月別アーカイブ: 1月 2019

20190120『弱い自分を認め、共に歩む』ローマ 14:1-12

「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」                        (ローマ14:8)
私たちは、キリストにあって「自由」が与えられている。しかし私たちはその自由を自分勝手な意味で理解し、自分のためにだけ使おうとしてしまいがちである。聖書は私たちに、「あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい」(ガラテヤ5:13)と勧めている。私たちは与えられている自由を他者に仕えるために用いるのだ。また私たちは他のキリスト者を裁きやすい。自分の価値観で、他の人の考えや行動を判断してしまうのだ。しかしそこには誤解が入り込みやすい。人の心の奥底にあるものを私たちは理解できないからだ。
私たちは、生きるにしても、死ぬにしてもそれを主のためにし自分自身が主のものであることを認めるようにと聖書は語っている。それは自分の愚かさや弱さを認めることから始まる。私たちの罪のために主がいのちを投げ出して下さったからだ。それゆえ私たちは誰もさばくことができる立場にない。それどころか主の愛に生かされ、その愛を人々に届ける者とさせていただけるのだ。私たちは、他者のために生きることの中に、本当の喜びを見出すことができる。そのように私たちは創られているのだ。私たちも主の愛に生かされ、その愛を仕えるために用いたい。

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20190113『きよめられた者として』マルコ1:40-45

 
 「わたしの心だ。きよくなれ」 (41) と主イエスが宣言すると、なんとあのツァラアトがすぐに消えて、その人はきよくなった (42)。これまでに大勢の病人を癒し、悪霊を追い出してきた主イエスが、ここでツァラアト患者をきよめる。
当時、ツァラアトは深刻な病とされていました。単なる肉体的な病でなく、宗教上の汚れ、即ち神の救いからの除外を意味したからです。言うなれば、神の呪いの印です。周囲の者はこれに触れないようすることが律法で定められていました。その者も汚れることになるから。しかし、主イエスはなんとさわり、ツァラアト患者をきよめられます。これは人間には決して出来ぬ行為です。旧約律法の概念から超越したこのイエスとは、一体何者なのでしょうか。
単に奇跡を成す方なのではない。44節で、「だれにも何も話さないように」と戒める主イエス。一体なぜ、このように命じられたのでしょうか。それは、ご自身の奇跡を隠すためです。ご自身が人々に正しく証しされる必要があったからです。単なる奇跡行為者としてでなく、「自分のいのちを与えるために来たのです」(10:45) と言われた、私たちの罪のために十字架に架かりいのちを落とすという、まことの救い主として。
しかし、今日登場した人は主イエスを正しく証しすることが出来ませんでした。私たちはどうでしょう。罪という汚れよりきよめられた者として、主を正しく証しする者でありたいと思わされます。

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20190106『憐れみに満ちた主と共に』マタイ9:9-13

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」                       (マタイ 9:12,13) 私たちの人生の「使命」は何であろうか。それを求め、与えられ、受け止め、意識し、備えて一年を送りたいと願う。
マタイはレビとも呼ばれ、カペナウムで働く取税人であった。主イエスは、彼をその場から招かれた。漁師と異なり、取税人が仕事を離れることは、もうそこには戻れないことを意味していた(ルカ5:28)。マタイは覚悟を持ってキリストに従ったのである。ユダヤ人が嫌悪する取税人から自分が主の弟子となったことをマタイは隠さない(マタイ10:3)。主の愛と憐みに生かされたマタイは、自ら他の取税人たちや、律法を順守できない罪人と呼ばれる人たちを招いたようだ(ルカ5:29)。しかし、それは主の招きに基づいていたであろう(マルコ2:15)。それゆえパリサイ人たちは、彼らとともに食事をする主の姿に不平を露わにした。
しかし主は彼らに対し、主ご自身の使命を明確に語られた。それは自分が正しいと思っている者ではなく、自分の罪を自覚し、病んでいることを認めた者への招きであり、救いであったのだ。キリストはそのためにこの地に来られた。そしてそれは私たちもまた神の「真実の愛」「憐み」に生かされ、生きるためであると言えよう。主の愛を受け、使命をもって生かされたい。

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20190101元旦礼拝『このような時のため』エステル 4:12-17

「もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」                           (エステル 4:14)
新しい年を迎え、身も心も引き締まる思いだ。しかし歳を重ねることは、自分の限界を向き合うこともである。残された日々で何ができるのか、何を選び取っていくのかが問われるのだ。
叔父のモルデカイに王宮にいる意味を問われたエステルは神の民の存亡をかけて一歩を踏み出す。エステルたちが生きた時代や場所は、混乱の中であり、神を恐れない異国の地であった。しかしその中で神の民が頭角を現し、それが妬みと憎しみを呼びハマンはユダヤ人全体の殺害を計画し承認された。
モルデカイはエステルに神の挑戦を語る。人を恐れ沈黙を守ってはならない、神を正しく畏れ信頼と勇気の一歩を踏み出すことは私たち皆に問われていることであろう。世界が様々に変化する中、私たちは時代の流れと共に変わることのない神の愛、永遠の無条件の愛に心を留め、神を信頼し、真実で誠実な歩みを継続していくことが求められる。
 ユダヤ人の勝利は、エステルの勇気とモルデカイの誠実さに裏付けられていた。しかし、何よりも真実な神の愛と恵みがあったことを忘れてはならない。私たちの人生の背後にも、主の大いなる永遠の愛の御手がある。新しい年、どのようなことがあろうとも、主を見上げつつ、誠実に雄々しく歩みたい。

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20181230『愛に生き、キリストを着る』ローマ13:8-14

「愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。…主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。」 (ローマ13:10,14)
 2018年の最後の日曜日を迎え、この一年の恵みを数えたい。それぞれに主が与えて下さった祝福があり、チャレンジがあったことと思う。悔い改めと共になお主に向かいたい。
 私たちがこの地で生きる一番の課題や人との関わりであろう。それは社会や会社の他者との関わりの前に、家族との関わりがあり、自分との関わりがあり、何よりも神との関わりがある。それらを見つめなおすとき、私たちの立ち位置が整理されていく。そして、どの関わりにおいても「愛」が問われている。真実に神を愛し、冷静に自分を受け入れ、心から家族と他者を愛するものとされていく恵みは、神を待ち望む全ての人に与えられる。ローマの教会にあった混乱や課題も、根源にはこの愛の問題があった。そして自分の欲望に振り回される生き方は、当時の教会以上に、今の私たちが問われている課題であろう。何を愛しているのか、何に依存しているのか、どんな中毒が心にあるのか…私たちは問われ続けていく。しかし、その全てに主の恵みがある。主イエスは、私たちの内におられ、私たちを包み、私たちと共に歩まれるからだ。「キリストを着る」ことが、日々の歩みの祝福となる。新しい年も、キリストを内にも外にも着て歩みたい。

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