月別アーカイブ: 10月 2017

20171029『賛美の祝福』〜宗教改革記念礼拝〜コロサイ3:12-17

「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」     (コロサイ3:16)
 マルチン・ルターがヴィッテンベルクの城教会の門に95か条の提題を張り付け、「聖書に戻る」ことを中心とした宗教改革が始まって今年で500年目を迎える。続く宗教改革者達が闘った歩みは、『5つのソラ』: 「聖書のみ」 (Sola scriptura)、「信仰のみ」(Sola fide)、「恵みのみ」 (Sola gratia)、「キリストのみ」(Solus Christus)、「神の栄光のみ(神にのみ栄光を)」 (Soli Deo gloria) に代表される。何よりも最終的な権威は、人にではなく、神のことばにあることが確認されたことは大きな事だった。
 コロサイの教会は、当時の間違った教えに振り回されていた。しかし、その教会のためにパウロが語ったのは、「キリストのことば」を人々の心、生活、交わりの中に豊かに住まわせ、互いにみことばを通し、その知恵を尽くして、互いに教え合い、戒め合うこと。そして第二には、詩篇と賛美と新しい霊の歌とによって、感謝に溢れて、主に向かって賛美をささげることにあった。
 ルターは多くの賛美をみことばに基づき作詞し作曲した。讃美歌267に代表される多くの神への賛美は、5つのソラに基づくものと言っても良いだろう。それは宗教改革を生きた信仰者の原点であり、生涯の指針であり、宝であった。
 私達は何を宝として生きているだろうか。どこに価値を置いているだろうか。聖書・信仰・恵み・キリスト・神の栄光に私達も基盤を置き生かされ、なお豊かに神を愛する者とされていきたい。

広告

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20171022『神と共に歩む』I 列王記9:1-5

「あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正しさをもって、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、わたしが、あなたの父ダビデに、『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれない』と言って約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上に永遠に確立しよう。」    (列王9:4,5)
 神の臨在を表す神殿建設は、ソロモンの父ダビデの時からの悲願であった。ソロモンは、知恵と財、宝と力の全てを尽くして、神への礼拝の場を建てあげ、神にささげる。それは、神ご自身が「わたしの名をそこに置く」(8:29)と主の臨在を約束して下さった故だ。建物や建設という事業そのものに依存するのではなく、ソロモンの献身として、その神殿は建てられた。それゆえソロモンは8:23以降の主への祈りをささげることができたのだろう。
 その祈りに対する応答が、この9章の前半にある。主はソロモンだけではなく、神の民とその子孫(6v)神の前を真実に生き、神と共に歩むことを求められる。しかし、それは豊かな祝福が約束されていたチャレンジであった。ダビデは確かに大きな過ちを犯した。しかし、真に悔い改め、神の前を誠実に歩む者へと変えられ続けていったのだ。主は神の民にそれを求められる。
 しかしソロモンは、神殿建設に莫大な財をささげ、協力したエブス人ヒラムにたいして、不誠実な対応をした。神への姿勢は容易に人への態度に表れる。「神と人との前に好意と聡明を得よ」(箴言3:4)と主は語られる。そして続く6,7節を心に刻まなければならない。私達はどのように神の前を歩んでいるだろうか。主は私達の心と共に、その態度や姿勢に心を留められる。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20171015『神の選びの恵み』ローマ9:1-13

 「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。」                   (ローマ9:11,12)
 神様の選びは、本当に不思議だ。その人がまだ生まれもせず、また何の歩みもないうちに、恵みの選びを与えられる。実際、イサクの息子たちの中で、神はエソウではなく、ヤコブを選ばれた。兄は弟に仕えるとのことばを神は双子の誕生の前に、母リベカに与えていたのだ。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と聞くと神に不公平さがあるように感じてしまう。しかし、聖書は「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」と私たちに語る。
 神の選びは、私たちには理解できない時がある。しかし実際エソウは神の前を歩まず、ヤコブは多くの問題を抱えながらも神の取り扱いの中で変えられていく。主の選びは、ただただ恵みである。自らを誇ることのできる者は一人もいない(コリント1章)。
 それは神の民とされたイスラエルにとって大きなチャレンジだった。神の民との自負を持っていたからだ。しかし主は、そのひとりひとりの内側にある心を問われる。全てをご存知の主の憐みの中で、私たちは生かされていく。
 それゆえ私たちは、決して心を頑なにしてはならない。主に取り扱われることを受け入れ、葛藤や悩みの中で私たちは変えられていくからだ。パウロはキリスト者の成長の為に、自らが呪われることさえ願う。他者の成長の為にも祈る者とされたい。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20171008『本物の幸い』マタイ5:1-12

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」
     (マタイ5:3,4)
 幸せを表わす英語には、主に3つある(H,L,Bそれぞれで始まる)。ここで用いられているのは、神の祝福を表わすマカイオイという言葉で、詩篇1,32,41等のギリシャ語訳にも用いられている。
 自分の尺度で幸福を考えやすい私たちにとって、神の視点から見た祝福という理解は、思いや考えを豊かに広げてくれる。心の貧しさは、心の狭さや卑しさではなく、自分の霊的な貧しさを知っている心砕かれた姿だ。悲しみも状況等にではなく、自らの罪深さやこの世の悪への悲しみを持つ姿を現している。神はそのような人を豊かに祝福してくださるのだ。
 神により頼む故に自己主張から解放された者こそ、柔和な人であり、神との交わりにより真の強さを与えられていく。神の御心に従うことをひたすら求めて義に飢え渇く者、神の憐みに生かされ自らも憐みを表す者、神によって砕かれ変えられ、きよめられていく者…、神の愛と平和を人々に届け、どのような迫害を受けようともそこで主に信頼し、主を待ち望む者…、それらの一人一人を主は愛し、神の豊かな臨在を経験し、やがては顔と顔とを合せるようにして神を見る者とされる。
 私たちの現実の姿とは程遠い姿が描かれているように思うし、当時の弟子たちはなおその思いが深かったであろう。しかし主の愛は人を内側から作り変え、神の愛と平和、そして栄光の為にその人を用いられる。主の愛に期待し、生かされたい。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20171001『愛のわざへの招き』マタイ4:18-25

 「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った。」                      (マタイ4:18-20)
 主イエス・キリストは、ご自身の近くに置き、また生活を共にし、その歩みを見せ、そして派遣する為に12人の弟子を選んだ。それは旧約の12部族に関わる数であったろうし、二人ずつ、時には三人を…と豊かな交わりが生まれる数であったろう。主は憐れみを持って人を選び、用いられる。それは彼らの能力や力によるのではなく、ただ主の恵みによる選びだった(コリ1章)。
 すでにかかわりを持っていた弟子たちを、主は改めて献身の生活へと召した(ヨハネ1‐2章)。ここで召されたシモンとその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネは、後に12弟子の中核になっていく。彼らは漁師という働きの真最中に召された。「人間をとる漁師にしてあげよう」という約束が伴う招きだった。それは、人々に愛を届け、真の愛へと招き導く、重要な働きと使命への招きだった。ユダヤ教では弟子のほうでラビを選ぶが、イエスは逆に自ら弟子たちを選ぶ。
彼らは従うために網を捨てなければならなかった。しかし無責任な従い方ではなく、家族への愛と責任と共に彼らは主に従っていく(参照マコ1:20)。しかしまた主に従うことは、家族の絆以上に重要なことも事実である。主は私達をも愛のわざへと招かれる。私達はその招きにどう応えていくだろうか。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized