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20190721『追いやられた主』マルコ1:12-13

「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」
(マルコ 1:12)
命題: 試みや試練がある荒野のような人生の中で、
頼るべきお方は神の子主イエスキリストです。
序.  試みや試練を受けた時があるか。
本論
1. 試みや試練を受ける時、福音とは何か?1節
1.1. 福音とは主人が変わることである。
1.2. 今私たちは誰に従っているのか?
2. 福音が始まると現れる三つこと
2.1. 試みが神の主権の中にある。12節
2.2. 勝利されたイエス・キリストがおられる。13節
2.3. 助けと奇跡を体験するイエス様との交わりがある。
(ヘブル1:14; 2:18)
結論.
試練がある荒野のような人生の中で、今私たちは福音が始まっているのか。毎日主イエス様のみことばから、励ましを求めているのか?祈りの中で、イエス様との交わりを深めているのか。混乱の時こそ、勝利者イエスとの深い交わりを味わう良い機会である。荒野に追いやられたイエスは私の真の主である。

(メッセージ:金神学生)

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20190714『おいでになるはずの方』マタイ11:1-6

「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」     (マタイ11:5,6)
主の御心に従い、人々に悔い改めを語り、王をも恐れず裁きを語り、真実な悔い改めを求めたバプテスマのヨハネは、捕らえられマケルスの要害に入れられていた。彼自身、主キリストに会い、「罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と紹介していたのだが、主の噂を獄中で聴く中、真実を確認しようとしたのだろうか。
「おいでになるはずの方はあなたですか?」とのヨハネの問いには、彼の心の渇きも見て取れる。しかし主の答えは明快だった。イザヤ書に記されたメシヤ(救い主:キリスト)の預言の成就がイエス・キリストにあって明確に示されたことを主は明らかにされた。そして、それに加えて、バプテスマのヨハネ自身も主の道を備える人であり、女性より生まれた人の中で、最も優れた人であると言明されたのだ。聴く耳を持ち、見るべき目を持つとき、私たちは、主の真理の豊かさと確かさを知ることができる。
旧約聖書が預言し、ヨハネが道を備えたキリスト、主イエスが目の前にいる。しかし人々も弟子たちもその恵みをなかなか受け取れない。私たちはどうだろうか。目と耳を開いていただこう。

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20190707『神と人を愛し、受け入れる祝福』マタイ10:40-42

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。…まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」 (マタイ10:40,42) 私たちは時に、他者を受け入れることが難しい。表面的に受け入れられても、心から真に受け入れることは簡単ではない。
ここでキリストは、主の弟子を受け入れる者は、キリストご自身を受け入れることであり、キリストを受け入れることは、父なる神を受け入れることに繋がると明言されている。人を愛することの原点には、神を愛することがあり、神の愛を受け神を愛することから、人を愛する愛が与えられていくことに繋がっていくのだ。私たちの弱さや限界を主はすべてご存知だ。他者を愛せない自分、受け入れられない自分を私たちはなかなか認められないのだが、主はすべてを知りつつ、私たちを愛し、招き、導かれる。主の弟子たちも様々な困難を覚えていた。しかし主はその彼らを弟子として招き、愛の訓練を与え続けられる。主は決して見放さず、見捨てないお方であり、主に従うゆえに拒絶されることがあっても、恐れる必要がないと主は彼らを、そして私たちを励まされる。その励ましはなんと温かで力強いことだろうか。
さらに、主の弟子だという事で、たとえ一杯の冷たい水しか飲ませられないような現状があろうと、主はその愛に報いて下さると語られる。私たちのどんな小さな愛のわざも、主はすべてご存知であり、それを喜んでくださるのだ。他者を愛する者とされ続けたい。

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20190630『神の御心を求める』列王22:1-14

「ヨシャファテは、『ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか』と言った。」
    (列王22:7)
私たちは、人生の中で重要な選択を余儀なくされる。その時に「神の御心」がどこにあるのかを正しく知りたいと願う。
南ユダの王ヨシャファテは、北イスラエルの王アハブを訪ねる。それはアラムとの間に戦いがなかったからでもあろう。しかしアハブは、この時アラムとの境にあるラモテ・ギルアデの地をアラムから回復するための戦いをヨシャファテに提案する。善王とも言われるヨシャファテはまず主のことばを伺いたいと申し出てアハブはそれに応じる。アハブとて神の御心を求めていたのだ。しかしそれは400人の預言者集団の忖度をベースとしていた。アハブの願うことを神の御心として語っていた預言者だったのだ。彼らの余りにも一致した賛成のことばに、ヨシャファテは「御心」を求めることのできる預言者をとアハブに求めたのだ。
ここでアハブは預言者ミカヤの存在を明らかにする。アハブも分かっていたのだ。真に神の御心を求めることができる預言者の存在を。しかし自分の意見に逆らう預言者の言葉を退け続けたのだ。私たちも自分の願いにかなった答えが期待できる方に相談する誘惑がある。しかし、それは主の御心を求めることではない。ミカヤは一度アハブの心に沿う預言をあえてする。しかし、それは皮肉であった。その後のミカヤの預言は成就する。 私たちは、真に主の御心に従う心があるだろうか。

