月別アーカイブ: 4月 2016

20160417『ダビデの悲しみと憐れみ』 Ⅱサムエル19:1-23 岩井牧師

「きょう、イスラエルのうちで、人が殺されてよいだろうか。私が、きょう、イスラエ
ルの王であることを、私が知らないとでもいうのか。」
そして王はシムイに、『あなたを殺さない』と言って彼に誓った。」
<サムエル19:22,23>
私達は年を重ねたり、様々な立場に立つことになれてくると、「聞く耳」をもつこと
が難しくなる。ダビデもそうであった。アブシャロムとの確執や戦いは、ダビデの罪が
原因であった。しかし、ダビデはアブシャロムの死を願わない。我が子の死が伝えられ
ると人目も憚らずに悲しみ、表現した。せっかくの勝利の凱旋は、ダビデの極端な悲し
みの故に、まるで敗軍の帰還のように沈うつなものに変ってしまったのだ。
将軍ヨアブはそれを見、そしてダビデを諫めた。親としてのダビデの悲しみを理解しつ
つも、王として民を導く者としてのあり方へのチャレンジでもあった。ダビデはそれを
受け入れていく。自分の悲しみだけに浸り込み、家来たちの命がけの忠誠に一顧も与え
なかったダビデは、このヨアブの言葉を聞いて我に返り、部下達の労をねぎらったのだ
。人とのしての思いを越えて、神の民を導くために成すべき事があり、成してはならな
いことがあった。ヨアブの提案は的を得ていたが、アブシャロムを殺したヨアブをダビ
デは疎んじていく。人の心は決して単純ではない。
しかし、かつてダビデを残ったシムイを、ダビデは赦し、恵みを与えていく。主の前に
取り扱われるダビデの信仰の姿勢には、学ぶべき愛と憐れみの姿がある。私達も真に聞
く耳を持ちたい

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20160410 『信仰の従順を目指して』ローマ1:1-7 岩井牧師

『信仰の従順を目指して』  
「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。」               (ローマ1:5)
 使徒の働きの学びを終えた後、ヤコブ、ガラテヤ、コリント&と続き、今日からローマ人への手紙を学ぶ。ここには、パウロが何としても伝えたい信仰の基盤、救いの基盤、神学の基盤が描かれている。少し難解な箇所もあるが、壮大なスケールを持つローマ人への手紙(以降ロマ書)を、月に一度学び進めたい。

 このロマ書は大きく2つに分けられ、前半が1〜11章で信仰義認の基盤が、そして12〜16章が信仰者がどう歩むかが描かれている。そして、その全体を貫いているのが、「信仰の従順」である。このロマ書の最初と最後にこの「信仰の従順」という表現がある。真の従順は、強制や洗脳、人の何かによるのではなく、神様への正しい信頼による。私達は自分自身の信仰が真にバランスの取れた、みことばに立つ、従順へと導くものであるかどうかを吟味していく必要がある。
 主は私達の心を全てご存じで、その内側に真理と恵みに基づく、柔軟さと真実さ、誠実さと従順さを形作られるのだ。私達はみことばに立ち、豊かにされ、平安にされ、自由にされ、成熟・従順へと向かっていることが出来る。信仰の成長を心から祈り、主に取り扱われやすい器とされたい。

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20160403 『主の平安に生かされて』ヨハネ20:19-31 岩井牧師

『主の平安に生かされて』  
「イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』」                     (ヨハネ20:21)
 死からよみがえられ勝利された主は、人々を恐れ、隠れていた弟子達の集まる中に来てくださった。それは彼らに真の平安を与え、彼らを遣わすためだったのだ。主が人を用いられるとき、主はその人を自らの限界と向き合わせなさる。自分の弱さを受け止め、そこで主と出会い、主の息吹を再創造の祝福として受け、私たちは力づけられ遣わされていく。
 トマスは、熱い主の弟子だった。いのちをかけて主に従うことさえ語り、他の弟子達にも促している(ヨハネ11:16)。主の行く道について尋ねたのもこのトマスである(同14:5)。復活の主が弟子達に現れてくださったとき、彼はそこにいなかった。他の弟子達が主との出会いのすばらしさを語る中でも、彼はそれを受け止めることができなかった。そして自ら主を経験しなければ信じないと豪語したのだ。熱さの故の失望の深さだろうか。しかし、彼は他の弟子達と共にいることをやめなかった。その彼に会うために、復活の主は再び弟子達のただ中に来られた。主の深い愛は、一人一人に注がれている。そして主は彼の弱さを覚えながら、彼を信仰へと招かれた。トマスは「私の主、私の神」と恵みの信仰を告白したのだ。自らの弱さを通してのみ出会える祝福がある。主はあなたの全てをご存じで、あなたを招き、遣わされる。

