月別アーカイブ: 5月 2020

20200524『神による驚きの助け』列王記第二 7:1-15

「彼らは互いに言った。『われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。』」 (列王7:9)
困難な状況の中で、私たちの思考は停止し、否定的、悲観的な思いに支配されやすい。アラムの王ベン・ハダドがサマリヤを包囲する前から、大飢饉に襲われていた北王国イスラエルの王も民も深い失望の中にあった。主に見放された思いの中、食べるものに困った彼らには自、分の子を食べるほどの現実と痛みがあり、王も深い悲しみと痛みを表していた。
しかし、その苦境の中にあって神の人エリシャは、主による不思議な助けを大胆に語った。王が信頼する侍従を筆頭に、誰もそれを信じることができない中、ツアラアトに冒された4人は死を覚悟し、夕暮れになってからアラムの陣営へと向かったのだ。そしてそこで驚きの光景を目の当たりにした。それは神の業としか言いようのない驚きの状況であり、彼らはそれで密かに自分たちを満たしたのだ。しかし神を知る彼らは、自分たちの行為を反省し、その「良い知らせ」を伝えるべく、サマリヤの町に入ったのだ。それは彼らには許されていない行為だった。しかし彼らのメッセージは門衛から、王の家に伝えられ、王に届けられた。ところが、王はそれを信じることができない。すでにエリシャが語った事の実現を聞いても、それはアラムの罠だとしか理解できなかったのだ。家来の進言で偵察を送ると、4人が伝えたとおりの驚きの助けの事実を知ることができたのだ。信じなかった先の侍従は残念な死を迎える。私たちはどのように信仰に立てるだろうか。 神のことばに信頼を置く者の祝福を聖書は語っている。

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20200517『大胆に神に近づく』エペソ人への手紙3:1-13

「私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。」
(エペソ3:12)
キリストの「教会」を中心テーマとする、エペソ人への手紙を学び始める中、この苦難を伴う現代にあって「教会」がどうあるべきなのかが問われている。共に集まることが出来ない今、主のある交わりの重要さを逆に痛感する。そして、一人ひとりがどのような思いで、キリスト者としての自分を自覚し、それぞれが神に近づいていくのかが重要となる。
パウロは、自らをどう自覚していたのだろうか。今日の箇所には主に3つの表現がある。一つは「キリストの囚人」。文字通り囚人であったパウロだが、そこにはキリスト自身に捕えられ、神の恵みの務めを担っている自覚を持つ。第二には、キリストの奥義と福音を分かち合う使命を持ち、キリストにある共同の相続人として異邦人も共なる「教会」の一員であるとの自覚だ。そして第三には、その福音に仕える者として、すべての聖徒たちの中で、もっとも小さい者であるとの自覚(参考:コリント15:9、テモテ1:15)と、異邦人への使命の自覚を持っていた。その一つひとつに私達へのチャレンジがある。
そして、主からの使命を受け取り、謙りつつパウロは、大胆に神に近づくようにと私達を招く。そこに「教会」の特権がある。それは神の永遠の計画に基づくものであり、教会を通して神の知恵が現わされるためである。私達は恐れず、ためらわず、いつでも大胆に神に近づくことが出来る。主の教会に連なる者として、私達は憐みに生かされ続けることが出来る。

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20200510『母の愛と神の愛』サムエル記第一 1:1-20

エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。 (サムエル1:17,18)
母の日を迎えた。今年の母の日は痛みを伴う。諸手を挙げて喜ぶことが難しい状況が世界にある。しかしこの深い痛みを世界で共有するこの年にこそ、私たちはそれぞれの母が通ってきた悲しみを共有できるのではないだろうかとも思う。
子供が与えられることは、当たり前のことではない。時には命がけのことだ。孤独を味わうことがある。しかしそれらを越えて全ての母はいのちを産み出し、孤独と忍耐の中で祈りと共に私たちを育んで下さった事を忘れてはならない。
ハンナは主からの試練を受けていた。夫から愛されながらも子が与えられず、夫からの悲しみの理解もなかった。しかし彼女は主を知っていた。そして主の御前に祈り心を持って進み出た。心を注ぎ出す彼女の祈りは祭司さえ誤解するほど、真剣であり情熱的であったろう。母の愛を主は豊かに用いられる。その背後には主の愛があり、主の招きがある。乾きの中で、孤独と痛みの中で、ハンナは祈り手として、また育む者としての招きを覚えていく。そして彼女の献身へと主は導かれる。そしてこの後ささげるハンナの賛歌が、イエスの母として用いられるマリアの賛歌に繋がっていく。何という恵みか。 私たちは皆、主からの招きとチャレンジを受ける。今の悲しみの中に主の臨在があり、招きがある。

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20200503『神を敬い、親を敬う』マタイの福音書 15:1-11

イエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。」 (マタイ15:3,4)
人生の中には様々な「優先」が問われることがある。そしてその判断の背景には、その人の価値観がある。時には私たちが考える「義」が、人への「愛」よりも優先して、相手をさばいてしまうことがあり、「愛」とは違う「甘え」が、正しい「義」を押し出してしまうこともある。私達はどうだろうか。
キリストの時代、パリサイ人律法学者達は、自分達が定めた「義」で人々をさばいた。そして時には、神への「献身」とされることが、両親への「責任」を押し出したのだ。信仰のあり方が愛を押し出してしまうことと似ているだろうか。しかし主は、神の求める「愛」の重要さを語り、両親を心から敬う事の大切さを強調された。それは神への献身とされる事の背景に、親への義務を避け、そこから逃げる口実とされていたからだ。
私たちも今の現実の中で、「義」と「愛」のバランスが問われる。しかし具体的に人を愛することの背後に神を愛するあり方があり、神を愛するゆえに心から人を愛する者へと変えられていく。親への従順を通して、神への従順を学び、人への真実が神への献身へとも繋がっていく。私たちの信仰の奥行きはどのような広がりを持っているだろうか。 神と人の前に、愛と真実が問われる。心から神を敬い、そして親に代表される隣人を心から愛する者とされたい。

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