月別アーカイブ: 7月 2019

20190728『時が満ち、神の国が近づいた』マルコ 1:14-15

「時が満ち、神の国が近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい。」     (マルコ1:15)

私は日本に来る前に、北朝鮮の核の問題やミサイルのことでとても不安を感じたことがあります。軍隊経験者である私はそれらの恐ろしさをよく知っているからです。日本に来た後は、自然災害の恐れから不安を覚えたりします。世界、どの国においても色んな問題と不安がありますね。平和、平安がある正しい国は存在しないのか。と考えさせられます。そんな中で、私は2年前に母を癌で亡くしました。このことは、人生について深く考えさせられる機会となりました。なぜ、人間は死ぬしか出来ないのか。死に対する恐れ。恐れがない国はないのか。これらに対して、聖書はちゃんと答えています。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
聖書は罪に満ちて不安だらけのこの世界に、神の国が近づいたと述べています。平安があり、正義がある国。永遠のいのちがある国。それが神のみ国であります。誰でも、どんな罪人でも、悔い改め、福音を信じるならば、入ることができます。罪に満ちた世界に、救い主イエス様が治めるみ国が近づきました。真の神に立ち返え、福音を信じ、王なるイエス様に従いましょう。そこには平和、平安、正しさ、永遠のいのちがあります。罪の赦しがあります。そこには真の喜びがあります。

(メッセージ:金神学生)

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20190721『追いやられた主』マルコ1:12-13

「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」
(マルコ 1:12)
命題: 試みや試練がある荒野のような人生の中で、
頼るべきお方は神の子主イエスキリストです。
序.  試みや試練を受けた時があるか。
本論
1. 試みや試練を受ける時、福音とは何か?1節
1.1. 福音とは主人が変わることである。
1.2. 今私たちは誰に従っているのか?
2. 福音が始まると現れる三つこと
2.1. 試みが神の主権の中にある。12節
2.2. 勝利されたイエス・キリストがおられる。13節
2.3. 助けと奇跡を体験するイエス様との交わりがある。
(ヘブル1:14; 2:18)
結論.
試練がある荒野のような人生の中で、今私たちは福音が始まっているのか。毎日主イエス様のみことばから、励ましを求めているのか?祈りの中で、イエス様との交わりを深めているのか。混乱の時こそ、勝利者イエスとの深い交わりを味わう良い機会である。荒野に追いやられたイエスは私の真の主である。

(メッセージ:金神学生)

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20190714『おいでになるはずの方』マタイ11:1-6

「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」     (マタイ11:5,6)
主の御心に従い、人々に悔い改めを語り、王をも恐れず裁きを語り、真実な悔い改めを求めたバプテスマのヨハネは、捕らえられマケルスの要害に入れられていた。彼自身、主キリストに会い、「罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と紹介していたのだが、主の噂を獄中で聴く中、真実を確認しようとしたのだろうか。
「おいでになるはずの方はあなたですか?」とのヨハネの問いには、彼の心の渇きも見て取れる。しかし主の答えは明快だった。イザヤ書に記されたメシヤ(救い主:キリスト)の預言の成就がイエス・キリストにあって明確に示されたことを主は明らかにされた。そして、それに加えて、バプテスマのヨハネ自身も主の道を備える人であり、女性より生まれた人の中で、最も優れた人であると言明されたのだ。聴く耳を持ち、見るべき目を持つとき、私たちは、主の真理の豊かさと確かさを知ることができる。
旧約聖書が預言し、ヨハネが道を備えたキリスト、主イエスが目の前にいる。しかし人々も弟子たちもその恵みをなかなか受け取れない。私たちはどうだろうか。目と耳を開いていただこう。

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20190707『神と人を愛し、受け入れる祝福』マタイ10:40-42

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。…まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」 (マタイ10:40,42) 私たちは時に、他者を受け入れることが難しい。表面的に受け入れられても、心から真に受け入れることは簡単ではない。
ここでキリストは、主の弟子を受け入れる者は、キリストご自身を受け入れることであり、キリストを受け入れることは、父なる神を受け入れることに繋がると明言されている。人を愛することの原点には、神を愛することがあり、神の愛を受け神を愛することから、人を愛する愛が与えられていくことに繋がっていくのだ。私たちの弱さや限界を主はすべてご存知だ。他者を愛せない自分、受け入れられない自分を私たちはなかなか認められないのだが、主はすべてを知りつつ、私たちを愛し、招き、導かれる。主の弟子たちも様々な困難を覚えていた。しかし主はその彼らを弟子として招き、愛の訓練を与え続けられる。主は決して見放さず、見捨てないお方であり、主に従うゆえに拒絶されることがあっても、恐れる必要がないと主は彼らを、そして私たちを励まされる。その励ましはなんと温かで力強いことだろうか。
さらに、主の弟子だという事で、たとえ一杯の冷たい水しか飲ませられないような現状があろうと、主はその愛に報いて下さると語られる。私たちのどんな小さな愛のわざも、主はすべてご存知であり、それを喜んでくださるのだ。他者を愛する者とされ続けたい。

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20190630『神の御心を求める』列王22:1-14

「ヨシャファテは、『ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか』と言った。」
    (列王22:7)
私たちは、人生の中で重要な選択を余儀なくされる。その時に「神の御心」がどこにあるのかを正しく知りたいと願う。
南ユダの王ヨシャファテは、北イスラエルの王アハブを訪ねる。それはアラムとの間に戦いがなかったからでもあろう。しかしアハブは、この時アラムとの境にあるラモテ・ギルアデの地をアラムから回復するための戦いをヨシャファテに提案する。善王とも言われるヨシャファテはまず主のことばを伺いたいと申し出てアハブはそれに応じる。アハブとて神の御心を求めていたのだ。しかしそれは400人の預言者集団の忖度をベースとしていた。アハブの願うことを神の御心として語っていた預言者だったのだ。彼らの余りにも一致した賛成のことばに、ヨシャファテは「御心」を求めることのできる預言者をとアハブに求めたのだ。
ここでアハブは預言者ミカヤの存在を明らかにする。アハブも分かっていたのだ。真に神の御心を求めることができる預言者の存在を。しかし自分の意見に逆らう預言者の言葉を退け続けたのだ。私たちも自分の願いにかなった答えが期待できる方に相談する誘惑がある。しかし、それは主の御心を求めることではない。ミカヤは一度アハブの心に沿う預言をあえてする。しかし、それは皮肉であった。その後のミカヤの預言は成就する。 私たちは、真に主の御心に従う心があるだろうか。

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