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20181021『神からのリマインダー:祝福の約束』創世記12:1-4

 神はアブラハムを召し出され、その子孫を世界のすべての民族へ祝福を運ぶ器とすると宣言されました。
これは、ハランで初めて語られた神の言葉のようにも読めますが、聖書の他の箇所を見ると、神がカランで初めてアブラハムに語られたことではなく、未だメソポタミアに居た時に既に語られていたことをカランでもう一度語られたことばであったのではないでしょうか。忘れっぽい私達にもしばしば、リマインダーが必要です。思い起こさせ、思い出させてくれるもの、もう一度やり直すように、もう一度取り組むように、もう少し進むようにと励ましてくれるみ言葉が私たちには必要なのです。神はアブラムを用いようとして、このリマインダーを出されたのです。
 さて、今、神は私たちにどんなリマインダーを送ってくださっているでしょうか。リマインダーを与えて下さる神の恵みと哀れみに対して、アブラハムもまた信仰をもって答えました。アブラハムがハランを出たときは、75歳。それでも主の言葉に従って出て行ったのです。アブラハムは神の民として歩むべき姿を身をもって示したのです。アブラハムは、その後 行く先々で主のための祭壇を築いて、祈りました。礼拝する民として生きたのです。礼拝する家族の長として、何処へ行っても、どんな立場になっても、主を第一にして歩む姿がありました。
 世界中のあらゆる人々と民族に神を礼拝する民となるか否かの選択が可能になるように、神のみ言葉を届け、福音を伝えるために、私たちは絶えず神からのリマインダーを受け取って従って行きたいものです。 (土井 彰師)

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20181014『主に従う恵みと祝福』マタイ8:18-22

「イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。』また、別の一人の弟子がイエスに言った。『主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。』ところが、イエスは彼に言われた。『わたしに従って来なさい。』」                   (マタイ8:20-22)
 時に私たちは、主イエスの人々への対応が冷たく感じ、驚くことがある。主イエスについて行きたいと語る律法学者に、主は本当に覚悟があるのかと問われた。真理を知り、その通りに歩みたいと願う私たちも、自分たちの現実の生活に不利益な影響が出てくることが分かると私たちは、とたんに従ったことを後悔したり、引き返したりしたいと願ってしまう。不信仰のゆえに荒野をさまようようになったイスラエルの民と同様の心に私たちもなりやすい。寝食を奪われ、安全をはぎ取られるようななかでも、真理でありいのちであるキリストに従うことは、決して容易なことではない。さらに別の弟子のひとりが、父を葬ることを許してほしいと願ったとき、主は、それよりも自分に従うように彼を招かれた。父がいのちを落としたときでさえ、そんな厳しく冷たい対応をするのかと私たちは誤解してしまうが、彼の父が亡くなったという状況なのかどうか実は分からない。安定したあり方、慣れた環境を捨てられない弱さが私たちにもある。主は全てをご存知で招かれる。 

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20180930『粉も油もいのちも…』列王17:8-24

「主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。『ご覧なさい。あなたの息子は生きています。』」 <列王17:22,23>
 私たちの人生には、様々な痛みが伴う。それは天災によるものもある。エリヤが置かれている状況は、北イスラエルにあって、神に背く王アハブとの対峙にあった。天候をつかさどると言われるバアルへの対抗として、雨が留められる。そして、エリヤはバアルやアシェラの預言者たちと闘うことになる。主は困難な状況をも用いられる。全てのことの中に主を認める信仰を与えられたい。エリヤはこの旱魃の中で、食べるものにも窮する。しかし、主は不思議にもカラスを用いて、彼を養われる。普段ならば奪う存在が与える存在となる。主の不思議さの恵みを思う。さらに、エリヤを一人の女性が助け養う。その彼女の持つ器が粉や油で満たされることを通して主はエリヤを助けられた。私たちが所有する小さなものがそのまま用いられることに、感謝するとともに、私たちは普段の歩みをどう備えることができるだろうか。
 そしてその女性の子供の死という試練が重なる。痛みが重なる中にあっても、エリヤは主ご自身を信頼し続ける。そして主はエリヤの祈りと信仰に応えてその子にもう一度いのちを与えられた。主はご自身の主権を明確に示される。そして圧倒的な勝利をこのあとエリヤを通して示される。どんな時にも主に信頼したい。

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20180923『愛と真実に生きる』ローマ12:9-21

