月別アーカイブ: 9月 2016

20160925『賜物を使っているか?』ペテロ4:7〜11

(ロブ・フレミング宣教師)

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」  <ペテロ4:10〜11>
  1ペテロ4:7−11を読むとき、二つの質問について考えると良いと思います。
 1.誰かがあなたのクリスチャンの希望について質問したら答えられますか? つまり、あなたは福音を説明できますか?
 2. あなたの周りの人は、あなたの希望について質問しますか? つまり、クリスチャンとしてのあなたの内にある希望は、他の人が気づいているでしょうか? 神様は皆さんに能力の賜物を与えています。そして、それを3つの理由があって、使って欲しいと願っておられるのです。
1.ほかのクリスチャンをあなたが手伝い、助けるため。
2.イエス様を知らない人たちに、あなたが持っている希望について聞かれた時に、説明することができるため。
3.そして、最後に神様が下さった賜物、能力を神様のために生かすことは、あなたに喜びと満足感を与えるからです。

広告

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20160918『ダビデの罪と主への礼拝』サムエル24章

「しかし王はアラウナに言った。『いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。』そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シェケルで買った。こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。」 <サムエル24:24,25>
 ダビデの最も大きな罪は、ウリヤの妻との姦淫、またウリヤの殺害にかかわることだった。しかし、もう一つ記されている罪は、この箇所にある「民、そして兵士を数える」ということだった。実際の王として必要に見えることが、神の主権を生きる神の民にとっては、ふさわしくないことがある。ヨアブがその適正を問う言葉もダビデには届かない。実際に兵士の数が報告されたときに、ダビデはそこにある満足の危険性と向き合ったのだろうか、主の前に罪を告白する。この罪の背後には、王の満足や高慢の罪が隠れ、そして神の怒りに繋がっていったのであろう。
 その罪の裁きをダビデは自ら、神の御手によって受けることを決断する。どんなに苦しもうと人の手によるよりも神の御手の中でを考えたのであろう。しかし、その裁きの現実は決して小さなものではなかった。王の罪の問題が、民全体に大きな影響を与える。罪を侮ってはならない。しかし、主の憐みは、ダビデに祭壇を築かせ、神への祈りと礼拝をささげることへと導く。ダビデは自ら犠牲を払い、心から主を礼拝する。この場所がモリヤと呼ばれ、神殿が築かれていくことに主の恵みの摂理を思う(歴代3:1)

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20160911『アブラハムにおける信仰義認』ローマ4:1-25

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」                      <ローマ4:19-22>
 年を重ねることは、多くのことを理解し受け取っていく人生の豊かさに繋がっていく。しかし、思いを遙かに越えた人生のチャレンジをアブラハムは、信仰を持って受け止めていったのだ。
 老齢になって子供が与えられるという主からのチャレンジは、アブラハム、またサラの信仰を揺るがせたに違いない。しかし、自分の理解や考えでは想像できない状況で、アブラハムは信仰を働かせて強め、神の約束に信頼を置き、神に栄光を帰す決断をした。自分の何かにではなく、神の約束は真実であると心から主に信頼を置いていった。そこにこそ、彼の信仰の勝利があり、彼が神の前に義と認められた要因があった。
 彼らの信仰の原点にあったのは、主の勝利への信頼だった。そしてそれはキリストの復活の勝利を信じる事への恵みへと聖書は続いていく(ローマ4:24,25)。私達が信仰によって義と認められるのも、自分たちの何かにではなく、主がなしてくださった業、主の復活の勝利に信仰の基盤をおくことによるのだ。私達は年を重ねてなお、主ご自身に信頼を置き、主の真実に生かされ、主の復活の勝利に豊かに生かされていくことができる。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20160904『神を知り、光の中を歩む』ヨハネ2:1-11

「みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているの
です。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。神のうちにとどまっ
ていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」 
                    <ヨハネ2:5,6>
 私たちは、生活の中で多くの罪を犯し、また繰り返してしまう。通常なら見捨てられ
て当たり前の状況の中で、義なるキリストは、私達のために父の御前で弁護して下さる
。そしてその贖いの業は、全世界のためである。私達の主の贖いは世界の再創造にある
ことに心をとめる必要がある。
 その上で神の民はこの地上の生活の中で、みことばにある神の命令を守るようにと促
されている。それこそ神の愛への応答であり、神の愛のうちにいる証でもあるのだ。そ
してその具体的な歩みは、キリストがこの地上を歩まれたように歩むことを示している
。主がご覧になったように、世界を見、主が聞かれたように、人々の痛みを聞き、主が
歩まれたように私達は人への愛を表し、共に歩む者へとされていくのだ。そこにこそ、
真理に導かれ、真理を証しする歩みであり、光の中を歩むキリスト者の姿が現されてい
く。それは最初にあるように罪を認め、主の贖いの業を自分のものとして受け取り続け
ていくことから始まる。そして主の愛の光、みことばの光に照らされながら、私達はな
お世の光としての歩みを薦めていくのだ。そこには兄弟を憎んでしまう罪を悔い改め、
光によって変えられ、砕かれ続けていく歩みがある。主のへりくだりを心にとめ、私達
も主が歩まれたように歩ませていただきたい。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20160828『福音の望みに生きる』コロサイ1:13〜23

「 ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音
の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、
天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに
仕える者となったのです。」 
  <コロサイ1:23>
キリストの福音は、それを理解し、受け入れ、信じて生きる人々を、神の国に生きさせ
る。暗やみの圧制から解放されて、御子が治める領域に生かされること、それはすでに
来ている神の国の恵みであり、終わりの日にその完全な実現を経験することになる秩序
である。
ところが、この恵みにあずかり、その日を遠望して今を生きるキリスト者を揺さぶる
力は、コロサイ書の時代もこんにちも、巧妙であり、また激しい。信じただけでは不十
分であるかのような教え、何か特別な付帯条件が必要であるかのような惑わしが、キリ
スト者の眼差しを、キリスト以外のどこかに向けさせようとする。
だまされてはならない。みことばの確かな約束が私たちの拠り所である。識別力をいた
だき、平安をもって、福音の望みに生きる者でありたい。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized