月別アーカイブ: 1月 2018

20180121『主の憐みと祝福』ローマ9:24-33

 
「それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」                                (ローマ9:23,24)
 私たちは神様の愛と恵みの中にあって不思議な選びを受けている。選びという言葉は誤解を受ける。パウロは2つの誤解に明快に答えている。神に不正はないことと、神の憐みの主権である。
 そして、この主の憐みの主権は、陶器師の手によって創られる陶器のように、創造主なる神の側に愛の主権がありつつも、愚かな私たちが主の憐みによって尊いことに用いられる器へと変えられていくこと、そしてその恵みが異邦人にまで及ぶべく、神の民を取り扱い導かれることが語られていく。しかもその憐みの恵みは、旧約聖書の中からすでにホセア書、イザヤ書の中で明確に語られてきていることが明示されていく。主権者なる愛の神は、取るに足りない神の民を心から愛し、彼らのそむきの罪さえ、異邦人への愛の注ぎへと導き、受けるに値しない恵みを与え続けて来てくださったのだ。
 私たちは、先にその恵みに気が付かされたものに過ぎない。異邦人の中から召し出された私たちは、「彼」に信頼することを教えられ、失望することのない歩みが与えられている。私たちはなお感謝を持って、神の民としての憐みの道を歩ませていただきたい。そして心から主を愛し、主に従い、主の祝福を届ける器とさせて戴きたい

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20170114『人への愛と真実』マタイ5:20-26

「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」                               (マタイ5:23-24)
 新しい年が始まり、日常が戻ってきた。日常の生活の中で、私たちの心は様々な悩みや不安を抱える。その多くは他の人間との関わりであり、その原点には自分自身との関わりがあり、その中心には神との関わりがある。私たちはどのように自分を認識しているだろうか。人との関わりに悩むあまり、自分との関わりを疎かにしてはいないだろうか。それには神の前の静まりが重要となる。
 自分自身を神の愛によって受け入れ、正しく理解することによって私たちは他者をも受け入れ、理解してくことができる。神の律法と対峙する中にあって、私たちは自分を問われ、自らの罪と向き合い、主の憐みと赦しを受け取っていく者とされる。律法学者たちに勝る真実の姿勢が神の前に養われていく歩みは、自らの罪を認め、そこで主の愛を受けていくことから始まっていく。そして神の前に自分を受け入れるとともに、全ての人も愛していて下さる主の愛によって、愛しにくい人をも愛する者へと変えられていくことができる。主の前に静まり、他者との確執に気が付くとき、私たちは他者への愛と真実を明らかにするべく、一歩を踏み出すことができる。主は私たちの内側に変化を与え勇気と力を与えて下さる。

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20180107『恵みの律法の成就』マタイ5:17-20

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」                        (マタイ5:17-18)
 ユダヤ人は特に律法を613の戒めにまとめ、それを守ることによって義を得ると考えた。そうした律法の解釈を形式的に守ることをイエスはしなかったが、本来の主の律法と預言者を成就する。
主は、律法の真の意味を説き明かし、律法の目指すところを自ら実行し、律法に違反する罪人に要求される刑罰を自ら受けることによって、律法を成就する。しかも旧約聖書のメシヤ預言、そして救いの到来の預言をその生涯の全体において成就する。この被造世界に終りが来ない限り、律法の最小の一文字でもその有効性を失わず、全部が成就されるべきものである。だから神の戒めに対する姿勢が重要であり、私たちのために主は全てを成就された。
 その上で、主はあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるようにとチャレンジする。これは衝撃的である。これは更に律法主義的な生き方をせよということではない。むしろ彼らに欠けていた、砕かれた心を持つことであり、自分の無力を認め神のあわれみにより頼むことであり、その結果自らもあわれみ深く変えられていくことである。弟子たちは律法の目指すものを、律法主義とは別の道筋を通って実現していくのである。主の恵みに生かされたい。

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元旦礼拝『互いに愛し合う祝福』ヨハネ 15:7-17

  
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」                          (ヨハネ15:16,17)  新年明けましておめでとうございます。
 この新しい一年も、主にあって共に歩める幸いを感謝しています。私達は、神様の不思議な導きの中で今の歩みが与えられています。全てを神様が備え、選び、召し、そして用いようとしてくださっています。その背後には、神様の豊かな無条件の愛があることを私達は今年も心に留めて歩み続けたいと思います。
 主は私達の弱さも愚かさも全てご存じで、なお私達が実を結ぶことを期待し、時に刈り込みをして下さる。それはたとえ痛みを伴ったとしても豊かな実を結ぶための祝福だと聖書は語っている。そして、その実の中心は、互いに愛し合うことにあるとのチャレンジである。私達の中には真の愛はない。自分中心な時に身勝手な愛は容易に相手を傷つけてしまう。私達はその事実を心から認め、主の前に悔い改め続けたい。そして、自らが愛なる主によって召されたことを覚え、主からの愛を求める特権が与えられていることを日々心に留めたい。主は求める者に、豊かに与えて下さると約束して下さっている。この一年、私達は誰のために祈り、具体的な愛を表せるだろうか。主の愛を心一杯に受けたい。

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20171231『実を結ぶ人生の刈込』ヨハネ15:1-9

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」                                  (ヨハネ15:1-2)
 宗教改革から500年の節目を迎えた2017年の最後の礼拝だ。みことばに立ち、主への礼拝と賛美の改革をも成し遂げてきた宗教改革のリーダー達は、これほどの影響があるとは思わなかったであろう。しかし、彼らにではなく、主のみ言葉にこそ力があり、人を内側から造り変え、教会をも変え、豊かな実を結んできたのだ。
 まことのぶどうの木である主イエスキリストにしっかりと繋がり、霊的な交わりをし、いのちを受け取っている人は必ず実を結んでいく。霊的ないのちは私達をそのままにはしておかないからだ。御霊の実を結んでいるかどうかは、私達の側に問われているチャレンジだ。この一年、私達はどのような成長が与えられてきただろうか。私達の教会はどうであろうか、みことばに生かされ、問われ、実を結んできただろうか。
 農夫である父なる神は、私達を愛しておられる故に、私達がなお豊かな実を結ぶことが出来るようにと、刈り込みをなさるという。それは枝にとって痛みを伴う試練や苦難であろう。しかしそこにこそ主の愛と祝福がある。

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