月別アーカイブ: 5月 2016

20160529『反乱と王国の意味』IIサムエル20

「この女はその知恵を用いてすべての民のところに行った。それで彼らはビクリの子シ
ェバの首をはね、それをヨアブのもとに投げた。ヨアブが角笛を吹き鳴らしたので、人
々は町から散って行って、めいめい自分の天幕へ帰った。ヨアブはエルサレムの王のと
ころに戻った。」            <サムエル20:22>
 ダビデの王国が建て上げられていく歩みは、痛みと混乱を伴った。バテシェバとの大
いなる罪が、様々な影を落とし、アブシャロムの反乱を招いたのも、ダビデの愚かさの
故だった。このベニアミン人シェバの反乱もまた、ダビデの心を痛めるものであった。
その背後にはベニアミン人サウルへの思いや、その後の自分たちの扱いの問題があった
であろう。人間の弱さや愚かさが重なり様々な確執、反目が生まれていく。しかし、そ
の中で神がなそうとしている御業が行われていくことに心をとめていく必要がある。
 シェバの反乱は、ダビデに対して不平や不満を持つ多くの民の反乱へとつながってい
った。そして、このことがソロモンの後の王国の混乱、国の分裂に繋がっていく(列1
2:16)。私たちは自らの心にある闇に目を閉ざしてはならない。しかし、この反乱も一
人の知恵のある女性によって解決に向かっていく。主は心に知恵のある一人の存在を豊
かに用いられる。どんな小さな弱い存在であろうとも、神の知恵によって行動する時、
その人は主に豊かに用いられていくのだ。一方将軍アマサは大事な場面で遅れてしまう
。そのことがヨアブによって利用され、彼もまたいのちを取られてしまう。そしてダビ
デはこのヨアブを疎みながらも、彼を指導することができない。人を恐れるダビデの影
がそこにある。それでも主はダビデの王国を建てる。主の憐れみは深い。

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20160522『主の恵みを拒む時』ローマ1:18〜32

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時から
このかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余
地はないのです。」
<ローマ1:20>
 天地万物を創造された神の永遠の力と神性は、弁解の余地がないほど明確に示されて
いる。また人間の罪悪感や倫理観の背後にも神の存在を認めることができよう。しかし
、罪深い私たちには、心のどこかで神を否定し、認めようとせず、良心の語りかけにも
耳を傾けようとしない頑なさがある。その背後には、高慢があり、自らを神としようと
する傲慢があるが、その問題の大きさを感じながらも、それと対峙することは決して容
易ではない。
 聖書は罪の結果を明確に語っている。主の恵みと愛を拒み続ける時に、神の裁きがあ
ることを預言者を通し、御言葉を通し語り続けておられる。それが神の愛と憐れみの故
であることを私たちは忘れてはならない。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを
受けることが定まっている」(へブル9:27)とあるように、私たちは皆、主権者なる神の
前に立たなければならない。私たちはその用意ができているだろうか。永遠への備えは
「今」を生きることにつながる。天にある希望、新天新地のいのちに生きるキリスト者
は、その恵みと祝福を先取りして、「今」を真実に誠実に生きるものとされ続けていく
のだ。日々の歩みの中で主は語りかけておられる。愛と恵みと真実をもって、私たちに
語りかける主の御言葉に心をとめ、罪を心から認め、悔い改め、変えられ続けていく祝
福を味わう者とされ続けたい。主はあなたを待っておられる。

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20160515『福音宣教の恵み』ローマ1:8〜17

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるす
べての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓
示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によっ
て生きる』と書いてあるとおりです。」   <ローマ1:16,17>
 今日は、ペンテコステ礼拝で、旧約聖書の五旬節の祭りに相当する。モーセを通して
律法が付与された時とも重なり、大麦の収穫を終え、いよいよ小麦の収穫となるため「
刈り入れの祭り」(出23:16)、「初穂の日」(民28:26)とも呼ばれている。
 新約の時代においてペンテコステは、キリストの教会の誕生の日であり、主の弟子達
全員に聖霊が下り、彼らが他国のことばで「神の大きなみわざ」(使徒2:11)が語られた
ときである。人間の高慢さが裁かれことばが混乱させられたバベルの裁きが、その言語
の違いの豊かさや文化の差異を越えて、主の福音と愛に包まれたときとも言えるだろう
。豊かな実りと共に、主のみことばがひとりひとりに与えられ、キリストの教会が力強
く前進していく一歩となったのだ。「福音宣教」を主の教会は使命とする。そしてその
福音に生かされ、福音を宣べ伝えていく喜びをパウロは、このローマにある主の教会の
人達に、そしてそれを読む私達に分かち合っている。「福音を恥とは思わない」そのこ
とばは、私達へのチャレンジでもある。確かに主に従い歩むことには闘いがあり、時に
は迫害や痛みを伴う。しかし、私達はこの福音を心から受け取り、それを分かち合うよ
うにと招かれているのだ。そして多くの人の人生や心は、この主の愛と福音を渇き求め
ている。
 主の教会に連なる私達、もういちど福音の豊さに生かされ、信仰から信仰へと進ませ
て戴きたい。愛の主はともにおられる。

