月別アーカイブ: 8月 2016

20160821『ダビデの三勇士』サムエル23:1-19

「すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸か
ら水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとは
せず、それを注いで主にささげて、言った。『主よ。私がこれを飲むなど、絶対にでき
ません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。』彼は、それを飲もうと
はしなかった。」 <サムエル23:16,17>
 ダビデは最後のことばとして、主を賛美する歌を詠う。それは主の恵みを確認し、
主の霊によって自らが主のことばを伝える者とされた祝福を語る。そして「わが家」は
、神と共にあると永遠の契約に基づく主の守りを遺言のようにして子孫に伝えていく。
 そしてダビデの歩みが、具体的には彼にあって主に従う多くの勇士たちによって支え
られ、守られてきたことを語り伝えている。特に「ダビデの三勇士」と呼ばれるヤショ
ブアム、エルアザル、イタマルを中心にした40名の名前が挙げられている(9-39v)。
ダビデはこのように多くの勇士達に支えられてきたことをも伝える。
 特にこの三勇士は、いのちがけでダビデの希望を叶えようとした。それはペリシテの
敵陣にあるベツレヘムの門の井戸の水だった。たかが水のために命がけの歩みをこの三
勇士はダビデのために行った。自分の安全以上に、主人である王の希望を優先した彼ら
のいのちがけの水をダビデは飲もうとしない。そしてそれをささげものとしてダビデは
主にささげ注いだのだ。
 それはダビデもまた勇士達も、神の前に立ち続けていることを忘れなかったからであ
り、全てを主のためにと願ったことでもあったであろう。しかし勇士ウリヤの名は私た
ちに罪の現実を語る。

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20160814『信仰によって義と認められる』ローマ 3:21-31

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました
。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく
、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく
、信仰によるというのが、私たちの考えです。」 <ローマ3:27,28>
 私たちの生活は様々な「信頼」に基づいています。地球環境に基づく社会生活におい
ても、様々な人間関係においても、そして個人の生活においてもです。普段は意識しな
くても自分が何に信頼を置いて歩んでいるのかを考えることは重要です。
 神の民は、何よりも神に信頼することを生活の中で教えられ、親から子へと受け継が
れてきました。生活の中で、律法を基準とした神の御心に沿う歩みを具体的に問われて
きました。しかし、その原点には、神への信仰があり、誠実さが求められてきたのです
。しかし律法主義の背景はその恵みを自分の義を表すことに用いるという誘惑がありま
した。神への信頼がいつのまにか自分の行動や力に依り頼み、それを行えない人を裁い
てきたのです。「信仰によって義とされる」ことは、旧約時代から神の民に求められた
ことであり、すべてが神のものであるという主権に依り頼むことでもありました。主へ
の誠実さは常に問われながらも、私たちはどこまでも神を信頼し、神の御子にある救い
のわざの全て、憐れみの贖いのわざを自らのものとして、謙遜に受け取っていくことが
主によって求められているのです。「信仰義認」の恵みは私たちが主の前にへりくだり
、罪の自覚を深め、主の愛に生かされる豊かな人生へと私たちを導くのです。

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20160807『神との交わり、人との交わり』I ヨハネ1:1-10

  
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たち
と交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キ
リストとの交わりです。 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全き
ものとなるためです。」               <ヨハネ1:3,4>
 主の弟子ヨハネは、晩年をエペソで過ごし、主イエスとの交わりを深く思い起こしな
がら、聖霊に導かれて、「ヨハネの福音書」を記した。それは福音書の中でも特異な存
在であり、主の心が深く表されているものだった。続いてヨハネは、エペソを中心とし
た小アジアの諸教会に宛てて、三つの書簡を記している。それは回覧されることを前提
としつつも、異端的教え<イエスが、キリストであることを否定したり、神の御子であ
ることを認めようとしなかったり、肉体をとってこの地上に来られたことも否定する教
え>に振り回されていた教会が真の教えに立ち、正しく建てあげられていくようにと心
から願った故である。
 教会の中の混乱は、みことばを正しく理解することを拒絶したり、真の交わりをもと
めずに人間的な考えに振り回されたりすることによることが多い。そこにも人の問題が
ある。しかし、真の交わりの原点は、主ご自身との交わりであり、主との交わりに真実
に生かされているとき、私たちは自分の弱さも愚かさも、罪も過ちも心から認め、悔い
改め、主の赦しときよめを豊かに受け取っていくことができるのだ。いのちのことばそ
のものである主ご自身と私たちはどのように交わりを持ち、深め、その交わりに生かさ
れ、それを人々とどのように分かち合っているだろうか。祈り求めたい。

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