月別アーカイブ: 6月 2019

20190623『喜びと平和に満たされて』ローマ15:7-13

「ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」        (ローマ15:7-9) 私たちの交わりには時に様々な葛藤が起こる。違いが強調される時も、同じ弱さを抱える時にも葛藤や摩擦が起こりやすい。
ユダヤ人と異邦人の間には大きな葛藤や摩擦があった。それは教会の中にも持ち込まれ、ローマ教会は多くの問題を抱えた。しかしパウロはどんな違いや葛藤があろうとも、キリストが私たちを受け入れてくださったように、互いを受け入れ合うようにとチャレンジをする。それは主イエスご自身が、ユダヤ人のしもべとなられた姿に倣うことであり、そこにも異邦人が神をあがめるようになるという目的があった。私たちが違いを越えて、共に神を賛美するようになり、互いに仕える者となり、キリストが自分たちに与えてくださった豊かな憐みと愛を思い起こすときに、私たちの思いは一つとされ続けていく。葛藤や摩擦の中にこそ、私たちが主の恵みと出会う大きなチャンスがあるからだ。
人間関係に課題を私たちは抱えている。そこには他者との問題以上に、自分と向き合う問題があり、神ご自身との関りを見つめ直す大きなテーマがあることを教えられたい。神は私たちが一人として、また交わりの中で、豊かな喜びと平安に満ちた歩みをするようにと願っておられる。主のもとに共に近づきたい。

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20190616『主イエス・キリストとの出会い』ルカ5:1〜11

序、私たちがイエス・キリストに出会うとは、その背後にどの
ような状況があるのか。ペテロの状況からともに学んでいこう。
                   
本論I、漁師たちへのチャレンジ(1?4節)
1) 落胆していた漁師たち(よくある出来事)
2) 民衆に語られたイエス
3) 漁師にチャレンジしたイエス
*神との相互主体的な関係である(神は私たちに働きかけておられるお方)

本論II、ペテロの応答(5?9節)
1) イエスの言葉に従ったてみたペテロ
2) 結果に驚いた弟子たち(思いもよらぬ出来事)
3) 自分の罪深さを知り、イエスを信じたペテロ
 *私自身は、どのようにしてイエス・キリストを信じたのか。
 *「人生は出会いで決まる」:マルティン・ブーバー(1878?1965年)=ユダヤ系宗教哲学者 

本論II、キリストについていく弟子たち(10?11節)
1) 自分の弱さを知った漁師たちに使命を与えるイエス
2) 自分の弱さよりもイエスの言葉に従った漁師たち
 *イエス・キリストは、信じた者の生涯の責任を取ってくださるお方

メッセージ:町田俊之師(バイブルアンドアートミニストリーズ代表)

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20190609『主の教会の誕生』使徒2:1-13

「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」            (使徒2:3,4)
主の教会は人の集まりゆえに、様々な問題を抱えます。しかし他の共同体と違って、主の教会は、主ご自身が一人ひとりを導き続け、変え続けて下さるゆえに、成長があるのです。教会に問題があることは問題ではありません。問題から学ばないこと、問題を通して主に向かわず、遜らないことが問題なのです。
今日は主の教会の誕生日とも言われるペンテコステです。旧約時代には「五旬節」として祝われた過ぎ越しの祭りから50日目、また7週目の祭りとも呼ばれました。それは収穫を恵みを覚える時であるとともに、モーセを通して与えられた律法を感謝する時でもありました。そして新約の時代には、霊的な収穫や、弟子たち一人一人に神のことばが与えられ、大胆にキリストを証しする者へと、あの弟子たちが変えられていったのです。それは聖霊なる神の働きでした。復活後40日間弟子たちとともに歩み、天に戻られたキリストは「もうひとりの助け主」を送ることを弟子たちに語っていました。それこそ聖霊のことでした。聖霊は弟子たち一人ひとりの上に臨み、内側から彼らを造り変え、彼らを証し人として用い、多くの人々がキリストの愛と救いに導かれたのです。

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20190602『自分の十字架を負って』マタイ10:32-39

「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」                        (マタイ10:38,39)
キリストが招かれた弟子たちは、全員が無学ではありませんでした。しかし、彼らにはそれぞれの欠けがあり、不十分さを常に抱えていました。 しかし、キリストは弱さを持つ弟子たちを招き続け、整え続けました。そこに主の愛と忍耐があったのです。
主の福音宣教は様々な対立や反発、時には肉親の敵意さえ招くことがありました。現代ではそれは少なくても、私達には、自分に委ねられた使命を受け取り、覚悟を定めることがひつようです。そのような中で弟子たちの主イエスに対する愛が問われました。自分の家族に対する愛に勝る愛を、真の主であるイエスにささげるのでなければ、主の弟子としてふさわしくないからです。それは厳しい面がありますが、素晴らしい特権と祝福でもあったのです。また十字架に象徴される死に自分を渡し続けていくことが、弟子の条件でもありました。自分を主としやすく、自己中心的な自己実現を追求する時、私たちは真のいのちにあずかることが難しいのです。弱さや愚かさを抱えた弟子たちにも、キリストが一番求められたのは、自分に死ぬことでした。しかし私たちは、自分へのこだわりや自己中心的なあり方から離れていくことにこそ、真の喜びと祝福があることを見出すのです。

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