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20190623『喜びと平和に満たされて』ローマ15:7-13

「ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」        (ローマ15:7-9) 私たちの交わりには時に様々な葛藤が起こる。違いが強調される時も、同じ弱さを抱える時にも葛藤や摩擦が起こりやすい。
ユダヤ人と異邦人の間には大きな葛藤や摩擦があった。それは教会の中にも持ち込まれ、ローマ教会は多くの問題を抱えた。しかしパウロはどんな違いや葛藤があろうとも、キリストが私たちを受け入れてくださったように、互いを受け入れ合うようにとチャレンジをする。それは主イエスご自身が、ユダヤ人のしもべとなられた姿に倣うことであり、そこにも異邦人が神をあがめるようになるという目的があった。私たちが違いを越えて、共に神を賛美するようになり、互いに仕える者となり、キリストが自分たちに与えてくださった豊かな憐みと愛を思い起こすときに、私たちの思いは一つとされ続けていく。葛藤や摩擦の中にこそ、私たちが主の恵みと出会う大きなチャンスがあるからだ。
人間関係に課題を私たちは抱えている。そこには他者との問題以上に、自分と向き合う問題があり、神ご自身との関りを見つめ直す大きなテーマがあることを教えられたい。神は私たちが一人として、また交わりの中で、豊かな喜びと平安に満ちた歩みをするようにと願っておられる。主のもとに共に近づきたい。

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20190616『主イエス・キリストとの出会い』ルカ5:1〜11

序、私たちがイエス・キリストに出会うとは、その背後にどの
ような状況があるのか。ペテロの状況からともに学んでいこう。
                   
本論I、漁師たちへのチャレンジ(1?4節)
1) 落胆していた漁師たち(よくある出来事)
2) 民衆に語られたイエス
3) 漁師にチャレンジしたイエス
*神との相互主体的な関係である(神は私たちに働きかけておられるお方)

本論II、ペテロの応答(5?9節)
1) イエスの言葉に従ったてみたペテロ
2) 結果に驚いた弟子たち(思いもよらぬ出来事)
3) 自分の罪深さを知り、イエスを信じたペテロ
 *私自身は、どのようにしてイエス・キリストを信じたのか。
 *「人生は出会いで決まる」:マルティン・ブーバー(1878?1965年)=ユダヤ系宗教哲学者 

本論II、キリストについていく弟子たち(10?11節)
1) 自分の弱さを知った漁師たちに使命を与えるイエス
2) 自分の弱さよりもイエスの言葉に従った漁師たち
 *イエス・キリストは、信じた者の生涯の責任を取ってくださるお方

メッセージ:町田俊之師(バイブルアンドアートミニストリーズ代表)

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20190609『主の教会の誕生』使徒2:1-13

「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」            (使徒2:3,4)
主の教会は人の集まりゆえに、様々な問題を抱えます。しかし他の共同体と違って、主の教会は、主ご自身が一人ひとりを導き続け、変え続けて下さるゆえに、成長があるのです。教会に問題があることは問題ではありません。問題から学ばないこと、問題を通して主に向かわず、遜らないことが問題なのです。
今日は主の教会の誕生日とも言われるペンテコステです。旧約時代には「五旬節」として祝われた過ぎ越しの祭りから50日目、また7週目の祭りとも呼ばれました。それは収穫を恵みを覚える時であるとともに、モーセを通して与えられた律法を感謝する時でもありました。そして新約の時代には、霊的な収穫や、弟子たち一人一人に神のことばが与えられ、大胆にキリストを証しする者へと、あの弟子たちが変えられていったのです。それは聖霊なる神の働きでした。復活後40日間弟子たちとともに歩み、天に戻られたキリストは「もうひとりの助け主」を送ることを弟子たちに語っていました。それこそ聖霊のことでした。聖霊は弟子たち一人ひとりの上に臨み、内側から彼らを造り変え、彼らを証し人として用い、多くの人々がキリストの愛と救いに導かれたのです。

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