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20170910『勝海舟・最期の告白』ローマ1:16-17

「 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」(ローマ1:16,17)
  勝海舟が70歳の時、長男・小鹿を脳卒中で若くして失う。悲嘆にくれている勝に、日本に伝道旅行に来た伝道者ジョージ・ニーダム師が面会した。勝氏は一時間以上、ニーダム師が語る福音の真理に耳を傾けた。ニーダム師は終わりに、少し躊躇しながら、勝に、ひざまずいて祈りたいかどうかと尋ねると、勝は、即座に同意した。祈りの言葉は、日本人牧師により、一行ずつ日本語に訳された。祈りを終え、彼らが立ち上がると、勝は、涙に濡れた目をして立っていた。そして、ニーダム師の手を握り締め、『人生で一番すばらしい恵みの時でした』と、低い静かな声で感謝を表した(エドワード・クラーク著より)。

本日は、『勝海舟・最期の告白』の著者、守部喜雅氏による特別歓迎礼拝でした。

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20170903『暗闇に輝く光』マタイ4:12-17

 「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
     (マタイ4:16)
 イエスはバプテスマのヨハネからの受洗と、断食後の荒野での勝利の後、ユダヤとガリラヤを行き来したことが、弟子のヨハネによって記されている(ヨハ1:29‐3:36)。しかし宣教の開始の場所は、ガリラヤであった。そこには主のご計画があった。
 主イエスがバプテスマのヨハネの投獄を知ってガリラヤへ退去したのは、自分に類が及ぶのを避けるためではない。もしそうなら、ヨハネを牢に入れた領主ヘロデ・アンテパスの治めるガリラヤを避けただろう。むしろヨハネの逮捕に、立つべき時が来たことを確信し、ガリラヤに移ったと言えよう。ガリラヤは肥沃で人口が多く、交易も盛んで、新しいものに開かれた土地であった。山岳地帯のユダヤが閉鎖的であるのと対照的であったのだ。
 イエスは育ったナザレではなく、ガリラヤ湖畔の町カペナウムに移った。中心都市とは言えないカペナウムを拠点とした。そこには、イザ9:1‐2の成就がある。ゼブルンの地とナフタリの地であるカペナウム、異邦人が多く住み、ユダヤの人々から異邦人のガリラヤとさげすまれている地方、霊的暗黒にあった人々が、救い主イエス・キリストの活動によって偉大な光を見ることになる。霊的な暗黒、人間の心の闇を越えて、主はそこに光を輝かせることが出来る。そのために主は来られたからだ。  私達も闇を認め、悔い改め、主の光の中を生かされたい。

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20170827『神を待ち望む者』詩篇25:1-5

「あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」                   (詩篇25:5b) 私たちは、大切な決め事のある時に、自分の考えを中心にするか、それとも主なる神を待ち望むか、これは大事なチャレンジとなる。 「神を待ち望む」とは何か?
それには色々な面があるのだが、一言でいうと、神に対する継続的、絶対的信頼という意味がある。
どのようにして、「神を待ち望む」ことができるか?
全生活において、神とそのみこころを求めるように心を動かすのが必要である。特に祈りの時に、へりくだり開かれた心をもって神の御前に静まるのも必要である。 なぜ「神を待ち望む」ことはそんなに大切なのか?
神は、すべての物事をご存知だ。もし、神を待ち望まなければ、神の業を制限してしまう危険性がある。また、私たちは、すべてを神からいただいている。したがって、日々の必要のために、常に神を待ち望まなければならない。 個人としても、教会としても、「神を待ち望む」心を育てていこう。「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」(イザヤ30:18) (メッセージ/リーズナー宣教師)

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20170813『あらゆる誘惑の中で』マタイ4:1-11

 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
     (マタイ4:4)
 バプテスマのヨハネから洗礼を受けられたキリストは、御霊に導かれて荒野に行き、40日40夜の断食を経験されました。イスラエルの民が、40年間荒野をさまよったその歩みを彷彿とさせるような出来事です。神の民は、その荒れ野の中で受けた試みにことごとく敗北し、罪を重ねました。
 人となられ、渇きも苦しみも味わわれるキリストが、その過ちの歴史を拭うかのようにそこで勝利を収められるのです。神の御子だから当然とは言えません。誘惑の真の激しさは、その誘惑に負けなかったお方しか知らないのです。断食の厳しさを通り肉体的にも精神的にも朦朧とする中で、キリストはサタンの誘惑を受けられたのです。サタンは「自分の能力を示し」「人々からの注目を受け」「あらゆることを支配する」ようにと私達にも誘惑をします。それらの誘惑に勝利できるのは、神のみ言葉によることを明確に示されるだけではなく、主は、私達が通るあらゆる試み、悲しみ、苦難、痛みを理解し、寄り添い慰め励ましてくださるのです。御霊に導かれる歩みは時に荒野に向かいます。しかし、その中に主が共におられることを私達は知るのです。そこ方こそ、愛と真理と恵みに満ちた勝利の主キリストなのです。

