月別アーカイブ: 5月 2019

20190526『アハブの愚かさと後悔』列王記21:17-29

「ナボテはアハブに言った。『私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。』…エリヤに次のような主のことばがあった。 『あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。』」                     (I列王21:3,28)
悪しき王が多い北イスラエルの王の中でも、アハブは最悪の王と言われる。それは彼が、自分の欲望や、また妻となったイゼベルの言葉に振り回されたからだともいえる。彼自身の実態は弱々しく、エリヤを恐れつつもそれを認められずにいたのかもしれない。弱さや愚かさを認めるには勇気が必要となる。
アハブはナボテが所有していたぶどう畑を自分の畑として譲って欲しいと申し出るが、ナボテは神からの地を譲ることはできないと拒絶する。実はこのナボテの言葉にこそ、王をも恐れず神を正しく恐れる真の姿が見られる。しかし、アハブは自分の欲に固執し、イゼベルの悪しきアドバイスを用い、ナボテを殺害してしまう。民である一人のいのちよりも、自分の欲望を優先してしまう愚かさの背後には、歪んだプライドと闇があろう。しかし、アハブはエリヤを通して語られた神の裁きの前に悔い改める。
それは真実なものではなく後悔としか言えないものであったが、神は彼を憐れまれる。神の憐みによって私たちは生かされていることを覚えたい。そして愚かさを認める勇気と、真理に従う従順さを与えられたい。主は私たちの心をご覧になる。

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20190519『互いに弱さを担い合って』ローマ 15:1-6

「私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。…どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。」  (ローマ15:1,5)
私たち人間は、他者と共に生きるようにと創造されている。それもまた、私たちが「神のかたち」に創られた恵みでもある。他者の存在に信頼し、時には健全な依存を学び、そしてお互いの存在を喜び、受け入れて歩んでいく。そこに豊かな祝福がある。誰も完全な人間はいない。私たちはみな弱さを持ち、他者の存在を必要としているのだ。その原点には、神を求め、神と共に生きる存在という霊的な存在のあり方があるが、その弱さは私たちが互いに担い合うものとしても、私たちにゆだねられている。そして力のある者が力のない人たちの弱さを担うようにと勧められている。信仰のゆえにこだわりをもちやすい人の弱さを、私たちは神の愛によって互いに担い合っていく、その原点には、自分を喜ばせるべきではないとの御心がある。
私たちの罪の姿は、自己中心への傾きと言える。自らを神とする罪から離れ、他者のために主の愛によって生かされ用いられていくことは、神の御心を行うことへとつながっていく。パウロは多くの葛藤を通るローマの教会の人々が、忍耐と励ましの神によって同じ思いを抱くようにと祈る。それこそが主の教会の交わりであり、成長につながっていくからだ。私たちもまた、神の恵みと赦し、そして愛に生かされ互いの弱さを担い合いたい。

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20190512『一羽の雀さえ』マタイ10:24-31

「ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」                 (マタイ10:31)
今日は、「母の日」です。私たちのために多くの犠牲を払い、豊かな愛を注ぎ、祈りと共に育んでくださった母親に、そしてその母を与えて下さった神様に心から感謝をささげたい。
母の恐れは何だろうか。そして私たちの恐れは何だろうか、そこには少し違いがあるだろうか。今の苦しみも、将来への不安も、そして過去の過ちも私たちの心を恐れへと導く。その恐れの中にとどまり続けることは決して簡単ではない。母の苦悩のひとつは、その様々な恐れを受け止めながら、そこに忍耐をもってとどまり続けることではないだろうか。その困難さをも理解される主は、私たちをも招かれ「恐れてはいけません」と語られる。
それは、主ご自身が、師として全ての苦難をも受け止められ、様々な迫害をも味わわれたからだ。そして全てが神の前には明らかであり、主が主権を持っていて下さるからだ。それゆえ私たちはどんな迫害や苦難をも恐れずに、それを明るみに出し、主に委ねることができる。それは主が私たちのたましいにも権威を持っておられ、最終的な裁きをも行うことができるからだ。そして私たちを主は豊かに愛してくださっているからだ。どんな小さな存在である雀でさえも、主は豊かに愛しいつくしみ、守っていて下さる。細い髪の毛さえも主は全て数えていて下さるのだ。どんな小さな存在も主は限りない愛を豊かに注いでくださる。それゆえ私たちは恐れる必要がない。いや恐れてはならないのだ。主は永遠の無条件の愛を私たちに注がれている。

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20190505『助けはどこから来るのか?』詩篇121篇

わたしたの助け(守り)は天地を造られた神様(イエス・キリスト)から来る。
序論:日本の助けを求めている姿

1. 助けを求め、被造物として創造主を認める謙遜さ(謙遜さ)1、2節

2. 天地を造られた神様はと?んなお方なのか。
2.1.  生きておられる神様はあなたを守る方。
2.2.  助けと守りの内容。
2.2.1. 足をよろけさせない。
2.2.2. 陰になってくた?さる。
2.2.3. 全てのわさ?わいから守る。
2.2.4. 守りか?と?こしえまて?も続く。

3. 造り主から離れている人生の旅路は?
(創造主を無視する罪人の現実)
3.1. 造り主から離れていた少年の証
3.2. 少年か?悟られたイエス様はと?んなお方なのか?
結論: 罪人の助けは、
天地を造られた神様(イエス・キリスト)から来る。

(メッセージ:金神学生)

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20190428『霊的成長を目指して』ローマ14:13-23

「このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」                     (ローマ14:18,19)
聖書が語る救いの豊かさは、私たちの全ての罪が赦され、私たちがいつでも主のもとに行くことが出来るということに留まらない。復活の主は、私たちのためにとりなし、聖霊なる神は、私たちと共にあって、私たちの歩みを導き続けて下さる。私たちの歩みは、新天新地を待ち望みながら、「今」を生かされ、あらゆる苦難の中をも主と共に歩み続けていき、私たちが内側からキリストの似姿に変えられていくことを待ち望んでいく歩みと言えるだろう。それはキリストの教会のあるべき姿をも描いている。
主は私たちに成長・成熟を求められる。私たちは救われたままで留まってしまっている面がどこかにないだろうか。幾度でも主への初めの愛に戻り、みことばに生かされ続けるものとされたい。その成長の方向性は、神にも人々にも仕え、そして喜ばれ認められる歩みだと聖書は語る。そこに教会の醍醐味もある。私たちは互いに仕えながら、この地に仕える者とされていく。それこそが主にある平和につながり、人々と和して、主にある平安を受け取り続け、交わりを築き上げ続けて行くからだ。 お互いの霊的成長に役立つことを追い求める歩みは、他の方に仕える歩みでもある。霊的同伴を祈り求めながら、自らもしゅにある豊かな成長を与えられ続けたい。

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