑場であるゴルゴダへと向かう道行の中で、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」という名が人々へと示されたのだ。それを面白く思わないユダヤ当局者たちは、ピラトにそう自認したと訂正するように願ったが、ピラトはそれを拒絶する。そこに真理を問われたピラトの姿勢が表れているのであろうか。こうして人々にユダヤの王としての主が示されていく。その宣言をどう受け 取るかによって私たちの人生は二分していくといっても過言ではない。あなたはどのように主の十字架を受け止めているだろうか
 主の十字架をめぐって、ヨハネは、主の下着を分け合う4人の兵士と比較するかのように、十字架の足元で見守る4人の女性を描いている。十字架にかかわりながらも主からなお奪おうとする人々と、主の苦しみを共に味わうかのように佇む人々、そして遠くから見ている人々が描かれる。あなたはどこにいるだろうか。今の場所から一歩でも主の十字架へと近づき、従いたい。主はご自身の真の弟子としての歩みを私たちに求められる。

広告

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20160131 『たましいを買い戻す神』 嶋田博考総主事<聖書同盟>

『たましいを買い戻す神』 

 この詩篇の作者である信仰者は、すべての人は聞きなさいと語り始めます。この信仰者は、この世では人の間に格差があることも知っています。「富」(6節)と同じ意味で、「財産」(6,10節)と訳されている語は「ハイル」という語です。力さらに軍事力を表すことが多いですが、ここでは経済力を表します。
その上で、すべての人に共通し、平等におとずれる死の問題を語ります。人はだれも、自分や自分の大切な人のためであっても、神に払う(直訳:与える)贖いしろを持ち合わせていない、と言います(7節)。このことに関して、人は力なく、全くの絶望です(8節)。ダビデは23篇で、主が羊飼いであってくださる恵みをうたいました。恐ろしい皮肉ですが、14節はそれとは全く反対です。死が羊飼いとなるのです。
 「しかし」と、力強く希望が告白されます(15節)。「私には、たましいを買い戻すことができる唯一の方、神ご自身がおられます」という告白です。「悟り」が最も重要です(20節)。この詩篇の作者は、自分で悟ったことではなく、神さまから教えられ、悟らされたことを語っています。全体の序にあたる4節で、自分が知恵を語り英知を告げると言いながら、その自分も「耳を傾ける」者であると言っています。私たちの教会が大切にしている聖書信仰がここにあります。
 神は買い戻される。では「どのようにして」という疑問が残ります。「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(テモテ2・6)私たちはこの聖書のあかしに立っています。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20160124 『キリストともに生きる』 コリント13:1-10 岩井牧師

『キリストともに生きる』 

「キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。」       (コリント13:3,4)

 コリントの教会はパウロにとって、整えられ変えられていくことを切望する教会だった。4通の手紙、3度にわたる訪問の熱意がそれをも表しているだろう。そしてこのコリントの教会は、現代に生きる私たちが抱える問題を内包している。
 主の教会がキリストの体であり、そのかしらは主キリストであることはパウロが幾度も語り伝える真理だ。しかし、その真理に生かされることは決して容易ではない。罪の傾向が教会を混乱させ、清さとは逆の方向に向かわせ、無感覚・無警戒なありかたを露呈しやすい。しかし、主の教会が明確に「キリストとともに生きる」ことを共に心がけ、それを教えられ続け、生かされ続けていく時に、それは真の力を発揮していく。主の教会は、主ご自身が守られ、力を与え、導かれるからだ。主の弱さは愛の姿であり、神の在り方を後にして、十字架に向かう謙卑の姿であった。そして、私たちもキリストにあって弱い者である故に、砕かれ、愛を学び、神の力のゆえに生かされ続けていく 。そして、その歩みはキリストとともに生き、キリストのために生きる成熟を導く。私たちもどんな時にも主を見上げ従い、供なる主の愛に生かされたい

コメントする

カテゴリー: Uncategorized