月別アーカイブ: 5月 2018

20180527『神の前を歩む』列王記14:1-16

「主はご自分のためにイスラエルの上に一人の王を起こされます。彼はその日、いや、今にもヤロブアムの家を絶ち滅ぼします。」                      (列王記14:14)
 北イスラエルの王となったヤロブアムは、自分の子どもの病から預言者アヒヤの存在を思い出し、妻を身分を隠して遣わした。しかし主の前にはすべてが明らかであり、アヒヤは妻に子の死を宣言し、その通りになった。その背後には、ヤロブアムが、主の前を歩み続けなかった罪があった。アヒヤの言葉から出たダビデもまた、罪を犯し失敗した王である。しかし彼は預言者ナタンによって示された自らの罪を認め、悔い改め、神のもとに立ち返った。神の前を歩む歩みは、失敗しない歩みではない。失敗を犯した時にこそ試される主との真実な交わりから生まれる歩みと言えよう。ヤロブアムの子が死んだ後、彼らが神の前にどうしたのか、聖書はそのことを語っていない。私たちも自戒したい。しかし、主はこの中でさえ、主がご自分のために「ひとりの王」を立てることを語られる。主の憐みと恵みは深い。
 一方南王国ユダはどうだったのだろうか。ソロモンの子であるレハブアムもまた、真実に神の前を歩もうとせず、罪をそのままにし、偶像礼拝、また神殿男娼等の乱れを正すこともしない。主への礼拝そのものが歪められ、主の愛と憐みに誠意をもって応えようとする姿勢が微塵も見られない。罪を継承することは容易だが、神への真実さを継承することは簡単ではない。私たちもまた、主の前をどう歩むのかが問われる。真実に歩みたい。

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20180520『御霊に導かれて』ガラテヤ5:13-26

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」                            (ガラテヤ5:24,25)
 今朝は、弱かった主イエス・キリストの弟子たち、ひとりひとりに聖霊が臨み、彼らが聖霊に満たされ、主の教会が誕生した日を覚えるペンテコステの時だ。旧約聖書において五旬節として祝われるこの日は、大麦の収穫の終りを意味し、いよいよ小麦の収穫となる時であると共に、主がシナイ山において律法を与えられたことを記念する時でもあった。主の恵みと贖いに感謝し、主を恐れると共に、みことばを与えられて歩むその記念は、このペンテコステの出来事に深く関わっている。
 主の教会は、様々な問題を抱えつつも、みことばによって整えられ続け、聖霊に導かれ、満たされて歩むというチャレンジをどの時代でも受けている。聖霊はすべてのキリスト者に臨み、信仰の告白、そして日々の歩みを導く。しかし、私たちは自分に与えられた「自由」をどのように、そして誰のために用いるのかが日々問われている。肉に従って歩んでしまう弱さや罪深さを私たちは抱えながら歩んでいるからだ。そして私たちは失敗をする。しかし、私たちの全てをご存じの主は、どこまでも私たちに期待してくださり、みことばによって促し続け、そして祈りをもって待ち続けて下さっている。私たち一人一人が、御霊に導かれて歩みを進めたい。教会の成長は一人一人の成長による。

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20180513『恐れを締め出す愛』Iヨハネ4:18-21

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」                      (ヨハネ4:10,11)
 すべての存在を無から創造され、愛を持って導かれた神様が、私達の存在をも全ての創造の前からすでにご存知で(エペソ1:4)、父母を通して、いのちを与えて下さったこと、そして今をも導いて下さっていることを心から感謝したい。この母の日は、アンナ・ジャービスが1907年5月12日に、教会学校等でも教師をし2年前に召された母の愛を覚えて、白いカーネーションを贈ったことが世界に広がった。私達の愛には、限界があるが、神から受ける愛には、私達を内側から変えさらに広げられていく力がある。父なる神は、御子を与え尽くすほどのいのちがけの愛で私達を愛して下さっているからだ。私達はどのような愛と感謝を周りの方々に贈っているだろうか。「愛(アガペ)」ということばは、「愛する(アガパオー)」という動詞から派生している。愛は本来的に、具体的な行動やことばを伴う。そして不思議にその行為は次の行為を生み出す力となる。家庭やあらゆる共同体の中で、先に神からの愛を知り、受けたものが、感謝と愛を表し、また互いに愛し合うものとされたい。母への感謝を心から表そう。

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20180506『主への恵みの祈り』マタイ6:9-15

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」               (マタイ6:12,13)
 主が教えて下さった「祈り」は、私たちが心に留めやすい「願い」中心のものとはほどとおい。むしろ御心がなりますように…との信頼と献身が原点にある祈りであることを私たちは、忘れてはならない。その時にこそ、私たちは後半の祈りを心から祈ることができるものへと変えられていくことができる。
 主の祈りを学ぶ後半は、「罪の赦し」ということが大きなテーマとなっている。私たちがこの地上を歩む中で、神の御心を求めながらも、そうできない現実、実際に罪を犯してしまう心の闇があることを誰も否定できない。この祈りにもその自分の罪(負い目)を主に赦していただきたいとの願いがある。しかし、そこには並行して、他者への赦しの宣言があることを忘れてはならない。
 赦された者として、また主の愛と恵みを先に受けた者として、私たちは、私たちに罪を犯す者への赦しへと向かうことができるのだ。それは決して簡単ではない。しかし主は再度そのことを14,15節でも繰り返している。どれほど重要であるかと共に、どれほど難しいかも思わされる。しかし主は整えられた弟子たちにではなく、まだ何もわかっていない弟子たちにこの祈りを教えられた。祈りを通して弟子たちも私たちも変えられていく。自らの弱さと向き合い、誘惑に遭わせないで…と祈りつつ歩もう。

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20180429『神の人の歩み』列王13:1-10

 
「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、一人の男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちを、いけにえとしておまえの上に献げ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」       (列王13:2)
 ソロモンの後の王国の分裂は、大きな悲しみを神の民に与えた。ヤロブアムが北王国に持ち込んだ礼拝のあり方は、さらに混乱をもたらしたのだ。神の人が主から北王国に遣わされ、ヤロブアムがささげる礼拝の祭壇に向かって預言する。それは主の礼拝をゆがめているヤロブアムに対する裁きであると共に、約300年後に主が立てられる南王国ユダ王ヨシヤの誕生の預言であり、彼を通してその祭壇が破壊されることの預言でもあった。正しい礼拝がささげられなくなるときの、神の民の混乱は深い。主は神の人を通して語られたのであるが、この神の人をも主はためす。老預言者のことばを通し、この神の人はあるべき姿を逸脱し、いのちを落とすことになるからだ。
 しかし、この神の人への裁きを通して、主は神の民全体に語られている。「主を恐れる」ことを。老預言者はそれに気づく。しかし、神の人が去った後、ヤロブアムは聞く耳を失う。私達は神の警告を真摯に聞いているだろうか。主は私達に語られている。

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