月別アーカイブ: 7月 2017

20170723『すべてが益に』ローマ8:26-30

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」           (ローマ8:28)
 被造物全体のうめき、私達のうめきに続いて、御霊のうめきが記されている。弱い私達は、どう祈ったらよいのか、何を求めたらよいのか、分からなくなるときがある。しかしその言葉にならないうめきを聖霊なる神は、共に神にささげてくださるのだ。そして、ここに登場するうめきは、すべて希望に基づいていることを忘れてはならない。被造物も贖われることを待ち望み、私達もからだの贖いを待ち望み、そして聖霊なる神も、この私達が御子のかたちに変えられていくことを望み、それをかたち造り続けてくださるからだ。希望があるからこそのうめきであり、痛みをキリスト者は経験する。今自分がどのような苦難の中にあろうとも、私達に将来与えられる栄光の素晴らしさから目を離してはならない(18v)。その大いなる希望と栄光に心をとめていくとき、私達は、全てのことを働かせて益として下さる神様の愛と主権を心に留めて、歩むことが出来る。
 神を愛する人々して私達は招かれている。どんな状況の中でも、私達は神を信頼し、愛する者とされていくことが出来る。すでに私達は神のご計画の中に置かれ、召され、義と認められ、そして私達には、栄光が待っているからだ。それは御子のかたちが私達のうちにかたち造られていく歩みであり、苦難も悲しみも痛みをも通して、神は私達を取り扱い続けて下さるのだ。  だからこそ、私達は、すべてを神に委ね、自分の思い通りにならない現実をも愛なる神と共に、力強く歩んでいくことが出来る

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20170716『悔い改めの実』マタイ3:1-12 

  「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。                         (マタイ3:2,3)
 旧約聖書のマラキ書が記されてから、バプテスマのヨハネが登場するまで約400年の月日が流れた。中間時代と呼ばれるこの期間は激動の期間でもあった。ペルシャが滅び、地中海諸国はギリシヤに征服されアレクサンダーによりヘレニズム文化が席巻。紀元前200年頃にはローマ帝国が地中海周辺国を制覇。ユダヤはローマ帝国の属州となり、紀元26年にはピラトがユダヤの総督となり支配が長期間にわたり続き、ユダヤの民は長い間、抑圧された。その結果、彼らは切に救い主メシヤを待ち望み続けていた。しかし、それはローマを倒しイスラエルを再興する待望でもあった。その混乱の中、イスラエルは霊的には枯渇し、神殿礼拝も商売の場と化すような状況だった。そこに預言者エリヤを彷彿とするバプテスマのヨハネが登場する。彼の説く悔い改めのメッセージは、人々の心を捉えた。多くの人が罪を認め、悔い改めのバプテスマの受けたのだ。それは真の救い主を待ち望み、その道を用意する非常に重要な備えだった。しかし当局者達は悔い改めを拒絶し傲慢さを露呈する。
 真の悔い改めは、どの時代でも全ての人に必要だ。神の前に心を整えられる時にこそ、私達は豊かな実を結ぶ者とされるからだ。心砕かれ、悔い改めの実を豊かに結び、主の祝福と恵みを豊かに受け続けたい。主は、あなたを祝福しようと待っておられる。 

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20170709『悲しみの中の慰め』マタイ2:14-23

 「夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『この方はナザレ人と呼ばれる。』と言われた事が成就するためであった。」                     (マタイ2:22,23)
 エルサレムをおそらく80名ぐらいの集団で訪れた東方の博士たちの訪問、そして「ユダヤ人の王の誕生」との情報は、イドマヤ人であったヘロデ王の基盤を揺るがした。博士たちにその幼子のことを詳しく知らせてほしいと頼んでいたヘロデ王だが、神から夢を通して警告を受けた博士たちは別の国から戻った。それがわかったヘロデ王は、ベツレヘム近郊で生まれた2歳以下の男の子を全部殺害させたのだ。何という暴挙だろうか。
 当時の人口のデータによると20〜30名であったろうと推測されても、やはり幼子を殺害された親や家族の悲しみは深い。救い主の誕生によってこのような悲しみが起こることをなぜ神はとどめなかったのかと思う。しかし人間の罪の深さに嘆き悲しまれるのは、主ご自身ではないだろうか。エレミヤ書の預言から北イスラエル(エフライム:ラケルの子孫)の滅亡の悲しみの深さを思う。しかし、この預言は後のバビロン捕囚からの回復へと続いていることを忘れてはならない。悲しみの中にすでに慰めと希望が備えられている。救い主が人々から見下げられていたナザレで育つことも、人々の悲しみの中に慰めがもたらされる希望を表わしていよう。主は私達の悲しみを共に味わわれる。そして臨在によって真の慰めと平安、そして希望を私達に豊かに注いでくださる。

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20170702『イスラエルの王の礼拝』マタイ2:1-15

 「見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」     (マタイ2:1,2)  時季はずれの降誕の箇所だが、福音書の中に、明確に救い主の誕生の歴史的事実が描かれていることは感謝だ。
 東方の博士達がどこの国から来たのかは、明確ではない。しかし多くの学者は、かつてイスラエルが捕囚となった地域とそう離れてはいないだろうと考えている。あるいはソロモンを訪ねたシェバの女王の支配した地域を考える学者もいる。いずれにせよ、聖書が語る神の御名が崇められ、主が証されていた事実がこの東方の博士達の礼拝に繋がって行くであろう。主は歴史の中に介入され、神の民の悲しみの歴史でさえ、めぐみに返ることが出来るお方なのだ。ダニエル達が残した影響の大きさに思いをはせるとき、私達もまた、どう生きるかが問われる。
 それ以上にこの博士達が払った犠牲の大きさを思う。イスラエルの王の誕生を占星学を通して知った彼らは、あらゆる犠牲をいとわずに、エルサレムを目指したのだ。そして王のいるべき場所に着いた。ヘロデの弱さと罪故、悲しみを産むことになるが、真の慰めを与える為に主イエスは来られたのだ。私達はこの慰めを届ける為、また主を心から礼拝する為どう生きるのだろうか

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