月別アーカイブ: 3月 2016

20160306 『新天新地の希望に生きる』イザヤ65:17-19 岩井牧師

『新天新地の希望に生きる』 
「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。
先の事は思い出されず、心に上ることもない。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」                  (イザヤ65:17,19)
 新しい年度が始まった。昨年度の主の恵みを深く心にとめたい。その恵みは決して順調でも順風満帆でもなかった。試練や葛藤や痛みや涙もあった。しかし、そここにこそ主の恵みが溢れていることを、それぞれの歩みでも教会の歩みでも味わった。
 イスラエルの民の歩みもそうだ。イザヤが活躍した時代、神の民は様々な試練の中にあった。自らの問題に起因した痛みでもあった。しかし、その苦難の中に主はともにおられ、まだ問題が全く解決もせず、応えも見えない中で語られた主のご計画が、今日の箇所にある主の幻だった。私達もまた、今ある現状の中から、将来を未来を見るように招かれている。主の救いの完成は、被造物全体に及ぶことを示され、そこに生きるようにとのチャレンジを受け取っているのだ。そして苦難や葛藤の中に、不思議な主の守りと臨在、恵みと祝福があることを教えられ続けている。神の民は、現状の中にこそ、恵みと祝福の種を見いだし、そこに感謝を表していくからだ。
「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(ヤコブ3:18)とあるように私達も神の義の実を結ぶようにとこの地に遣わされている。平和をつくる者の幸いを覚えつつ、今日も祈りと忍耐をもって、義の実の種を蒔き続けたい
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20160228 『ダビデの勝利と悲しみ』サムエル18章 岩井牧師

『ダビデの勝利と悲しみ』  
「アブシャロムはダビデの家来たちに出会った。アブシャロムは騾馬に乗っていたが、騾馬が大きな樫の木の茂った枝の下を通ったとき、アブシャロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙づりになった。彼が乗っていた騾馬はそのまま行った。」
                       (サムエル18:9)
 ダビデの息子アブシャロムの謀反は、終焉を迎える。フシャイのアブシャロムへの提言によって、ダビデには迎撃ために十分な時を用いることが出来た。彼は知恵を持って、全部隊を3つに分け、自ら先頭に加わることを申し出た。かつての反省があるのであろうか(サム11:1)。しかし、民はそれを留め、ヨアブ、アビシャイ、イタイ達に戦いを委ねることとなった。委ねる重要さがそこにある。ダビデは彼らにアブシャロムにも寛大な処置を求めた。
 聖書は、この3隊の活躍以上に、森がアブシャロム軍を混乱させ、勝利へと導いたことを記し(8v)、アブシャロムも木に捕らえられる。主の不思議な御手の中にあって戦いの勝敗が決していく。自慢の髪を木に捕らえられたアブシャロムを発見したのは、ヨアブのしもべであった。彼はダビデの命令を覚えており、その事実をヨアブに報告した。ヨアブはその命令に背き、アブシャロムを殺害し、戦いの終焉を告げる角笛を吹き鳴らした。叔父ダビデの思いよりも、神の民の思いや勝利を優先したのだろうか。
 ここには、戦いの勝利とダビデの悲しみの両方が記されている。自分のいのちを狙う我が子に勝利する王と、その死を悼み悲しむ父の姿である。主は私達に何を語っておられるであろうか。人としての思いと神の思い、人の計画と神のご計画、その両方の狭間で私達は生きる。主の喜びを求めたい。

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20160221 『主の教会の祝福』コリント13:11-13 岩井牧師

『主の教会の祝福』  
「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」
                       (コリント13:11)
 今日でコリントの二つの手紙からのメッセージが一区切りとなる。多くの人に愛されるこの手紙は、私たちの弱さや教会の問題に関わらず、主が注がれる愛の豊かさに満ちている。そして、この最後の祝等はアロンの祝等とともに、多くの教会でささげられている。主が教会を祝福し、そしてこの世を祝福される恵みだ。

 その直前にあるこの5つの命令は、主の教会が目指すべき方向性を示している。喜び、清さ、慰め、一致、平和…どんな共同体にも必要な要素だが、とりわけ主の教会には重要な項目であり、コリントの教会には特にそうであったであろう。そして現代に生かされる私たちもこの5つの一つ一つを大切に心に刻みたい。また、そのあとの主の臨在の約束は、私たちに力を与える。そして、愛と平和の主の臨在の中で、主の教会は、あらゆる問題や弱さを抱えながら、憐れみと恵みに満ちた祝福へと向かい続けていくのだ。だとすれば、私たちにもこの教会の祝福へと向かう歩みに責任がある。私たち一人ひとりが、それぞれに与えられ、委ねられている賜物を生かし、用いて、キリストの からだなる教会を建て上げ、他の人とあらゆる絆で結びあわされ、そして全体が成長し祝福へと向かっていくからだ。誰一人不要な人はいない。誰一人完全な人もいない。皆が主によって問われ、砕かれ、成長し、愛のわざを行っていく。一歩ずつ共に進みたい。

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20160214 『真の愛に生きる』コリント13 岩井牧師

『真の愛に生きる』  
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」                       (コリント13:4-8)

 先週からキリスト教の暦では、主の十字架を覚えるレントの季節に入った。この40日間を自らの歩みを振り返り、主の愛と恵みに生かされる時とできれば幸いだ。また今日は互いに愛を学ぶ日として世界でも注目を受ける日だ。商業的な香りがする中にあって、私たちは真の愛を共に考える時とされたい。
 愛の原点が神にあることを私たちは知らされている。しかし、その主の愛の深さをどれくらい味わい、受け取っているだろうか。そして、その愛に生かされ、愛に生きるものとされているだろうか。そのことを振り返ることだけでも大いに意味がある。家庭や職場、学び舎や教会にて、私たちは時に甘えが出やすく相手に愛を要求しやすい。しかし、愛は他者のために自らを犠牲にしていく歩みであり、具体的な行動を伴うものだ。それを実行していくことは決して容易ではない。自らへの評価を求める偽善的ではなく、真の愛を行い、愛に生きるものとして、私たちは成長を与えられ続けていきたい。あなたの最も甘えが出やすいところはどこだろうか。そこでこそ、私たちが愛を学び 愛に生きる恵みを経験していくことができる。どこにでも共におられる主にあって、私たちは主の愛に生かされ、具体的な愛に生きるものとされ続けたい。

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