月別アーカイブ: 2月 2020

20200223『ナアマン将軍の癒し』第二列王記 5章1-19節

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」 (列王5:14)
 私たちには様々なチャレンジがある。前13世紀にヒッタイト王国が没落し、それに代ってアラムが勢力を増大した。ダマスコに代表されるアラムは大きな力を持っていたが、その将軍ナアマンは神を畏れる人であった。ツァラアトの病を抱えていたが、アラムの王に尊重される存在であった。
 彼の妻に仕えていた一人のユダヤ人の女性が、病の彼を神の人エリシャの元へと導く。信仰者の証の影響は小さくない。そしてナアマンは多くの贈り物を携えて出発した。しかし、抱いていたイメージとは全く違うことを行うようにとエリシャのしもべから伝言を受けたナアマンは怒りを隠せない。そこに彼やアラムのプライドの問題があったであろう。私達もまた、同様の問題を抱えやすいことを自覚したい。
 主に信頼するその若い女性に促されて、ナアマンは示されたヨルダン川に7度自分の身体を浸した。何によっても癒されることのなかった彼の驚きは大きく、彼は主を礼拝する者として自分を位置づける。異教の神に身をかがめてしまう時がある事へのエリシャの配慮は、慰めに満ちていた。
 しかし神に栄光を帰し、彼からの贈り物を受け取らなかったエリシャだったが、そのしもべゲハジの軽率で計算高い行為は、私たちへの警告でもあろう。私たちはどこに価値を置き、どのように主に従うだろうか。主は全てをご存知である。

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20200209『天の御国の弟子』マタイの福音書 13章 51-58節

「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」                         (マタイ13:52)
私たちは皆、弱い存在である。しかし、主はその弱さのすべてをご存知でなお私たちを憐れみ、愛し、そして選び、祝福の器としてくださる。その霊的祝福の素晴らしさを私たちは心に留め続けていたい。
主の弟子たちは、「神の国」のたとえを主イエスから聴く中で、あらゆる恵みと祝福へと招かれた。それはどれほどの犠牲を払っても手に入れたい祝福であり、永遠の栄光を約束されている恵みの祝福だった。しかし、そこには厳しい現実もあった。悪しき者の存在と誘惑、神の裁きの現実もあったからだ。しかし最後に主は、彼らに主の弟子たちはたとえを通し神の国について悟るだけではなく、自分の倉に蓄えた神の国についての新しい理解と、それによって解釈し直された古い物をも自由に取り出すことが出来るようになるという特権さえ与えられていることを語られた。それは主が与えられた恵みの祝福の豊かさをも表すとともに、それを周りの人々にも分かち合うことのできる使命の確認でもあった。
また主の弟子とは、主ご自身を真に知り続ける特権にも預かっている。神の御子である方が、受肉され私たちと共に歩み続けて下さっているのに、私達はそれを人間的に解釈し、自分の理解の中に留めてしまうことさえある。私たちに与えられ委ねられている特権は大きく、豊かである。その使命に生かされつつ、聴く耳を持ち、主の豊かな愛を周りの方々に届けていきたい。

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20200216『主の教会の恵み』エペソ人への手紙 1章 13-23節

「神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。
教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」
(エペソ1:22-23)
エペソ書は、パウロがローマの獄中において、初代教会の様々な課題を覚えつつ、回覧されることを前提に記した大切な書です。そこには「教会」が何であるのか、また何でないのか、そしてどれほどの祝福に満ちたものか、それゆえ何に警戒する必要があるのか…と、一つひとつの教会、そして一人ひとりを思い浮かべながら書き送った書だと思われます。
私たちは、様々な問題が起こると、その問題にのみ注視してしまうことがあります。そして大切な人との交わりに亀裂が入り、時には分裂に至ります。確かに重要な点でどうしても譲ることのできない真理や誠実さに関わることもありますが、どのような問題の中にあっても、私たちは心の目、そして霊の目が開かれる必要があるのです。
パウロは「神の召しにより与えられる望み」「聖徒たちが受け継ぐもの」「信じる者に働く神のすぐれた力」の豊かさを知るとともに、キリストにある勝利のわざと、主権の豊かさに目が開かれ、そしてそのキリストが「教会」に与えられていることの祝福に心を留めるようにと招きます。そして教会はキリストをかしらとするからだであり、恵みによって結び合わされるとともに、そこにすべてのものをすべてのもので満たす主キリストご自身が満ち満ちている場所だというのです。その恵み、教会の恵みと祝福を心の奥で受け止め、心からの感謝をささげ、主に仕えましょう。

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20200202『主の祝福と選び』マタイの福音書 13章 36-50節

天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。」 (マタイ13:45-48)
先週に引き続き、主の恵みの選びと祝福について、共に考えたい。先に主の教会の中にある良い麦と毒麦のたとえを語られた主は、悪しき霊の働きに目を覚まし、物事の本質を、そして人の内側をも見極め、警戒するようにと促した。私たちも主の恵みによって選ばれて主の民に加えられているが、いつも自分の内側に目を向け、主に喜ばれるものとなっているかを問われ続けていく必要がある。主は私たちの信仰の質をご覧になり、求められていることに心をとめたい。
また主は、神の国の譬えとして、高価な真珠を見つけた商人のように犠牲を払っても、自らのものとする豊かな価値を認め、自らをも捧げること、そして先の麦の譬えと同様に、主の恵みの網にかかる多くの魚であっても、主がそこから実によって選り分けられるという現実に心をとめるようにとも私たちを招いている。主の祝福をどれほど豊かに味わい、また選びの恵みを心から感謝しているかが問われるとともに、私たちがどのような実を結んでいるのか、真実な歩み、主への献身と従順の歩み、そして他の人々に対する愛と犠牲の道を進んでいるかを主はお求めになっていることに心をとめたい。 主は私たちの内側にどのような実が結ばれているかをご覧になる。 

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20200126『神の選びと祝福』エペソ人への手紙 1章1-14節

「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」 <エペソ1:3,4>
 主からの選びの不思議は、幾度学んでも意義深い。今週と来週、この「選び」と「祝福」について、エペソ書とマタイの福音書から共に学びたい。
 主の私たちの救い、選びの原点は主の愛にある。私たちのいかんに関わらないところに、憐み深い主の恵みを覚える。それはコリント1章の中で強調されている。コリントの教会にも混乱があった。皆が主の愛と憐みに立ち続ける必要がある。今日から、使徒の働きに継続する書簡はエペソ書に入る。それは「教会」をテーマとした重要な書であり、当時の初代教会で回覧されたようだ。主の教会はどの地にあっても課題があり、問題があった。その問題は教会の成長の為に用いられていくが、皆が聴く耳を持つ必要がった。それはローマ署の中でも強調された「信仰の従順」とも言える。主の教会に属する人々は、皆が主の壮大な選びのご計画を知る必要がった。そこにこそ教会の一致のカギがある。世界が創造される前から選ばれた私達は、天上にあるすべての霊的祝福を受けることができると共に、神の御前に聖なる、傷のない者へと変えられ続けていくことができるのです。  主の愛に生かされ、取り扱われ続けていきたい。

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