月別アーカイブ: 11月 2019

20191124『主の教会の交わり』ローマ16:1-16

「キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。」  (ローマ16:3,4)
 ローマ人への手紙を締めくくりにあたり、パウロは多くの主にある兄弟姉妹、また同労者の名前を挙げている。主の教会には、主を愛し、主と人々に仕える多くの働き人、愛の器がいたことに心をとめたい。ここにはローマにある主の教会で仕える26名のキリスト者たちの名が挙げられ、挨拶がなされている。その中には多くの婦人が含まれていることは興味深い。当時の教会の中でも、女性の賜物が豊かに生かされ、豊かな交わりが形成されていたのだ。彼らに対するパウロの心のこもったあいさつからも、初代教会の交わりの親密さを知ることが出来る。主の教会には交わりが欠かせない。真実な交わりは教会に力を与え、主の祝福をもたらしていく。
 また、パウロは同労者として、プリスカとアキラの名前を挙げている。この夫妻はユダヤ人追放令によってローマを退去し、コリントに逃れて来ていた時、パウロの伝道を助け、エペソを経てローマへ帰り主に仕えた。共に主の教会を建て上げる交わりは、格別の恵みがあり、家が解放され持たれた交わりは宣教の力となった。私たちも、主にある真実な、そして主体的に主に仕える献身的な交わり、祈りの交わりを築き上げたい。

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20191117『栄光に輝く喜び』ペテロ1:3-8

(召天者合同記念礼拝)

「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」              (ペテロ1:3)
 主のもとに戻られた方々の写真が礼拝堂の前に並ぶとき、お一人おひとりとの交わりの恵みを思い出します。笑顔の写真の背後に様々な悲しみをも通られた方々は、今は主のみもとで完全な平安の中にいらっしゃると共に、この時天と地との合同の主への礼拝にも集われていることを想像します。主の支配に移された方々の歩みは、私たちにあなたはどう生きるのかと問いかけているように思うのです。
 ペテロがこの手紙を書いた時代は、ローマ帝国からのキリスト者への迫害が強まる中でした。死が意識される中にあってペテロは初代教会のひとり一人を真の希望を見上げるようにと招きます。その希望は永遠に変わらない、栄光に輝く喜びに満ちた生ける希望なのです。それはどんな苦難があろうとも私たちは天に蓄えられ、私たちに与えられる天の宝を覚えつつ、力強く今を生きることができるとの招きであり、チャレンジです。近視眼的になり易く、状況によって一喜一憂する私たちも主イエス・キリストがその十字架と復活によって完成した永遠の希望を目指し、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍ることができるのです。この希望に共に生かされたいと願っています。皆さまへの主の慰めと平安をも祈りつつ。

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20191110『良い実を結ぶために』マタイの福音書 12:22-37 節

「木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。」              (マタイ12:33)
聖書は人生の成功を私たちに求めない。それよりも実を結ぶ人生をと全人格的な成熟を求めている。それは天に続く祝福でもある。特に私たちの神と人の前のあり方が問われる。
悪霊につかれていた人が主イエスによって見事にいやされ、群衆は「この方はメシヤなのだろうか」と言った。悪しき霊の追放は否定出来ないが、人々がイエスに傾斜していくのはとどめたいパリサイ人たちは主の奇跡を悪しき霊、ベルゼブルの力に帰し。それは主を否定する言動であった。イエスは反論し、国等の内部に対立があれば立ち行かない様に、サタンがサタンを追い出すならその支配は成り立たないことを示し、悪しき霊の追放は神の御霊によるものであり、それによって神の国がすでに到来していることがわかるのだと語る。そしてパリサイ人に対して、どんな罪も赦されるが、明らかに聖霊のわざとわかることを悪霊に帰するような、聖霊に逆らう冒涜は永遠に赦されないと警告し、故意に逆らい続ける傲慢さを示したのだ。そこにも主の彼らへの愛と招きがある。

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20191103『慰めに満ちた主』マタイの福音書12:8-21 節

「彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。異邦人は彼の名に望みをかける。」              (マタイ12:19-21)
安息日規定は、人の心も縛るものだった。主イエスは、そのあり方に挑戦する中で、パリサイ人たちをも招かれたのだ。しかし、パリサイ人は殺意で応答する。それを知ったイエスはそこを立ち去った。どのような思いであっただろうか。
主は、ご自身の後を追って来た病人たちを癒された。謙った主イエスの姿はイザヤ42:1‐4の成就と言えよう。イエスは第1に主が選ばれた主のしもべである。父なる神の御心の中を主はしもべとしての道を歩み続けられる。第2に、主イエスの働きは異邦人への希望であった。これは主の働きの広がりの預言とも言えよう。第3に、イエスは柔和なしもべである。主はパリサイ人の殺意に対抗して争ったり、自らの愛のわざを宣伝したりしない。葦は湿地にたくさん生えているから、傷んで役に立たない葦は折られて捨てられてしまう。くすぶる灯心も煙いだけで役に立たないから、消されてしまう。しかし、イエスはそれらのものになぞらえられる者であっても見捨てず、神の御心が成るまで忍耐をもって働く。ここに私たちの主イエスの優しく、へりくだった慰めに満ちた姿がある

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