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20160508『母の愛に生かされて』詩篇139:11-18

「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてくださ
い。」           <詩篇139:24>
母の日の喜びは、感謝する私たちも、感謝されるお母さん達をも包みます。存在を感謝
し、それを与え合う関係は、お互いを力づけ、励まして行くからです。聖書が語る神を
知る人たちは、全てを創造された神様の愛を知っています。神様が母の胎に私たちを置
かれました。しかも私たちの存在は親の思いや理想ではなく、神様の素晴らしい御手の
中で、恐ろしいほど素晴らしい存在として創られたのです。
しかし、私たちはその神様の愛を認めず、全てをご存じであるという神様から、逃げた
いと願うことさえあるのです。すべてを知られているという事に恐怖を覚えたり、自分
の愚かさや罪深さを突きつけられるような思いがするためでしょうか。この詩篇の作者
であるダビデもまた、同じような思いを抱えたようです。しかしどこに行ってもともに
おられる主の臨在に触れ、彼は自分の内側にある闇の心をも告白し、祈るのです。そし
て最後には、全てをご存じであるという神の前に、自分の全てを知って欲しいと祈って
いるのです。それは全てをご存じでありながら、なおも愛して下さる神様の愛に生かさ
れるという歩みへの前進だったのでしょう。
 そしてとこしえの道に導いて欲しい、平安と慰めと勝利といのちの道へと導いて欲し
いと心から願うのです。その祈りを私たちも、日々祈ることができます。毎日、私たち
は永遠を目指して、永遠のいのちを心に留めて祈り求め、歩みを進めていくことができ
るのです。

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20160501『信仰の原点に戻る』 ヨハネ21:1-14 岩井牧師

「イエスは彼らに言われた。『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。
』そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げるこ
とができなかった。」
<ヨハネ21:6>
先週のジェームス・フーストン師のセミナーは、日本に生かされているキリスト者と
しての原点を確認し、そこに生きることへの励ましを受ける時だった。様々な文化を私
たちは背負っている。それを認識し、そこに生き、さらにそれを越えて歩みたい。
主の十字架によって打ちのめされ、主の復活によって励ましを受けた弟子たちではあ
ったが、まだ立ち上がることはできなかった。彼らは自分たちのかつての仕事に戻って
しまったかのようだ。彼らの混乱と失意の大きさを思わされる。
しかし、主はその彼らに寄り添われる。そして彼らの夜通しの苦闘もご存じで、彼ら
のために焚き火を用意され、そして彼らを原点に招かれた。それは失意を深めた彼らに
とってどれほどの励ましと慰めになったことだろうか。漁師であった自分の力ではどう
することもできなかった現実の中で、主の言葉に従ったときの大漁の恵みに彼らは主と
の再会を経験していく(ルカ5章)。
私たちも幾度か、「原点」を確認する必要がある。救いの原点、愛の原点、礼拝の原
点、奉仕の原点、賛美の原点、そして教会の原点などだ。その全てにおいて主は私たち
を招かれる。そして置かれた場、遣わされた場で、主は愚かな私たちを恵みと憐れみの
器として用いて下さる。幾度も原点に戻り続けよう。

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20160424『人生の葛藤と恵み』 Ⅱサムエル19:24-43 岩井牧師

「しかしここに、あなたのしもべキムハムがおります。彼が、王さまといっしょに渡っ
てまいります。どうか彼に、あなたの良いと思われることをなさってください。」
<サムエル19:37>
私たちの人生には、様々な葛藤があります。思うようにならない現実と向き合うこと
は決して楽なことではありません。しかし、主から慰めや回復を受ける時、すなわち思
うように物事が進んでいく時にもまた、別の葛藤が生まれることがあります。
それまでダビデを裏切ってアブシャロム側についていたユダ族と他の部族との確執は
、イスラエルの民の混乱や不和を助長していくことになって行きます。勝利ゆえに対峙
すべき課題は小さくありませんでした。しかし、ダビデは高慢から守られていきます。
ヨナタンの子メフィボシェテとの再会が与えられた時も、彼のしもべツィバから偽りの
報告を受けていたことを知りつつも、両者への誠実を示す恵みが与えられます。年を重
ねてきた誠実なしもべバルジライに、今後を支えたいと申し出て断れらた時もダビデは
、彼のしもべキムハムを受け止め、彼に真実を尽くしていくのです。バルジライをはじ
め、ダビデに真実と誠意を尽くして下さった方々に支えられた恵みをダビデは決して忘
れなかったのです。それもまた、苦難を通った故にダビデの心に深く刻まれた主の恵み
だったのでしょう。その恵みを受けて、イスラエルの不和の問題に向かっていくことが
できたのも、主の憐れみといえるかもしれません。ダデビを奪うようにして迎えるユダ
の人々と他の部族の人々、歓迎の裏側の問題はこの後明らかになって行きます。主は私
たちに誠実で謙遜な歩みを求められるのです。

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