月別アーカイブ: 9月 2017

20170924『主の名が置かれる神殿』I列王8:27-30

 
 「この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く。』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。」      (列王8:27)
  主への礼拝が献げられる「神殿」が完成した。それは神がダビデの心に与えられた思いに基づき、主ご自身がソロモンを通して、なさった主のわざの完成でもあった。主の臨在が明確に示される至聖所に、契約の箱が運び込まれる。民を代表する長老たちが集い、神への祭司たちがそれを行った。イスラエルの民全体による神殿の奉献式と言えるだろう。
 契約の箱そのものが、主の臨在の象徴ともされる。しかし、それは何よりも神と人との契約の証しであった。モーセを通し、エジプトの奴隷状態であった神の民が、神の憐みの契約に基づき、約束の地へと導かれ、恵みの中で、イスラエルという国が建てられ、主への礼拝の場が定められたのだ。それは神のご契約への真実さに基づくものである。民の愚かさに妨げられずに、神はご自身の名をその神殿に置かれる。神の臨在が満ちるその神殿は祭司が近づけないほどの輝きと恵みに満ちたのだ。  ソロモンはじめ、イスラエルの民の感動の大きさを思う。しかし、イスラエルの民の歩みの重要性はそれからだったのだ。
 現在において主の教会は、神の臨在を表わし、礼拝の場である。しかし、それは建物のことではない。キリスト者一人一人が神の臨在を表わす者であり、その歩みが主の栄光を表わすようにと主はチャレンジされる。主の愛に応え主の前を歩みたい。

広告

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170917『老いの祝福』詩篇71:14-24

 「神よ。あなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。
あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、
私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。」                    (詩篇71:19,20)
 今日は、「敬老感謝礼拝」です。今の私たちの世界を支え、苦難の中を歩んでくださってきた方々に心からの感謝を表したいと願います。それは次の私たちの恵みと力となると思うのです
 この詩篇71篇について、70人訳は「ダビデによる。ヨナダブの子らと最初に捕囚になった者たちによって歌われた詩篇」という意味の表題をつけています。ヨナダブはダビデの甥ですから、本来はダビデによって作られた詩篇とも考えられます。
この詩人は老年に達し、なお信仰の戦いを続けています。ダビデが背景にあるとしたら、我が子に関する痛みがあったことだと思います。しかし、詩人は苦難の中でこそ、変わることのない神ご自身に信頼し、その恵みと平安に生かされていくのです。その生涯は、後に続く者たちにとっての模範であり、力となります。私たちの願いや思いを超えた神のご計画の中にこそ、主の祝福があると信じてゆだねる平安は、年を重ねていく中でこそ、確信をもって与えられる平安ということができるでしょう。
本当に信頼でき、委ねることのできる方に明け渡し、その方の与える義と救いによって生かされる祝福は、私たちが生涯をかけて求め続けたいものです。苦難を通られた方々が持つ、素晴らしい恵みを私たちも受け取っていきたいと願います。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170910『勝海舟・最期の告白』ローマ1:16-17

「 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」(ローマ1:16,17)
  勝海舟が70歳の時、長男・小鹿を脳卒中で若くして失う。悲嘆にくれている勝に、日本に伝道旅行に来た伝道者ジョージ・ニーダム師が面会した。勝氏は一時間以上、ニーダム師が語る福音の真理に耳を傾けた。ニーダム師は終わりに、少し躊躇しながら、勝に、ひざまずいて祈りたいかどうかと尋ねると、勝は、即座に同意した。祈りの言葉は、日本人牧師により、一行ずつ日本語に訳された。祈りを終え、彼らが立ち上がると、勝は、涙に濡れた目をして立っていた。そして、ニーダム師の手を握り締め、『人生で一番すばらしい恵みの時でした』と、低い静かな声で感謝を表した(エドワード・クラーク著より)。

本日は、『勝海舟・最期の告白』の著者、守部喜雅氏による特別歓迎礼拝でした。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170903『暗闇に輝く光』マタイ4:12-17

 「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
     (マタイ4:16)
 イエスはバプテスマのヨハネからの受洗と、断食後の荒野での勝利の後、ユダヤとガリラヤを行き来したことが、弟子のヨハネによって記されている(ヨハ1:29‐3:36)。しかし宣教の開始の場所は、ガリラヤであった。そこには主のご計画があった。
 主イエスがバプテスマのヨハネの投獄を知ってガリラヤへ退去したのは、自分に類が及ぶのを避けるためではない。もしそうなら、ヨハネを牢に入れた領主ヘロデ・アンテパスの治めるガリラヤを避けただろう。むしろヨハネの逮捕に、立つべき時が来たことを確信し、ガリラヤに移ったと言えよう。ガリラヤは肥沃で人口が多く、交易も盛んで、新しいものに開かれた土地であった。山岳地帯のユダヤが閉鎖的であるのと対照的であったのだ。
 イエスは育ったナザレではなく、ガリラヤ湖畔の町カペナウムに移った。中心都市とは言えないカペナウムを拠点とした。そこには、イザ9:1‐2の成就がある。ゼブルンの地とナフタリの地であるカペナウム、異邦人が多く住み、ユダヤの人々から異邦人のガリラヤとさげすまれている地方、霊的暗黒にあった人々が、救い主イエス・キリストの活動によって偉大な光を見ることになる。霊的な暗黒、人間の心の闇を越えて、主はそこに光を輝かせることが出来る。そのために主は来られたからだ。  私達も闇を認め、悔い改め、主の光の中を生かされたい。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized