月別アーカイブ: 3月 2019

20190324『弱い人を受け入れて』ローマ14:1-12

「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」             (ローマ14:8)
 主の教会には、様々な方々が集います。それぞれが育った家庭環境も、国籍も、世代も、また導かれた教会や牧師、宣教師による違いも色々ありますね。それこそ祝福です。新約の時代ローマ教会ほど違い豊かな教会はなかったと言えるでしょう。
 しかし、その違いは時に裁き合うあり方にも繋がってしまいます。福音の違いについては徹底して語り、違った福音に流れないようにと語ったパウロですが、このローマ書における違いにはとても寛容であり、それぞれが主からの確信に立つようにと導きます。そして何よりも主のためにすべての事をするようにと招くのです。誤解を恐れずに言えば、ここで語られている「信仰の弱い人」とは、様々なことにこだわりを持ち、細かなところまで大切にしようとする方であり、「信仰の強い人」とは、主にある自由の中を豊かに生きようとする方と言えるでしょうか。福音の本質的な理解で一致している場合、他の違いを互いに受け入れ合い、共に主に向かうのです。違いこそ豊かさと祝福に繋がるからです。そして「弱さ」も「強さ」もどちらが良いというような問題ではなく、互いを愛する招きに繋がっているのです。主は私達を豊かに招きます。互いを受け入れ尊敬して、共に主に仕えましょう。

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20190317『復活の勝利に生かされて』ローマ4:24,25 

「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ4:25) 今日は、イースター・スペシャルの礼拝として、約1ヶ月早くイースターの勝利を覚えたいと思います。<ライフライン収録>
復活の勝利は、私たちが毎週礼拝で確認すべき事だと癒えるでしょう。その勝利を記念して私たちは日曜の朝に主を礼拝するからです。私たちはその勝利に生かされているでしょうか。
主イエスは、私たちの罪の身代わりとして十字架で裁かれ、私たちの救いといのちの道を開かれました。そして主は私たちが義と認められるためによみがえられたと聖書は証しします。主の復活の確かさはキリストの墓は空であり、遺体がなかったこと、復活した主の目撃者の存在、主の弟子たちの変化、主を礼拝する日をあのユダヤ人が日曜日に変えたこと等が挙げられるでしょう。私たちは、救いの確かさを主の十字架と復活の事実の上に置くことができるのです。
それゆえ私たちは主の復活の勝利に生かされ、救いと、永遠のいのちの確かさに生きること、死や裁きを恐れずに真の希望を持つこと、共におられる復活の主と共に苦難の中をも生きること、この勝利の喜びを苦難の中にある人々にも届けることができるのです。私たちの人生を変える勝利を主キリストは成し遂げられました。その希望と勝利に日々生かされましょう。

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20190310『収穫のための働き人』マタイ9:35-38

「イエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」          (マタイ9:37,38)
主イエスのもとには、様々な病気や患いを持った方々が集まってきた。しかし主がなさったことの第一は、その癒しではなく、町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えられたことであることに心をとめたい。私たちはともすれば、自分の願いを果たすために神を利用しようとしてしまうからだ。祈りの中心は、私たちの内側が変えられることでありたい。主は群衆を見て深くあわれまれたと記されている。主がご覧になるのは、私たちの心の状態なのだ。そして主の目には、彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れている状態が明確に見えていた。私たちはどうだろうか。他の人の状態も、自分の状況も、外側に見えることや評価されることで判断してしまいがちではないだろうか。主は私たちの魂の状態をご覧になるだけではなく、その真の救いと癒しを人々に与えるために人を用いられる。
そして主は、弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない」こと、そして、「収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と命じられたのだ。それは主の働きに参与するためへの招きであるとともに、彼らへの信頼への証でもあった。私たちも主の収穫のために、人々が主のもとに集い新しい人生を歩むために、自らをささげたい。主は私たちを用いて下さるからだ。

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20190303『主の愛と奇跡』マタイ9:27-35

「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。」                        (マタイ9:35)
先に主イエスは、12年間長血を患っていた女性の病を癒し、また会堂司ヤイロの12歳となっていた娘を死からよみがえらせた。創造主である主イエスにとっては、その愛のわざは至極当たり前のように私たちは感じてしまうのだが、そこには主の愛の犠牲があることを忘れてはならない。人となられた主は、自らの愛と癒しの力を注ぎだして、人々を癒され、そこに平安と慰めを豊かに与えておられたからだ。時に、目の不自由な二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながら主について来た。主はその人達に「わたしにそれができると信じるのか」と問われたのだ。主は単に癒しを行なわれることを目的とされているのではない。その人の内側にある信仰を引き出され、真の成長へと招かれているのだ。彼らが、「はい、主よ」と答えると、主は彼らの目に触れ、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。すると、彼らの目が開いたと記されている。主は人々の信仰を引き出され、そのとおりに…と愛と奇跡のわざを行なわれる。それは、今の私達にも共通することではないだろうか。どうしても自分の願いや思いが先走りやすい私達だが、私たちの信仰はどのような状態なのか、どのように主に向かい、主に仕え、人々に仕えようとしているのか、私たちの信仰の姿勢を主は問われ、引き出される。新年度も主にある成長を与えられたい。

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