月別アーカイブ: 10月 2019

20191027『万軍の主は生きておられる』列王記第二 3章9-20節

「エリシャは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。…今、竪琴を弾く者をここに連れて来てください。」… 彼は次のように言った。「主はこう言われます。『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』」    (列王3:14-16) エリヤの使命を受け継いだエリシャも、北王国イスラエルに仕える。それは困難を伴う働きであったが、エリシャはどんな時にも神を見上げる。
 北王国のヨラム,南王国のヨシャパテ,エドムの王が連合してモアブ王メシャと戦うのは、北王国とモアブの政治上の問題にエドムの利害関係が加わったことによるものだった。北王国との友好関係のために、南王国も加わるのだが、様々な利害が絡む中にあって、神はそこにエリシャを通し、御業をおし進められた。複雑な状況の中に身を置くのは預言者とて簡単なことではない。しかし、そこでエリシャは竪琴奏者を連れてきて欲しいと願った。それはエリシャ自身だけではなく、葛藤の中を通る神の民の豊かな慰めとなったに違いない。
 エリシャは主の言葉として民への慰めを語る。それは『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』との希望にあふれるメッセージであった。主はご自身に背き続ける神の民をも憐み、慰めと愛を注ぎ続けて下さる。私たちはその主の愛にどのように応えていくのだろうか。  万軍の主は、今も生きておられ、あなたを愛しておられる。

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20191020『平和の神が共に』ローマ人への手紙 15章30-33節

「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン」
(ローマ15:33)
前回は、ローマ15:18-29から、『福音宣教の使命』として、5つのポイントで学んだ
 宣教の広がり スピリット
 宣教の力   みことばによる
 宣教のバトン 継承
 宣教の深まり 献身
 宣教の交わり 交わり 
 この最後の部分が今日の箇所である。宣教の交わりは、具体的な交わりであり、それは祈りへと結びつく。パウロは、自分のために祈ってほしいと願う。それは教会のためであり、何よりも主の愛と福音が広げられ届けられていくことであった。
 パウロは福音宣教の使命を、ローマにいる主の兄弟姉妹に分かち合っていく。交わりの中に 祈りがあることの祝福がある。それは共に平和を祈ることにつながり、祝福を受け継ぐように召された私たちの特権でもある。
 パウロは「平和の神」と良く用いる。平和の神が私達と共にいて下さるようにと心から祈る。それはそこにこそ、教会の祝福があり、力強い歩みがあり、またどんな中にあっても、愛の交わりを保つ秘訣があるからだ。平和の神がともにいて下さるゆえに、私たちはどんな中にあっても、神の平和を持ち続け、どんな争いをも祈りを通して和解に向かうよう努め、共に自らを捧げ、他者の為に生きることへと導かれる。私たちは、神と共に大きなチャレンジを受け止めていくのだ。

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20191013『安息日の主』マタイの福音書 12章1-8節

「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」                    (マタイ12:7,8)
 すべて疲れた人、重荷を負わされた人はわたしのもとに来なさいと招かれた主は、その招きを律法学者たちにも広げました。彼らこそ人々に重荷を負わせていたのですが、その背後には彼らもまた、負わされた事実があったからでしょう。
 「安息日」を守ることが律法学者たちの最大の使命だと言っても過言はない時、主イエスは弟子たちと共に、麦畑の中を通られました。主と共に歩み極度の空腹を覚えていた弟子たちの行動は予想されたでしょうし、それを見とがめられることも想定内だったのでしょうか。主は律法学者たちをも真の休息、また真の礼拝、待ち望むべきメシアの到来の恵みへと招くのです。律法の専門家であった彼らに、主は「読んだことがないのですか」と旧約聖書の史実を示します。安息日に取り下ろされた臨在のパンをダビデたちが食したこと、安息日に祭司は働きが許されたこと、それらは宮よりも偉大な存在である主との出会いへの招きでした。
 さらに、主は彼らの内側にある問題を指摘し、神が喜ばれるのは「真実の愛」ヘセッドであることを真に知るようにと招きます。その招きは私たちにも与えられています。体裁や表面だけを意識しやすい私達の心のうちが問われるのです。そこに真の安息への招きがあるのです。

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20191006『疲れた者への慰め』マタイの福音書 11章25-30節

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。…あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」 (マタイ1128,29)
 私たちは日々様々な疲れを抱えながら歩んでいます。身体も心も疲れを覚えますが、それいじょうに霊的な疲れがある事を自覚する必要があります。
 主イエスは。当時の人々の実情を良く理解していました。神の愛としての律法が人々を縛るルールや掟とされ、裁き合う痛みや疲れが蔓延していたのです。霊的な傲慢が律法学者にあり、それが人々を疲れさせる要因でもありました。彼らは真の神との交わりを失い、いつも人の評価や人の眼を気にして生きていたとも言えるでしょう。そして私たちの疲れの要因にも人の評価や視線があるのではないでしょうか。私たちも疲労困憊し、誰かに重荷を負わされてしまうことがあるのです。背後に人の罪があります。  しかし、すべての枷を打ち砕き、人に真の安らぎと平安。自由と希望を与えるために救い主キリストは、この地上に来られました。
 それは、すべての主権を持つキリストが、私たちに天の父の存在を知らしめ、真のやすらぎと救いを与えて下さるからです。それはキリストのへりくだりに基づいていました。キリストのいのちこそが、私たちに真の使命を与え、おさなごに示される祝福を受け取り、キリストと共に歩む者とされていくのです。「わたしのくびき」と主が語られる使命は私たちが負いきれない者ではなく、私たちを生きる喜びに導き、神の御子キリストがもつ平安と自由と安らぎの中を、私達は雄々しく歩むことができるのです。

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20190929『使命のバトンタッチ』列王記2:1-14

「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。」            (列王2:11)
私たちは、一人一人が神様からのチャレンジを受ける。それは他の人と比べる必要がない。しかし霊的荒廃の現実の直中にあった北王国イスラエルで偉大な預言者として活躍していたエリヤの働きを継承する使命が与えられていたエリシャのとまどいは小さくない。エリシャは霊的洞察力や主への姿勢、また他の人からの言葉への対応など、ひとつ一つが試された。しかし何よりもエリヤの後継者として、「あなたの霊のうちから二倍の分」を願った背景には、彼の自らの弱さや足りなさの自覚があったであろう。二倍の霊的なものを受けなければやっていけないと言う思いと共に、それは神と人の前に正式な後継者としての相続を願ってのことであったであろう。しかし、霊的な遺産はそのような物質的に数えられるようなものではない。
エリヤもまた弱さをもつ預言者であった。しかし彼を主は豊かに用いて、主にある勝利と導きをイスラエルに与えられた。主からの使命を受け取っていることは、主ご自身の主権によるものであることをエリシャは認め続ける必要があった。主はこのエリシャを豊かに用いられる。それは時にエリヤの働きをも超えるような面を持っていた。しかし、全てが主の恵みであり、主権であることそのことを決して忘れてはならない。私達もまた、信仰の先輩から多くのものを受け継いでいく、主ご自身を見上げ主に従いたい。

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