月別アーカイブ: 3月 2020

20200322『イエスの権威そして弟子』マルコの福音書11章1〜33節

序 御教えを表したり、御業を表す「権威」という言葉
本論
1. 再び宮の中を歩いておられるイエス様と宗教指導者たち(27節)。
1.1. 論争の原因は「神殿きよめの事件」。私たちがイエスの権威を認めない原因は?
1.2. イエス様の権威あるみ教えを目撃した弟子のように。
1.3. 権力の緊張感の中にいた宗教指導者たちは、目の前にいる神に気づかなかった。
2. イエスの権威を巡る論争
2.1.イエスの権威を認めない人たちの「詰問」と「これらのこと」。私たちは神様にどんな「詰問」を投げているのか(28節)。 2.2. イエス様の答え。「ヨハネのバプテスマは人からなのか」(29-30節)。
2.2.1. ラビたちの議論の方法を用いた見事な答え(30節)。
2.2.2. 悔い改める必要があると思わない彼らの答え(31-32節)。
3.神を恐れず、他のものを恐れているゆえに、ジレンマに陥る(32節)。
結論
何を恐れているのか。もし、私たちひとり一人が、ただ神様だけを恐れ、イエスキリストの権威をしっかりと認めるのであれば、どんな変化が現れるだろうか。あなたは、イエス様の弟子なのか。弟子であるならば、まことの主権者を恐れ、主の権威を認めて、イエス様に信じ従うべきである。主は全てをご存知である。 (メッセージ:金神学生)

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20200315『栄えに満ちた喜び』ペテロ第一の手紙1章1〜12節

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」 (ペテロ1:8)
私たちも様々な問題を抱えつつ歩んでいますが、初代教会が抱えていた問題はより深刻で迫害を伴うものでした。ローマの大火によって始まる、皇帝ネロの迫害が強まる中、キリスト者はその只中にあって各地に散らされつつも、共に集まり、神を賛美し、礼拝し、聖書から教えられ続けたのです。
そして、ローマにあったペテロは、自らにも危険が及ぶ中にあって、キリスト者と教会に、励ましと慰めの手紙を書き送り、それは回覧されたようです。苦難の中にある教会を励ますのは、主にある交わりであり、みことばでした。ペテロは主の教会が何に目ととめ、どこに希望を置くのかを二つの手紙を通して、書き送ったのです。それは「救い」の豊かさの確認でした。三位一体なる神による「選びの豊かさ」「生ける望み」「永遠の資産」「救いの喜び」「何よりも価値のある信仰」へと彼らの心を向けたのです。そして苦難の中を通る教会の人々に、信仰の結果である「たましいの救い」がどれほど豊かな喜びをもたらすか、それは「栄えに満ちた」すなわち栄光に輝く喜びなのです。私達もまた、この喜びに生かされることができます。そこにこそ、どんな苦難もしばらくの間の「様々な苦難」なのであって、永遠の栄光を見上げる時、その中にあっても、私たちは主にある喜びにあふれ、輝くことができるというのです。私たちもこの喜びに生かされて歩みを進めて参りましょう

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20200308『5つのパンと2匹の魚』マタイの福音書14章13〜23節

弟子たちは言った。「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。」するとイエスは「それを、ここに持って来なさい」と言われた。                    (マタイ14:17,18)
 私たちは様々な問題や痛みを抱える。この地上の生涯にあってはそれが無くなることはないだろう。しかし、それらを通して私たちは成長していくことも忘れてはならない。そこに主の招きと導き、そしてチャレンジがあることを深く覚えたい。
 父なる神の前に一人静まることを必要とされた主イエスは、弟子たちをもそこに招き、ガリラヤ湖の向こう岸へと向かった。しかし、それを見ていた群衆は先回りして待っていたのだ。そこには人々の霊的な渇きと痛み、病の現実があったのだ。その全てを主イエスは受け入れ、そして人々の必要に答えられた。その癒しの現場を弟子たちも見ていたであろう。しかし夕方になり、各自食事ができるようにと人々の解散を願うが、主は、「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」とチャレンジした。人々を解散させて休みたかった弟子もいたであろうし、男性だけで五千人、女性や子供を加えると一万人を優に超える状況で、彼らは手元にある少年の小さなお弁当ではどうすることもできないと呟いたのだ。しかし主はそれを主の手に持ってくるようにと招かれた。目の前にあるどんな大きな問題も、私たちが持てる最善のものを主に委ねるとき、主はそれを祝福し、人々への愛の必要のために豊かに用いて下さるのだ。主は私たちをも招かれている。自らをも主に委ね、それぞれを主に用いていただこう。

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20200301『バプテスマのヨハネの死』マタイの福音書14章1〜14節

「それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。群衆はそれを聞き、町々から歩いてイエスの後を追った」 (マタイ14:12,13)
新型コロナウィルスの影響が、世界に広がり影響が各地に出ている。罹患者や医療従事者たちの為に祈らされるとともに、改めて主の教会、そして主への礼拝の大切さを想わされる。どのように共に主に向かうのかスタイルは違っても、どう私たちが自らをささげ、主に従っていくのかが問われる。
バプテスマのヨハネは、主の前に正しいことを行い、それゆえに投獄された。罪を指摘されたヘロデ・アンティパスの焦りもそこに表されているであろう。そしてさらには、彼の安直な判断と提案、そして彼自身の面子を守るために、今度はバプテスマのヨハネの大切ないのちが取り去られることになる。幼いころから共に育ち、「見よ、罪を取り除く神の子羊」と主イエスを指し示したヨハネの悲しみを主は深く痛まれたことだろう。
私たちの主は、人々の悲しみに寄り添い、涙を流し、深い憐みと慰めを私達にも与えて下さるお方であることを感謝したい。そしてそのことを聞かれた主は、かつて彼の弟子であった者たちの事をも覚えて、彼らと共に湖の反対側へと向かわれる。その中心は父なる神の前に静まるためだったのだろうか。
私たちもまた、様々な状況の中で悲しみや痛みを深めることがある。しかし、主ご自身がその全てを理解し寄り添って下さるとともに、私たちをも静まりに招かれていることを覚えたい。

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