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20181202『西郷隆盛・愛と赦しの生涯』マタイ5:43−45

 「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
<マタイ5:44>
 上記の言葉が語られた後、イエスは苦難の道を歩み始められた、と聖書は語ります。そして、多くの人々の妬みの心が、イエスを十字架につけることになります。
「父(神)よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34) 十字架の上で最期の息を引き取る時、イエスはそう祈りました。それは呪いの祈りではなく、赦しの祈りであり、自分を傷つける人々が救われるようにと願う愛の祈りでした。 西郷隆盛が、漢訳聖書を手にし、それを熟読したのは1866
(慶応2)年頃からだと言われています。果たして、このようなイエスの言葉、イエスの祈りを知った時、西郷の心にどのような思いが湧き上がったのでしょうか。
 後に、西郷の死後まとめられ世に出た「南州翁遺訓」に収められた西郷の言葉を読むと、そこに、おそらく、イエスの言葉に衝撃を受け、心が熱く燃えたであろう彼の感動の軌跡を見ることができます。西郷隆盛という、近代史のなかに聳え立つ巨人の生き様に、再び、光が当てられようとしています。それは、政治家としての西郷の業績に注目するというより、その人間性、内面性の動きが、混迷する現代にあって、我々に、愛と赦しの大切さを教えてくれるからかも知れません。   「『西郷隆盛と聖書』 守部喜雅著 p156 おわりに」より

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20181125『カルメル山での大勝利』列王18:16-40

 「主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。」   (列王18:37,38)
 カルメル山でのエリヤの戦いは、バアルとアシェラの預言者850人との戦いであったが、その本質は神の戦いであった事を忘れてはならない。私たちは、どこかで数を心に留めやすい。少数であることを卑下することも、多数に安住することも同じ問題がある。
 エリヤは真実なる神に信頼した。そしてこの異教の預言者との戦いにイスラエルの人々を招いている。そこにこそこの戦いの目的があった。数に流され、王や王妃に振り回される人々に、エリヤはどこに立つのかと問いかける。それは私たちへの主の問いでもあろう。
 背後にあるアハブの問題も小さくない。異教の王妃を妻とすることにって容易に王自身が取り込まれていく。しかし主は飢饉という問題を通して、王たちや民たちにチャレンジをする。それは天候をつかさどるバアルとアシェラへの挑戦でもあり、火を下される神こそ真の神との試験は、主権者なる神の勝利への序曲となる。異教の預言者たちは、数や自分たちの熱心や犠牲に依存する。しかし全く答えはない。エリヤは人々の手により祭壇を再建する。そして貴重な水を溢れるばかり注ぐ。そしてエリヤの祈りに応え火を下された真の神の勝利、異教と王達と人々への勝利が明らかになる。私たちはどこに立っているのかが問われている。

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20181118『天にある希望と祝福』伝道者3:9-14

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」 (伝道者3:11)
 今年も、先に地上の生涯を終えられた人生の先輩方の写真を囲み、ご遺族の方々とご一緒に主を礼拝できることを心から感謝したい。地上での別れの淋しさはあっても、主にある永遠のいのちは、私たちに希望と慰めを与えることを聖書は語っている。また今日の礼拝は、天における主への礼拝と、地上における礼拝の合同礼拝であることにも心をとめたい。それは私たちが永遠を思う時だ。
 全てのことに「時」があることをこの伝道者は語っている。確かに私たちの理解を超えた神の視点があり、神の時があることを私たちは知る。そして、神のなさることはすべて時にかなっていることに、後から気が付き、慰めや力を受ける。この地上での別れにも時があったことを思わされる。神の主権を認める中で、私たちは、自分の思いや考えを超えた神の憐みと恵みのタイミングがあることを思わされるのだ。それは今を生きる私たちにも同様である。今どのような苦悩や痛みがあり、それを理解できず、見極められない限界に向かい合おうとも、そこにも不思議な神のご計画があり、恵みの時があることを知るとき、私たちはどのような中にあっても主にある平安を自分たちのものとして受け取ることができる。  そして私たちもまた、神が与えられた「永遠」を求め、渇きを認めて歩むことができる。主にある希望は永遠へと向かうからだ。
(召天者合同記念礼拝)

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20181111『真の勝利と愛』マタイ8:28-34

 「すると見よ、彼らが叫んだ。『神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。』」                 <マタイ8:29>
 ガリラヤ湖の嵐を静め、ご自身の愛と主権を表した後に、キリストが弟子たちとともに辿り着いたのは、ゲラサとも呼ばれるガダラ人たちが住む場所であり、ガリラヤ湖の南東であった。そこは切り立った断崖が湖に突き出ている場所で、異邦人が多く住むデカポリスの地域に含まれていた。そこに悪霊につかれた人が二人いたが、マルコやルカはその内の一人に注視している。彼らを人間の力で抑えることはできなかった。
彼らを何度も苦しめた悪霊は、キリストがどのようなお方かを知っており、裁きの時があることを自覚していたようだ。この悪しき霊はレギオンという名を名乗り、キリストの永遠の裁きを避け、豚に移ることを願い出た。そして2000頭の豚がその犠牲になった。キリストは豚2000頭よりも、この悪しき霊につかれた彼らを尊重し、解放されたのだが、豚を飼っていた人々からはその愛は理解されなかった。しかし、悪しき霊から解放され、本来の姿に戻った彼らの姿は、人々にとって驚きであったろう。キリストの力が明確に示されたのである。解放された彼らは、キリストに従うことを願い出たが、主はそれをお許しにならず、家に戻り、証しすることをチャレンジした。そしてこのデカポリス地方で主を証した。主は、恵みによって人を変え、愛を伝える器とされる。

