月別アーカイブ: 4月 2018

20180415『恵みの選びによって』ローマ11:1-10

「ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。」                         (ローマ11:5〜6)
 「選び」というテーマは私達の心に波を立てる。神の民として選ばれたユダヤ人もその波を覚えただろうか。主の民として選ばれたのだという理解は、時に人を傲慢にする。しかし、聖書は一貫して、主の選びはただ恵みなのだと強調し繰り返す。
 そして主は敢えて小さな存在や愚かな存在を選ばれるのだ(コリント1:26-29)。神は誰をも誇らせないために、そして恵みの中でへりくだり、主の憐れみの中を歩むようにと人々に謙遜さを教えられ、導かれる。それは神の民ユダヤ人も同様だった。彼らは、数々の失敗や罪の故に、神の御前に遜ることを余儀なくされた。そのことを通して、異邦の民も神を畏れるものとされ、そして主に従う者としての招きを恵みとして覚える者とされた。私達は皆、自分の愚かさや罪深さを正直に神の前に認め、そして赦しの恵みに立って主に心から従っていく必要がある。
 バアルやアシェラの預言者に大勝利を収めたエリヤでさえも、時に失望を抱えた。しかし、主は憐れみの民、恵みの民を残し、彼と共に歩む者とされた。主は私達をも遜らせ、一方的な憐れみと恵みの中で、用いて下さる。主の恵みを深く覚えたい。

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20180408『主への恵みの祈り』マタイ6:9-15

『御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。』                   (マタイ6:10)
 主イエス・キリストが弟子たちに教えられた「主の祈り」は、私たちの信仰と祈りを整える。祈りの成長、成熟こそ、私たちの信仰と人格の成長とも言えるだろう。祈りは私たちの願いを叶える手段ではなく、私たち自身が、神の御心のままに取り扱われ、変えられていく目的とも言えよう。主の祈りを二回で学びたい。
 主は未熟な弟子達に祈りを教えられた。そしてその祈りには、誰に祈るのかが明確にされている。そして「御国が来ますように」「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」との祈りの内容へと向かっている。それは自分の願いを届けるための祈りではない。自分の願いを叶えて貰うための偽善的な熱心や、人に認めて貰うためのパフォーマンスは退けられる(5-8v)。私達は全てをご存じであり、主権者である神の前に、神の御支配がこの世界に明確にもたらされ、主の御心が、天において完全であるように、この地(自分も含めて)においても完全になされるようにと祈るように教えられている。それは自分の願いを届けるのとは逆に、神の御心がこの私と地に完全になされるようにという委ね献げた祈りだ。私達の祈りはどうだろうか。

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20180401『主の勝利の証人』ルカ24:36-53

「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」                         (ルカ 24:46-48)
 キリストの弟子たちは、自分たちの主が死からよみがえる事を全く期待していなかった。それゆえ彼らは人々を恐れて隠れ、ペテロは主を三度も否定したのだ。実は幾度も主はご自身のよみがえりを語っておられたが、彼らの心には届いていなかった。主が苦難を受けることそのものを受け入れられなかったからでもあろう。マリヤをはじめ女性たちからよみがえった主との出会い聞いても彼らは閉じこもっていたのだ。恐怖は私たちの心を縛り閉じる。しかし、その彼らに主はご自身を示され、永遠のいのちがあること、復活の勝利ゆえの罪の赦しがあることを明確にされた。キリストの復活は「永遠の死」に対する「完全な勝利」なのだ。そして主は、弱く恐れやすい弟子たちを主の勝利の証し人とされる。それは彼らが優れているからでは全くない。彼らの弱さや愚かさを超えて、主ご自身が完全な勝利をとられたからだ。どんな人も主の勝利を自分のものとして受け取るとき、この勝利の証し人とされ得る。私たちの内側にも恐れ、弱さ、愚かさ、罪がある。しかし、主はそこにいのちを与え、あなたを勝利の証人とされる。

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