月別アーカイブ: 11月 2016

20161120『キリストのいのちによって』ローマ 5:12-21

「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」                   (ローマ5:21,22)
 今日は、年に一度の召天者合同記念礼拝だ。この地上に残されている私たちと、主のもとに凱旋された方々との合同の主への礼拝とも言えよう。主のご支配に遷された方々の笑顔やその歩みを私たちは心に刻む恵みが与えられている。
 死と向かい合うことは簡単ではない。しかし、私たちは先に死と向かい合われた方々を見守り、共に歩むことを通して、私たちも死すべき存在であることと向かい合い、永遠を考えてきた。メメント・モリと中世から語られてきた言葉も、私たちを永遠の世界といのちへと向かわしめる。死を見つめることはいのちを見つめることに繋がり、そこで生きる力と喜びを受けとっていくことができる。
 そして、キリストは、私たちのために死に向かわれた。死と無関係の神の御子が死ぬためにこの地上に来られたクリスマスの祝いは私たちを真のいのちに招く。最初の人アダムが犯し、私たちも重ねてしまう罪の裁きを身代わりに受け、真の従順を歩まれ、私たちに寄り添い、苦しみを共に味わい、私たちに希望といのちを与えるために、主は十字架にかかってくださった。そして、永遠のいのちの存在を復活を通して力強く示してくださった。私たちもこのいのちと希望に生きることができる。そして、私たちもまた、死と向かい合いながら、共に歩む人々のいのちと希望の存在となることができるのだ、キリストのいのちによって歩もう。

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20161113『心から神と人を愛する』ヨハネ3:13-24

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。…子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」     (ヨハネ3:16,18)
 年を重ねることは、ひとりであることと向き合うこととも言える。主の弟子ヨハネは十二弟子の中で、長く生かされ、主の前に静まる中で、「主の愛」を深く受け止めていったのだろうか。愛に関する彼の洞察の深さには、人生の深みも含まれているのだろうか。
 自らを「主の愛された弟子」と語るヨハネの心には、主の足のもとで見上げたキリストの十字架があったのではないだろうか。主の母として歩んだマリヤと共に過ごす中で、なおその思いは深まっていったのだろうか。そして主の教会の様々な問題の中で、愛の重要さを痛感していったのではないだろうか。
 主の愛を深く受け取らなければ、私たちは他の人を愛することができない。キリストの愛がいかに、行ないと真実に満ちていたかを味わい知る者こそが、真の愛に生かされることができる。そして他の人を心から愛する者へと変えられていくのだ。たとえ私たちの心が責めても主は全てをご存知で、その上で私たちを愛し、私たちを愛の器と変えてくださる。主の愛に生かされ満たされ続けることが、真実な愛の歩みへの大切な一歩と言えよう。主の前にひとり静まり、その愛を心から味わい、届け続けたい。

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20161106『キリストにとどまる』ヨハネ3:1-12

「 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。」 (ヨハネ3:6,7)
今日はともに「子供祝福式」を祝い、また祈ることができることを感謝します。主イエスは、子供を愛されました。子供のようになることを私たちに求められたのです。それは弱さや愚かさを認める成熟であり、正しい依存を学び、自ら主に向かう招きでもあったでしょう。私たちは子供たちと共に、主の祝福に預かるのです
成熟の方向は、また清さへの渇きでもあります。キリストの清さを求め続けることは、キリストにこそ目をとめて、内なる罪との闘いを戦い抜くことでもあり、自分の罪深さを自覚し、悔い改めの日々をともに送っていくことでもあります。主の憐れみに生かされ続けていくことこそ、私たちが内側から創り変えられ、キリストに似たものへとされていく近道なのです。それは表面を飾ろうとする私たちへのチャレンジでもあるでしょう。
その日々の闘いは、キリストのうちにとどまり続けることに始まります。私たちは簡単に、自分の思いや願い、欲に魅かれて行ってしまいます。神の種が内にとどまり、みことばが私たちの心や生活に実りをもたらしていくこと、その歩みは決して簡単ではありませんが、豊かな祝福が約束されているのです。私たちは子供たちと一緒に主の御前に出て、共に主の祝福を受けるのです。

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20161030『ソロモンへの王位継承』列王記1:22-48

「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。私がイスラエルの神、主にかけて、『必ず、あなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私に代わって王座に着く』と言ってあなたに誓ったとおり、きょう、必ずそのとおりにしよう。」                     <列王1:29,30>  王であれ、誰であれ、人生の終わりを迎えることになる。その事実にどう備えるかを私たちは考え始める責任がある。
 イスラエルにおいても、王位の継承は大きな問題であった。王制を民が求めたところから、その課題は始まっていた。王が本当に神に従うかどうか、それが国全体に大きな影響を与えていくことをこの列王記は物語る。この後訪れる王国の分裂もやはり王位継承問題が関わってくる。誰に王位を譲るのか、以上にどのように神への信頼を継承していくのか、そのテーマこそ、この列王記が私たちに問いかけるポイントと言えよう。
ダビデの四男アドニヤがダビデからの王位を自ら受けようとした背景には、ソロモンの特別な存在があった故であろう。それゆえソロモンや預言者ナタンは招待されない宴会が催される。人間的な知恵や力関係で何かを得ようとする浅はかさがここにある。思慮深さや周到な準備も皆無な衝動的な行動にさえ見える。そこに主の御旨を語り伝える預言者ナタンが立ち上がる。ソロモンが祭司ツァドクによって油注がれ、王位継承が明確になるとアドニヤにくみした者達は逃げ始める。人間的な行動は脆い。
しかし、このアドニヤにさえ、逃れの道が用意されており、彼は救いの角をつかんだ。このあとソロモンの信仰姿勢が問われることになっていく。私たちは何を継承していくのだろうか。

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