月別アーカイブ: 9月 2019

20190922『福音宣教の使命』ローマ15:18-29

「キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです」        (ローマ15:20)
先週、日本福音自由教会の70周年記念大会が、恵みのうちに終わった。全国65の教会から750名以上が集った大会は、祝福とチャレンジに満ちていた。今までの歩みを感謝すると共に、私たちが受けた福音の恵みを分かち合う宣教へのチャレンジと使命を確認できたことは豊かな、そして大きな意味があった。
福音宣教のルーツは、パウロにあるといって良いだろう。かつて迫害者だったパウロが、復活の主と出会い、主の恵みと愛を世界に伝える器とされた。彼の賜物が豊かに用いられ、異邦人へと向かっていく。当時の世界の中心であったローマへの思いは熱かった。旅の途次、ローマを訪問し、ローマ教会の兄弟たちの祈りと支えとを得て、イスパニヤに行きたいと願っている旨を書き送る。ただ、ローマ訪問の前に、パウロの伝道によって建てられたマケドニヤとアカヤの教会がエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのためにした献金を携えてエルサレムに行く旨を告げる。この献金は「神の恵み」であり、彼らは喜んでそれをしたのだが、同時にユダヤ人から霊的なものを与えられた異邦人が、物質的な物をもって彼らに奉仕することは恵みの特権であるとパウロは言う。そして、この献金をパウロ自身がエルサレムの教会に届けた後、ローマ教会を訪問した上で、イスパニヤに宣教に行く計画であると伝えた。パウロの視点は大きく豊かである。私達はどのようなビジョンに生かされているだろうか。

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20190915『老いの祝福とチャレンジ』ヨシュア 14:5-14

「ご覧ください。今日、私は八十五歳です。モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。」  (ヨシュア14:10,11)
聖書が語る神は、全てを創造された神です。愛を持って人を創造された神は、一人ひとりの人生を見守られ導かれます。歳を重ねられることができるのは、主の恵みと憐みでした。
そして人生の先輩を心から敬い、大切にするようにと神は私たちにチャレンジします(レビ19:32)。そしてそれは歳を重ねる方へのチャレンジでもあります。アブラハムもイサクもヨブも「年老いて満ち足り」と聖書は証しているからです(創25:8,35:29)。
しかし、聖書はなおもチャレンジします。歳を重ね90歳を超えていたであろうヨシュアに主は使命を与えます(ヨシュア13:1)。使命を果たしたヨシュアもその使命を次世代に継承します(同23:1〜)。また、そのチャレンジは、ヨシュアと共に約束の地を偵察し、信仰を持って進み行くことを進言したカレブにも与えられていました。彼は85歳となっていましたが、約束の地を偵察した時の地ヘブロンを与えてほしいと願い、戦いへと進み出ていくのです。それは主と共に進んでいく信仰の道でした。
カレブはユダ族の代表でしたが、ケナズ人であり、エソウの子孫でした。恵みによってユダ部族に加えられた民ですが、より信仰を明確にし、成熟していったのです。歳を重ねつつ、祝福と恵みとチャレンジを受け続ける人生を歩ませて戴きましょう。

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20190908『悔い改めの重要さ』マタイ11:20-24

「イエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。」 (マタイ11:20)
バプテスマのヨハネの悔い改めへの招きを受け入れず、また主イエスを救い主キリストだと認められない背後には、 メシヤへの思い込み や理想、自らの高慢や傲慢、内にある傷や劣等感、従いたくない心、委ねられない心がある事を先週学びました。それらは、私たちの心にもある事柄でしょう。悔い改めることは、向きを変えることを表しますが、私たちは心を神に向け続けること、心の耳を神のことばに向かわせ続けているでしょうか。
続いてイエスは、たくさんの主の奇蹟を見ながらも、悔い改めなかったガリラヤの町々を責め始められました。人々は、イエスにいやしや悪霊からの解放を求めつつも、主の言葉に耳を傾け悔い改めることをせず、自己満足にとどまっていたのです。ツロとシドン、そしてソドムは人々が良く知る傲慢さと堕落の象徴のような町々でしたが、主を認めないガリラヤの町々はこれらの町々より重い罰に値すると主は語られたのです。しかし、その背後には、主の愛と祈りがある事を見過ごしてはなりません。頑なな私達、愚かな私たちの悔い改めを主はとりなしの祈りと愛によって待ち続けておられるからです。ここにも主が関わった町々、人々への愛があるのです。私たちはその愛にどう応答していく必要があるでしょうか。

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20190901『来たるべきエリヤ』マタイ11:7-19

「あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。耳のある者は聞きなさい。」 
                       (マタイ11:14,15)
人々が荒野の洗礼者ヨハネのところに出て行ったのは、神の言葉を語る預言者に会うためであった。事実彼は預言者以上の者である。それは、彼が預言されていた(マラ3:1)預言者であり、救い主メシヤの先駆けを使命とする預言者であったからだ。それどころか、その時までに生を受けたすべての人の中で最も偉大な者であるとキリストは証ししている。しかし神の国が到来した今、御国に入れられた一番小さい者でも、神の国の外にあったこの洗礼者ヨハネより偉大であるとキリストは語る。私達に用意されている恵みは何と大きいのだろうか。
彼を境にして「天の御国」は激しく攻められており、激しく攻める者たちがそれを奪い取っているのだという。それは、キリストによって到来した「神の国」に対する暴力的な反対を述べていると考えられる。このヨハネこそマラキが預言したエリヤの再来(マラ4:5‐6)であり、旧約の時代を閉じる者であったのに、人々には、彼のメッセージに耳を傾ける心、神からのメッセージに従って罪を悔い改める心が全くなかったからだ。
キリストは重ねて「耳のある者は聞きなさい」とユーモラスに語られる。それは洞察を要する教えの後で繰り返される慣用句でもあった。しかし、真に私達は聞く耳、聴く心、聴き従う柔らかな心が与えられているだろうか。

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