月別アーカイブ: 12月 2018

20181223『メシヤの誕生と礼拝』ルカ2:1-20

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』」 (ルカ2:10,11)
 私たちの人生で最も重要なことは何でしょうか。本当に人を生かすのは、能力や評価ではなく、存在への愛や感謝ではないでしょうか。神のかたちに創造された私たちは愛と真実、また存在の意味や意義を求めるのです。その答えは神にあります。
 世界で最初のクリスマスのメッセージは、存在の意味や希望も失っていた羊飼いに届けられ、彼らを最初の礼拝者としました。人として数えられることもなかったであろう彼らこそ、人の喜びと存在の意義を知らされ、そして世界の人々にその喜びを伝える使命を受け取ったのです。それは私たちへの招きもでもあります。私たちも孤独やむなしさ、表面的一時的な喜びを後にして救い主のもとに、礼拝者として駆け付けるようにと招かれているのです。それは何よりも内面の課題です。内側の闇が照らされその罪を認め、神の愛と赦しを受け取って、主のもとに近づいて行くのです。そして私たちも心からの礼拝者として、自らの存在をかけて心から神の前に遜り、自らを献げていきたいと思います。私たちの存在の奥底に、神は愛と希望といのちを注いで下さいます。真のクリスマスの意義を心に受け取りましょう。

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20181215『ヨセフの信仰とインマヌエル』マタイ 1:18-25

「『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れた」 (マタイ1:23,24)
 御使いガブリエルがマリヤのところに現れ、彼女を通しての救い主誕生を告げた時、親類エリサベツは妊娠6か月目であった。マリヤは信仰をもってその使命を受け入れた後、3か月彼女のところに滞在した。それは主の不思議な配慮であった。痛みを共有し慰めを受ける交わりを主は用意してくださる。
 マリヤはどのようにこの出来事を婚約者のヨセフに伝えたのだろうか。マリヤが身ごもっている事を知ったヨセフは、正しい人であったので離縁を考えていたのだ。ヨセフの苦悩を思う。しかし主はそこに主の使いを送り、その全てが神のご計画によるもので、マリヤの胎に宿る子は聖霊によると告げたのだ。しかも、イエスと名付けること、その子が民を所有する主権者であると共に、その民を罪から救う救い主であることを明確に伝えたのだ。ヨセフの驚きはどれほどだったであろうか。ユダ族のダビデの家系とはいえ、貧しい大工であったヨセフを主は用いられるのだ。そこには、イザヤが預言したインマヌエル(神が私たちとともにおられる)の成就があった。主はどんな時にも私たちと共におられる。私達も安心して主権者からの使命を受け取っていきたい。

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20181209『罪を赦すために来られた主』マタイ9:1-8

 「すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。」 (マタイ9:2)
 カペナウムに戻られたキリストのもとに、その教えを聴こうと人々が押し寄せ、家には人が溢れていた。そこに中風の人をキリストによって癒していただきたいと、4人の友が運んできたが、入れなかった。そこで彼らは屋上に上がり、屋根をはがし、彼をキリストの近くへと吊り下ろしたのだ。周りの人々の驚きが想像できる。しかし、主は彼らの信仰を見て、中部の人に罪の赦しを宣言したのだ。病の人を含め友達は、キリストの力と愛を信じ、中部の人の癒しを心から願って行動したのだろう。主はその全てをご存知で、最も必要なものをこの病の人に与えられた。もちろん彼の罪が病の原因だったという事ではない。
 人間の真の必要は、衣食住の事ではない。また健康や金銭の事でもない。主は彼らの愛と信仰を喜ばれ心の深みにある叫びに愛と赦しを豊かに与えられたのだ。私たちは何を願っているだろうか。しかし、罪の赦しという神の領域を侵し、神を冒涜していると考えた律法学者たちの為に、主は癒しのわざをも示された。それは真の力と主権がキリストにあることの証でもある。この方を私たちは、心に王として迎えることができる。そしてその恵みと祝福を人々にも分かち合う者とさせていただこう。

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20181202『西郷隆盛・愛と赦しの生涯』マタイ5:43−45

 「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
<マタイ5:44>
 上記の言葉が語られた後、イエスは苦難の道を歩み始められた、と聖書は語ります。そして、多くの人々の妬みの心が、イエスを十字架につけることになります。
「父(神)よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34) 十字架の上で最期の息を引き取る時、イエスはそう祈りました。それは呪いの祈りではなく、赦しの祈りであり、自分を傷つける人々が救われるようにと願う愛の祈りでした。 西郷隆盛が、漢訳聖書を手にし、それを熟読したのは1866
(慶応2)年頃からだと言われています。果たして、このようなイエスの言葉、イエスの祈りを知った時、西郷の心にどのような思いが湧き上がったのでしょうか。
 後に、西郷の死後まとめられ世に出た「南州翁遺訓」に収められた西郷の言葉を読むと、そこに、おそらく、イエスの言葉に衝撃を受け、心が熱く燃えたであろう彼の感動の軌跡を見ることができます。西郷隆盛という、近代史のなかに聳え立つ巨人の生き様に、再び、光が当てられようとしています。それは、政治家としての西郷の業績に注目するというより、その人間性、内面性の動きが、混迷する現代にあって、我々に、愛と赦しの大切さを教えてくれるからかも知れません。   「『西郷隆盛と聖書』 守部喜雅著 p156 おわりに」より

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