月別アーカイブ: 2月 2018

20180220『義と認められる幸い』ローマ10:1-7

「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。…信仰による義はこう言います。『あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを引き降ろすことです。」        (ローマ10:4、6)
 私たちの信仰は、常にみことばによって確認される必要がある。いつの間にか、聞こえの良い事のみを受け止める傾向が私たちには常にあるからだ。正しい教理に基づかない熱心は危険でもある。「神の義を正しく知らずに、自分の義を立てようとする」ことは、「神の義に従わない」ことなのだ。
 救い主キリストは、私たちが義に到達する方法としての律法に終りをもたらされ、成就された。私たちが義とされる道は、信仰による道である。それは異邦人にも、信じるすべての者に与えられるのだ。その信仰による義は、旧約聖書の教えであることをパウロは確認する。律法を守ることによって、神の義を手に入れることは不可能であるが、信仰による義は神からの一方的な愛、そして神の豊かな賜物として与えられるものである。
神はキリストをすでに地上に遣わし、救いを完成して下さっている。神は、人の救いのために必要なことをすでに成し遂げておられるのだ。私たちはその恵みを感謝を持って受け取り、神の義とされた者として、私たちも恵みと愛に生かされ、その愛と救いを人々に紹介する者とさせていただけるのだ。 罪深い私たちをキリストにあって義と認め、内側から愛で変え続け、愛を届けるために用いて下さる主に感謝しよう。

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20180211『主の弟子としての歩み』マタイ5:38-48

「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」                   (マタイ5:43,44)
 神の国に生きる民がどう歩むのかを語られる中で、主は6つの項目から、律法主義者たちの理解にチャレンジされた。それは「殺人」「姦淫」「再婚」「誓約」「報復」「隣人愛」であった。
 前回までで4つを学んだが、どれも神のかたちに創造された恵みに生かされているという前提があった。その恵みに感謝するときにこそ、私たちは人としての本来のあり方を回復し、神と人の前に真実にそして誠実に歩むことができる。
 最後の二つは、さらに人としての闇に踏み込むチャレンジである。「目には目を、歯には歯を」という言葉は誤解されやすく、報復の口実にされやすい。しかし、この同害復習法は同等の所で止めるようにとの制限を加えるものであり、より積極的・意欲的な愛と赦しへのチャレンジへと向かうものである。そして、それは最後の敵を愛し、敵のために祈るという歩みにつながる。
 それは自分を攻撃する者をも愛し、赦し、主の祝福を祈る使命へのチャレンジである。それは神のかたちそのものである御子キリストの愛に因らなければなしえない事である。しかし主の弟子は主の愛に生かされ、砕かれ、用いられていくのだ。

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20180204『神と人の前の誓約』マタイ5:27-37

「しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。」                   (マタイ5:34)
 神の国に生きる民がどう歩むのかを語られる中で、主は6つの項目から、律法主義者たちの理解にチャレンジされた。それは「殺人」「姦淫」「再婚」「誓約」「報復」「隣人愛」であった。
 前回は、「殺人」の事について学んだが、そこには神のかたちに創られた人を殺すはずがないとの視点があった。今日の「姦淫」「再婚」「誓約」に共通する神の前の誓いという事も、神のかたちに創造された人への誠実さと真実さが根底にある。私たちが日常生活の中で、他の人と接するあり方は、常に創造主なる神を心にとめて、その人格を尊重していくのだ。それゆえ特に、結婚という神の前の誓約は決して軽んじられることではなく、結婚相手への誠実な歩みがそこに築き上げられていく必要がある。外側に現れる行為だけではなく、内側の心の状態にまで私たちは真実であることが求められる。再婚の制限にも、同様の視点がある。私たちは他者の人格を尊重することにこそ、神と人への愛と真実の成長を見ることができる。
 しかし、「誓約」に関しては、自分の弱さと向き合うという視点がある。いかに自分が誓えない者であるのか、不誠実、不真実な者であるかを自覚しつつ、神の前に出て悔い改め、日々の歩みを送っていくのである。誓約の本来の意味を心に刻みつつ、私たちは神と人との前に好意と聡明を得る者とされ続けたい。

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20180128『主に従い通す恵み』列王記第一11:1-13

「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現れ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。」                             (列王記11:9,10)
 私たちの生涯の中で、何に価値を置き、何を宝とするかという課題は、非常に重要であり、人生を左右する。
 イスラエルの三代目の王として、あらゆるものを所有し、権力も、知恵も得ていたソロモンは、主の教えに背き、多くの異教の女性を王妃とした。その数は700人、側女も300人という多さだった。
 彼自身の孤独や渇きの深さを現わしているのだろうか。神によってのみ満たされる心や魂の深みを他のもので満たそうとするとき、それは偶像となる。ソロモンは王妃たちの異教の礼拝のために、財を用い、彼もまた、その礼拝に参加していくことになる。彼が最も深いところで宝としていたものは何だったのだろうか。彼の父ダビデが、孤独や挫折、失望やいのちを狙われる恐怖と闘いながら、神と向き合ったこと。また、神の前に出、自分の罪を告白し、赦しの恵みを受け取ったことをソロモンは、自分の人生の中に迎え入れることが出来なかったのだろうか。表面的に神に従うように見せることはできても、深みにある弱さや愚かさは、露呈し、周りの人々を巻き込んでいく。私たちはどうだろうか。真に神に信頼し、従い通していく信仰と覚悟を主から与えられているだろうか。祈り求めたい。

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