20170423『聖霊によって歩む』ローマ8:1-11

 
 「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」 <ローマ8:9,10
 私たちの内側には葛藤が常にある。キリストに従いたいと願いつつも、そうではない罪の方向へ、神に喜ばれない歩みへと向かってしまう矛盾した罪の傾向への葛藤が…。しかし、7章までの書き方と異なり、8章からは聖霊が私たちをどう導かれ、変えて下さるのかが中心に描かれている。私たちの闇の現実をも光に変えて下さる主の勝利といのちが描かれているのだ。
 そこには、私たちが自覚すべき大きな恵みがある。私たちの内に、聖霊なる神が住まわれ、またそれゆえ、キリストがうちにおられる事実だ。私たちのいのちとはキリストであり、キリストの御霊が私たちの内にあるゆえに、私たちは外なるからだが罪のゆえに死んでも御霊のいのちが私たちの内で輝くというのだ。そのとき、私たちにどのような現実があろうとも内にあるいのちに目を留め、御霊のいのちにあって生かされること、今抱えている問題の中を御霊に導かれて歩むことができるのだ。  私たちと共に、主がいてくださる。復活の主の勝利、いのちの輝きが私たちの人生の歩みの現実にある。主を信頼して歩もう

20170416『心はうちに燃えて』ルカ24:13-39

 「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。』」                       <ルカ24:30-32>  イースターおめでとうございます。死を恐れる私たちにとって、このイースターの喜びは、人生の大きな意義を持っています。
 主イエス・キリストが十字架にかかられたことは、主の弟子たちにとって大きな痛みであり、失望の原因でした。主が殺されてしまったゆえに、彼らの今までの人生が否定されただけではなく、彼らにも死への恐怖が押し寄せ、彼らは隠れ、またエルサレムを離れていったからです。エマオに向かった主の二人の弟子もそうでした。しかしその彼らに復活の主が共に歩まれました。彼らの痛みに寄り添い、彼らの心を聞き、そして彼らに旧約聖書から救い主の苦難を通る勝利を語られたのです。それでも彼らの目は閉ざされていました。しかし、主がまるで彼らの食卓の主人のように、パンを祝福し裂かれたとき、彼らの目が開かれ、その方が主イエスであることを理解し、主は見えなくなられたのです。
 しかし、彼らの心は全く変えられ、心が内に燃えていることを彼らは感じたのです。みことばの真理が、また主の臨在が、そして主の復活の勝利が彼らを内側から変え、彼らを再びエルサレムへと向かわせました。主の復活の勝利は、この二人だけではなく、主の弟子たちの人生を大きく変えていくことになるのです。  私たちの心にも人生にも主は勝利と希望を与えて下さいます。

20170402『健全な成長と祝福』IIIヨハネ1:1-15

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。…愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神を見たことのない者です。」                         ( ヨハネ1:2,11)
 ヨハネがエペソの教会を中心にしたアジア諸教会に記した、第三の手紙には、教会の混乱の問題が根底にある。ガイオが所属していた教会に、使徒たちをののしり、服従せず、欲しいままに振舞っていた人の存在が教会に悪影響を与えていたからだ。
 しかし、ヨハネはその中にあっても、主の教会が、真理に立って歩んでいることを感謝している(3,4v)。また、巡回伝道者や巡回教師に対しても、愛を持って接し、もてなしている事をも感謝している(5-8v)。その上でこの混乱の問題を取り扱う。
 私たちは時に、起こってくる問題にばかり目を留めてしまい、与えられている感謝や喜びに心を留めることが少なくなる。しかし、聖書は私たちに主が良くしてくださったことを忘れず、恵みを数えるようにと教え導く(詩篇103:1-14)。その恵みの上で私たちは与えられている問題に取り組んでいく必要があろう。
 混乱をきたす人物について、ヨハネは言葉を緩めず、愛を持って真理を語っている。それは主イエスがそうされたように悔い改めを促し、主にある兄弟として関係を回復するためであったろう。私たちは皆問題を抱えているからだ。そして問題が表面化する時こそ、私たちの成長のチャンスであり、教会が教会として整えられていく恵みの時となる。私たち一人一人が健全な成長を祈り求めるとともに、教会もまたみことばにあって成長したい。