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20170806『あなたはわたしの愛する子』マタイ 3:13-17

 
 「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」      (マタイ3:16,17)
 イエスのバプテスマ志願に対し、バプテスマのヨハネは躊躇した。イエスの前に立って自分の罪深さを覚え、自分こそバプテスマを受ける必要があると思ったのだろう。しかしイエスは、ヨハネからバプテスマを受けることが今は義、つまり神の御心にかなうことであるとされた。主の公生涯の初めにバプテスマを受け、罪人の立場に立つことは、神の御心にかなうことであり、最もふさわしいことだったと言えるだろう。
 水から上がったイエスは天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。少なくともバプテスマのヨハネはそれを目撃している(ヨハネ1)。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という天からの声は、イエスが神の子である事を人々に明らかにする宣言であるとともに、キリストを通して、私達もまた、愛する子として主の御前に立つ者とされる。その豊かな愛を私達は先取りして、受けることができるのだ。主の愛する者として生きることは、私達の生活にどのような変化や力を与えるだろうか。私達は苦難のしもべとして歩みだされた主の後を、主の愛と共に従って行きたい。どんな時も。

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20170820『圧倒的な勝利者に』ローマ8:31-39

 
 「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」                          (ローマ8:37)  このローマ書の1‐8章で述べられてきた福音の結びとして、主にある勝利が語られていることは、私達に力を与える。
ここには、神の愛の豊かさと確かさが詠われている。神の子供として選ばれた者たちがどれほどの祝福を受けるのか、みことばを通して確認できることも感謝だ。神の子どもとされた者には、神ご自身が味方であるゆえに、敵対し得るものは何もないことを心に刻みたい。その神の愛の深さは、ご自身の永遠の御子キリストをさえ惜しむことなく与えられたという事実によって確証されている。それがすでに過去の歴史的事実として示されたことから、私達は将来、また未来においてさえ、神は徹底して私達の味方でいて下さるという確信がなお深く与えられる。
 私達はキリスト者であるが故の様々な苦悩や痛み、闘いを経験する。しかし、歴史に現れる、あらゆる患難、迫害、権力、危険も、主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないという事実は私達に恵みの大きさを伝える。私達 キリスト者は、私たちを愛してくださった方によって、どのような中にあっても、圧倒的な勝利者となるという確信の中に生きることが出来るのだ。
しかし、私達は、この主の勝利に生かされることが何と少ないことだろうか。主の復活の勝利、臨在の勝利と恵みに心をとめて、今を生かされ、また未来を先取りして、その勝利と祝福にあずかり続ける者とされていきたい。

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20170730『主の神殿の隣に』列王記7:1〜8

 「神殿のすべての部分が、その明細どおりに完成した。これを建てるのに七年かかった。ソロモンは自分の宮殿を建て、十三年かかって宮殿全部を完成した。」     (列王6:38-7:1)
 ソロモンは神殿を7年かけて建て上げ、その隣に自分の宮殿を13年もかけて完成した。6章までに神殿の建設のことが語られ、また7章の13節以降から、神殿の具体的な内容が語られている。神殿の記述の中に突然宮殿の話が挿入されている。
 神殿と王宮の建設な一つのこととして語られていることは注目に値する。神殿のすぐ南側に隣接するように建てられた宮殿の存在は、イスラエルにおける王の支配は、神の貯めの、神による支配でなければならないことの確認であり、表現であったろう。王の都は神の都でなければならなかった。神を中心にした国であり、神にあってこその王であり、民であることがイスラエルを支える原点となっていくのである。それがダビデ、ソロモンによる大きな改革のひとつであったと言えよう。
 ダビデ、ソロモンによる王国の拡大は、神の民に新しいあり方を求め、新しい役割を担うことを求めた。異邦人との関わりにあっても、神への従順と信頼に基づく王国の在り方が揺るがされてはならなかった。それが崩れたときに王国が分裂し、双方が滅ぼされていったことを忘れてはならない。
 神殿の入り口の日本の柱は、「ヤキン(彼は立てる)」、「ボアズ(力をもって)」と呼ばれた。神が王を立て保たれること、神の力を持って王が喜ぶことが示された。私達の心の王座には何があるだろうか。神はあなたをも立て用いてくださる。主の傍に生きよう

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