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20181104『主の主権と子どものような信頼』マタイ8:23-27

 「イエスは言われた。『どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。』それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。人々は驚いて言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。』」 <マタイ8:26,27>
 私たちは、日々の生活で様々な出来事に遭遇する。その時に出来事の何に目を留め、心をとめるだろうか。
 ご自身の主権をもって、病の方々を癒された主イエスの愛の姿を目の当たりにしていた弟子たち。彼らはキリストとともに舟に乗り、漕ぎ出した。しかし、嵐によって湖は大荒れになり、彼らはこともあろうに、休んでいたキリストを起こし、怒りを露わにしたのである。彼らの多くはこのガリラヤ湖で働いていた漁師であった。嵐も当然経験してきたことだろう。しかし、想像を超えた嵐だったのだろうか。自分の身に危険が及ぶとき、それまで主とともに歩む中、経験した主の癒しの業や奇跡は、何の意味も力もなかったのだろうか。
 私たちもまた、自分自身の信仰が、どのようなものなのかを問われる時がある。冷静な時や、平和な時は、心から主に信頼し、主に従うことも公にし、告白していたとしても、自分の想像を超えるような危機、プライドが踏みつけられるような経験、主が共にいることを感じえないという不安…様々なものによって私たちの心には嵐が吹きすさぶのだ。しかし、主は弟子たちだけではなく、私たちをもそのような嵐へと招かれる。そして私たちの主への信頼を問うて下さる。それは愛と恵みのゆえである。そして私たちの信仰は育まれていく。

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20181028『この地に生きる恵み』ローマ13:1-7

 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。…善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。…すべての人に対して義務を果たしなさい。」                   <ローマ13:1,3,7>
この地上に生きる私たちの歩みは、それぞれに置かれている場所、また時代によって様々な違いがあります。しかしどの時代、どの国にもその国をつかさどる権威者がおり、その権威に従うことが求められます。ローマ書が記された時代も、神の民イスラエルは、大国ローマの支配下にありました。熱心党からも主イエスの十二弟子が選ばれたように、人々の内側には、ローマを打ち倒して、神の国イスラエルを再興してくれるメシヤを待ち望む思いがあったのです。しかし、実際の救い主キリスト(メシヤのギリシャ語)は、ローマを倒すことではなく、悪しき霊を滅ぼし、神の民を罪から贖うためにまっすぐ十字架に向かわれたのです。それは当時の権威者であるローマの手によって十字架刑という死刑を受けることでした。
 しかし、キリストは、その贖いによって真の神の国を建て上げる備えをなさったのです。どの時代、どの国にあっても、そこには権威があります。しかし私たちの主は、それを打ち倒すのではなく、愛をもって服従し、善を行い、全ての人に対する義務を果たすことができること、そのことを通して神の栄光が荒らされることを大胆に語ったのです。地上における真の権威に服従するとき、真の神の国の完成を目指し、忍耐と祈りと誠実さに生きることができるのです。

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20181021『神からのリマインダー:祝福の約束』創世記12:1-4

 神はアブラハムを召し出され、その子孫を世界のすべての民族へ祝福を運ぶ器とすると宣言されました。
これは、ハランで初めて語られた神の言葉のようにも読めますが、聖書の他の箇所を見ると、神がカランで初めてアブラハムに語られたことではなく、未だメソポタミアに居た時に既に語られていたことをカランでもう一度語られたことばであったのではないでしょうか。忘れっぽい私達にもしばしば、リマインダーが必要です。思い起こさせ、思い出させてくれるもの、もう一度やり直すように、もう一度取り組むように、もう少し進むようにと励ましてくれるみ言葉が私たちには必要なのです。神はアブラムを用いようとして、このリマインダーを出されたのです。
 さて、今、神は私たちにどんなリマインダーを送ってくださっているでしょうか。リマインダーを与えて下さる神の恵みと哀れみに対して、アブラハムもまた信仰をもって答えました。アブラハムがハランを出たときは、75歳。それでも主の言葉に従って出て行ったのです。アブラハムは神の民として歩むべき姿を身をもって示したのです。アブラハムは、その後 行く先々で主のための祭壇を築いて、祈りました。礼拝する民として生きたのです。礼拝する家族の長として、何処へ行っても、どんな立場になっても、主を第一にして歩む姿がありました。
 世界中のあらゆる人々と民族に神を礼拝する民となるか否かの選択が可能になるように、神のみ言葉を届け、福音を伝えるために、私たちは絶えず神からのリマインダーを受け取って従って行きたいものです。 (土井 彰師)

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