「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」<ローマ12:17,18>
 先週米国で、リーズナー宣教師ご夫妻と恵みの交わりを与えられた。私たち日本人への宣教のために、どれほど多くの犠牲が払われ、愛の祈りがささげられているか、また先生方が良き交わりを築きあげ、誠実に歩み続けてこられたかを垣間見ることができ、本当に感謝だった。キリスト者の交わりの原点に、キリストの平和と、キリストと、またキリストにある愛の交わりがある。
 パウロは、ローマの教会に信仰者として歩む重要な姿勢としての献身とこの世の流れではなく、神の御心にかなう歩みをするチャレンジをした後、具体的に信仰者としての歩みを語っていく。その歩みは、他者とどのように共に歩んでいくかという事であり、愛と真実を持って生きるようにとの促しである。それは、私たちキリスト者の歩みが、地に着いたものであり、地の塩、世の光として人々に、どのように主の真実を届けているかと言うことだと言えよう。隣人を愛さずに、主を愛することができず、他者を赦し、受け入れずに、主からの赦しを受けることができないと主イエスが語られたように、私たちの歩みは、今の現実を、明日からの社会や学舎、また家庭での歩みがどのように整えられ続けていくのかということにある。35周年を迎えるキリストの教会に集う私たち。私たちは、どのような成熟が与えられているだろうか。主の前に静まり、歩みをふり返ると共に、主ご自身に聴く心従う心を与えられたい。真のリトリートは主の前に出ることから

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20180916『パウロの成熟』IIテモテ4:6-8

『パウロの成熟』 
序、1)敬老の日を前にして、パウロの晩年の姿を見ていきたい
  2)パウロとは誰であるか(ピリ3:3?6)

本論 I 、ダマスコ途上での出来事
 1)ステパノの殉教の目撃   ●絵画?1(レンブラント)
   ?使徒7:54?60
 2)ダマスコ途上で       ●絵画?2(カラヴァッジョ)
   ?使徒9:1?9,26:12?18

本論 II 、晩年を迎えたパウロ
 1)キリストを追求するパウロ
   ?ピリピ4:11?13
 2)苦難を通して成長するパウロ
   ?IIコリント11:24、ローマ5:2?5 「罪人の頭」
 3)天に迎えられようとしているパウロ
  ●絵画?3(レンブラント)
   ?IIテモテ4:6?8
本論III 、老年を迎えて歩む希望
 1)あらゆる環境の中に生きる希望
   ?ピリピ4:11?13
 2)日々新たにされる希望
   ?IIコリント4:16
 3)主とともに歩む希望 
  ?イザヤ46:3?4       ●絵画?4(レンブラント)
* 老年を迎えることは主の恵みである
  (老年の恵みを備えておられる主)

メッセージ:町田俊之師

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20180909『年老いてもなお実を』詩篇92:8-15

 
「彼らは主の家に植えられ私たちの神の大庭で花を咲かせます。彼らは年老いてもなお実を実らせ青々と生い茂ります。」
                           <詩篇92:13,14>
 敬老の感謝の礼拝をともにささげられることを感謝したい。年を重ねることは、だれにも与えられることではない。長く生きたくても、そうできなかった方々は少なくないからだ。また長く生きることにも葛藤があることも事実だ。しかし、主が私たちにいのちを与え、委ねて下さり、私たちを生かしてくださっている事実に目を留めるとき、私たちの人生の中心が変えられてくる。
 この詩篇の作者は、神の前に正しく歩むことの素晴らしさ、その恵みを歌い上げている。人や自分からの評価以上に、重要なのは、神の目から見た私たち。誰も見ていなくても喜んで行えること、喜んで止めることができること…ひとつひとつを真実に行う力を神が私たちに与えて下さる。その歩みは、実を実らせる歩みともいえる。聖書には、多くの実を結んだ人々の歩みが記されている。しかし、その一人ひとりにも様々な失敗があり、挫折があった。その所からなお神様に向かい、悔い改め、真実な歩みを取り戻していったのが、年を重ねた信仰者であり、年老いてもなお実を結ぶ者、青々と生い茂る者として、その歩みが聖書に記されている。私たちの人生はどうだろうか。神の前に砕かれ、整えられるものでありたい。神は私たちを愛し、恵みと祝福を用意して待っていて下さる。神の大庭に進み行こう。

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20180902『百人隊長の信仰』マタイ8:1-13

「しかし、百人隊長は答えた。『主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。』」  <マタイ8:8>
 神の御子キリストの愛の姿は、様々な病や弱さ、葛藤を抱える方々に寄り添う姿に現されている。当時の社会でツァラアトに冒された人々は、汚れた者として、人々から切り離された生活を余儀なくされ、彼らに触れる人はいなかった。しかし、主イエス・キリストは、ツァラアトに苦しみ、主の前にひれふす人に、愛を持って接し、触れられ、癒された。苦しみの中にあったこの人にとって、それは病の癒し以上の人としての回復があったのではないだろうか。主が癒しのみが伝わることを避けられたことも彼への愛と真実の現れであったろう。
 ローマ兵である百人隊長は、自分のしもべが中風で苦しんでいることに心を痛め、主イエスのもとに彼を癒して下さるようにと申し出た。自分の部下の為にへりくだる彼の愛の姿に私たちは倣いたい。しかも彼の信仰は見事なものだった。主ご自身が向かうことを申し出たのに対し、この百人隊長は、主イエスのことばだけで充分であるとし、主の真の権威に深い信頼を置いていたからだ。異邦人の中にこのような信仰を見ることができることは、ユダヤ人たちへのチャレンジであるとともに、招きでもあったであろう。それは私たちにも開かれている招きでもある。私たちはどのように主に信頼し、主の権威に従おうとしているだろうか。

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