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20160327 『復活の主の愛』 ヨハネ20:1-18 岩井牧師

『復活の主の愛』  
「イエスは彼女に言われた。『わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。』」                   (ヨハネ20:17)
 イースターおめでとうございます。全世界で祝われる主イエス・キリストのよみがえりの勝利を表すイースター、日本でも多くの場所で祝われるようになりました。しかし、クリスマス以上にその内容の大切さが理解されていないかも知れません。
 なぜ、イースターはおめでとうなのでしょうか。クリスマスがキリストの誕生日であることは多くの人が知っています。そしてキリストが十字架にかけられたことも。しかし、主の誕生も十字架も、このよみがえりの勝利のためであると言っても過言ではないのです。主は私達が義と認められるためによみがえられたからです(ローマ4:25)。クリスマスが全世界への救い主の誕生の知らせであった以上に、イースターは、私達が救われるための勝利の知らせだったのです。それは弱い女性達にまず届けられました。葬りの完成のためにきた女性達は、主の勝利を知らせる喜びの器とされたのです。中でもこのマグダラのマリヤに主は最初に現れてくださいました。多くの試練や悲しみを通ってきた女性だけに、その喜びはどれほどだったでしょうか。そこにこそ主の深い愛がありました。どんな人をも生かし、用いてくださる主の勝利の愛です。私達もまた、その愛に生かされて参りましょう。

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20160320 『初代教会の宣教とパウロ』使徒の働き18:1〜11 鈴木義明 師

『初代教会の宣教とパウロ』  
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町にはわたしの民がたくさいいるから。」
                (使徒の働き18章9〜10節)
 パウロの宣教は苦労の連続でした。アテネでの宣教は、十分な成果がないように思われた。パウロは心沈み疲れを覚えていました。アテネを去ってコリントに行きました。一方神様は、御自身のみこころを実現するために、自らが働かれました。パウロが大都市コリントを目の前に、心怯む時に、神は2つのことをされました。
1) 素晴らしい助け手を用意しました。プリスキラとアクラ夫婦です。同じ仕事をする同業者でもあった。どんなにか彼は励まされたか。宣教は一人ではできません。パウロには多くの協力者がいました。
2) もう一つ主御自身が幻の中で語られました。それが、9〜10節です。このことはもう一度パウロの使命を確認させ、さらに主の臨在の確信を与えました。それだけでなく、主の守りの約束、そして、コリントは、堕落した街でした。主はそこに多くの選びの民がいることをパウロに語ったのでした。あなたの町にはどうでしょうか。救われるべき人々が多くいるのではないでしょうか。また主がともにおられます。福音を語りましょう。

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20160313 『キリストの愛に応えて』 ヨハネ19:28-42 岩井牧師

『キリストの愛に応えて』 
「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」
(ヨハネ19:30)
 神の御子であるイエス・キリストが肉体をとってこの地上に来られたのは、私達の苦しみや、悲しみを共に味わうためであった。そればかりではなく、父なる神からの永遠の裁きを受けるという霊的な苦しみを身代わりに受けるために、全ての渇きをも経験された。主は苦しみの全てを味わい尽くされた。痛みを和らげるぶどう酒は拒絶されたが、兵士達が飲んでいたものは受けられた。
 苦しみの全てを味わい尽くされた後、主は「完了した」と語られ、主にある贖いのわざが完了したことを宣言され、ご自身を父なる神にお渡しになった。主の死は確認された。しかし、兵士の槍は主から血と水が流れ出たことを証することとなった。それが真実であることが目撃者によって証されている。ある学者は、この主の死が心臓の破裂だったのではないかと言う。苦しみの全てを味わい尽くされた主の壮絶な死は、私達への愛の壮大さを表している。主はご自身のいのちをかけて私達への救いを成就してくださったからだ。その主の愛を受け止めて、今まで表に出ていなかった人々が愛を行動に移した。アリマタヤのヨセフもニコデモも、そして女性達もだった。
主は罪に満ちた愚かな私達をいのちがけで愛された。私達はどのように主の愛に応答していくだろうか。一歩を踏み出したい

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