月別アーカイブ: 3月 2018

20180325『手を差し伸べる神』ローマ10:16-21

 
「イザヤは大胆にもこう言っています。『わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。』そして、イスラエルのことをこう言っています。『わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。』」                             (ローマ10:20,21)
 今日は、棕櫚の日曜日で、主イエスが、平和の印であるロバの背に乗ってエルサレムに入城された日であり、多くの人々が棕櫚の葉を手にして、「ダビデの子にホサナ」と歓喜して主を迎えたのである。しかし、わずか5日後の金曜日には、群衆は「キリストを十字架につけろ」と叫びました。人間の心の闇を見る重いです。しかしそれはまた私たちの現実でもあるのです。
 その闇を光に変えるために、キリストはこの地に肉体を持って来られました。その目的は全ての人を神の子として招くためでした。しかもそれは、キリストを裏切り見捨てた弟子たちやユダヤ人達だけではなく、神を認めようともしない異邦人である私たちにもその愛は注がれているのです。それゆえ、神を探さなかった者達も神を見いだし、不従順で反抗する者達にも神は愛の御手を伸ばして下さっているのです。そしてそれは今もなお、全ての人に差し伸べて下さり、招いて下さる愛の御手なのです この受難週に私たちはもう一度、永遠の愛といのちを受け取りたいと思います。主はあなたのためにこの地に来られたのです。

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20180318『主に信頼する力』ローマ10:8-15

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」 (ローマ10:9,10)
 私たちの人生の歩みには、様々な葛藤があり、痛みがある。しかし、その中でこそ私たちは本当の信頼をどこに置くのか、だれに頼るのかを学んでいく。失望は私たちを真理に導くのだ。
 イスラエルの民に神は「律法」を与えられた。それは律法主義に陥らせるためではなく、神の民がどのように歩むことができるのかの模範を示して下さった。それは主イエスが完全に成し遂げられた。さらに私たちの主は、私たちもまたそのように歩めるようにと模範を示され、私たちが行う力を与えられる。それは聖霊による働きなのだ。旧約聖書の律法に代表される「神のことば」は「キリストのことば」であり、私たちの近くに心に与えられている。そしみことばに生かされ、主への信頼を教えられ、信頼の祝福を先に受けた者は、それを宣べ伝える恵みも与えられている。それは私たちもまた誰かによってその恵みを受けたからだ。
 宣べ伝える人がいなくては聞くことができず、聞くことができなければ、信じることができず、信じることができなければ呼び求めることができない。主を真実に呼び求める全ての人が救いに導かれていくために、私たちも恵みに生かされ、なお主に信頼し、そして主のみことばを語る者として遣わされていきたい。主は私たちを信仰と信頼の勝利の証し人として用いて下さる。

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20180311『キリストの栄光』黙示録1:9−18

「この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。『恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。』」  (ヨハネの黙示録1:17−18)
福音書の中で記されているキリストを見ることが非常に大事だ。そこで私たちは、人となられたキリストのいのちのことばを聴き、力ある業や贖いの死と復活を見ることができる。しかし、本当の権威、偉大な力、大いなる栄光をもたれた、今生きていおられるキリストを見るだろうか? 使徒ヨハネが栄光に満ちたキリストを幻の中で見たとき、圧倒され、死んだ者のようになって地面に倒れ込んだ。
キリストは、(1)父なる神と一つであり、(2)裁かれる方であり、(3)栄光に満ちた方である。絶対的主権をもっておられる。 しかし、私たちは恐れなくていい。キリストは、私たちを愛し、私たちを罪から解き放ってくださっている。(5節)
キリストの愛の中にとどまり、キリストとなお親しくて生きた関係を養っていくべきだ。
私たちは、ヨハネと同じ経験をしないかもしれないが、ヨハネの記した幻によって、もう少し正しくキリストの本当の姿を見よう。
(リーズナー宣教師)

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20180304『偽善者のようではなく』マタイ6:1-8 

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」                         (マタイ6:1)
律法の実践において律法学者やパリサイ人が特に重んじた3つの善行においても、主の弟子たちはより優れていることが期待される。他の人のために、あるいは神のためにする行為に巧妙に入り込む偽善、つまり人に見せるための偽善を克服することは、弟子達だけではなく、私達の課題でもあろう。
 第1に施しだが、人にほめられたいという間違った動機から、人にわかるようにしてはいけない。人からの称賛を得るので、もはや神から報いを受けることは出来ない。正しい態度は施しを人から隠すことである。 第2の善行の祈りにおいても、自分の敬虔さが他の人にわかるようにしてはならない。人からの称賛を求める偽善を避けるには、人の目の届かない所で祈るのがよい。天の父は見て報いて下さる。問題は誰に対して祈っているかである。また、神を知らない異邦人は同じ言葉を何度も繰り返したり、長い祈りをしたりするが、祈りの量によって効果が決るのではない。祈る言葉に思いを向けるのではなく、祈る対象がどのような方であるかを理解することが重要である。 私達のあり方は、常に神の前に整えられていく必要がある。主は私達の隠れたあり方に光を当て、主の恵みに生かして下さる。

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