カテゴリー別アーカイブ: Uncategorized

20170716『悔い改めの実』マタイ3:1-12 

  「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。                         (マタイ3:2,3)
 旧約聖書のマラキ書が記されてから、バプテスマのヨハネが登場するまで約400年の月日が流れた。中間時代と呼ばれるこの期間は激動の期間でもあった。ペルシャが滅び、地中海諸国はギリシヤに征服されアレクサンダーによりヘレニズム文化が席巻。紀元前200年頃にはローマ帝国が地中海周辺国を制覇。ユダヤはローマ帝国の属州となり、紀元26年にはピラトがユダヤの総督となり支配が長期間にわたり続き、ユダヤの民は長い間、抑圧された。その結果、彼らは切に救い主メシヤを待ち望み続けていた。しかし、それはローマを倒しイスラエルを再興する待望でもあった。その混乱の中、イスラエルは霊的には枯渇し、神殿礼拝も商売の場と化すような状況だった。そこに預言者エリヤを彷彿とするバプテスマのヨハネが登場する。彼の説く悔い改めのメッセージは、人々の心を捉えた。多くの人が罪を認め、悔い改めのバプテスマの受けたのだ。それは真の救い主を待ち望み、その道を用意する非常に重要な備えだった。しかし当局者達は悔い改めを拒絶し傲慢さを露呈する。
 真の悔い改めは、どの時代でも全ての人に必要だ。神の前に心を整えられる時にこそ、私達は豊かな実を結ぶ者とされるからだ。心砕かれ、悔い改めの実を豊かに結び、主の祝福と恵みを豊かに受け続けたい。主は、あなたを祝福しようと待っておられる。 

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170709『悲しみの中の慰め』マタイ2:14-23

 「夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『この方はナザレ人と呼ばれる。』と言われた事が成就するためであった。」                     (マタイ2:22,23)
 エルサレムをおそらく80名ぐらいの集団で訪れた東方の博士たちの訪問、そして「ユダヤ人の王の誕生」との情報は、イドマヤ人であったヘロデ王の基盤を揺るがした。博士たちにその幼子のことを詳しく知らせてほしいと頼んでいたヘロデ王だが、神から夢を通して警告を受けた博士たちは別の国から戻った。それがわかったヘロデ王は、ベツレヘム近郊で生まれた2歳以下の男の子を全部殺害させたのだ。何という暴挙だろうか。
 当時の人口のデータによると20〜30名であったろうと推測されても、やはり幼子を殺害された親や家族の悲しみは深い。救い主の誕生によってこのような悲しみが起こることをなぜ神はとどめなかったのかと思う。しかし人間の罪の深さに嘆き悲しまれるのは、主ご自身ではないだろうか。エレミヤ書の預言から北イスラエル(エフライム:ラケルの子孫)の滅亡の悲しみの深さを思う。しかし、この預言は後のバビロン捕囚からの回復へと続いていることを忘れてはならない。悲しみの中にすでに慰めと希望が備えられている。救い主が人々から見下げられていたナザレで育つことも、人々の悲しみの中に慰めがもたらされる希望を表わしていよう。主は私達の悲しみを共に味わわれる。そして臨在によって真の慰めと平安、そして希望を私達に豊かに注いでくださる。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170702『イスラエルの王の礼拝』マタイ2:1-15

 「見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」     (マタイ2:1,2)  時季はずれの降誕の箇所だが、福音書の中に、明確に救い主の誕生の歴史的事実が描かれていることは感謝だ。
 東方の博士達がどこの国から来たのかは、明確ではない。しかし多くの学者は、かつてイスラエルが捕囚となった地域とそう離れてはいないだろうと考えている。あるいはソロモンを訪ねたシェバの女王の支配した地域を考える学者もいる。いずれにせよ、聖書が語る神の御名が崇められ、主が証されていた事実がこの東方の博士達の礼拝に繋がって行くであろう。主は歴史の中に介入され、神の民の悲しみの歴史でさえ、めぐみに返ることが出来るお方なのだ。ダニエル達が残した影響の大きさに思いをはせるとき、私達もまた、どう生きるかが問われる。
 それ以上にこの博士達が払った犠牲の大きさを思う。イスラエルの王の誕生を占星学を通して知った彼らは、あらゆる犠牲をいとわずに、エルサレムを目指したのだ。そして王のいるべき場所に着いた。ヘロデの弱さと罪故、悲しみを産むことになるが、真の慰めを与える為に主イエスは来られたのだ。私達はこの慰めを届ける為、また主を心から礼拝する為どう生きるのだろうか

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170625『うめきが望みに』ローマ8:18-25

 「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」 (ローマ8:22,23)
 私達は、様々な悩みを人生に抱える。そこからの救いや助けを願い、解放を求めてうめく。しかし、時にそれは個人的な世界や理解にとどまってしまうことがある。世界全体の悩みやうめき、被造物全体のうめきにまで私達の理解は広げられているだろうか。私達の福音理解が問われている事を心に留めたい。
 ローマ書が書かれた時代の「今の時のいろいろな苦しみ」は、私達の時代の苦難にもつながる共通点がある。一方彼らが通った苦難や迫害は私達の痛みを超える面が多々あった。しかし、彼らはそれらの中にあって、神の子どもとして与えられることが約束されている「栄光の希望」に彼らは心に留め、待ち望む喜びに心を向けた。どのようなうめきや苦難があろうとも、真の希望から目を離さなかったのだ。私達もまた、苦難だけではなく、勝利の主にある希望にしっかりと目を留めたい。私達は、目に見えない「真の希望」を与えられているからだ。
 被造物もまた、人間の罪ゆえのうめきを通っている。しかしそのうめきもまた解放や希望へと向かっている。新しい天と新しい地の創造を目指して、被造物全体もうめいているのだ。うめきや苦難こそ、私達を本物へと導いていくことも覚えたい。今通る痛みや悲しみを通し、私達へ永遠の希望、栄光の勝利へと確実に向かい、主にある恵みを受け取り続けるからだ。主が共に!

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170618『父の愛に生かされて』コロサイ3:17〜23

 「主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。『」          (マタイ1:20) 神様は私たちの人生に、様々なチャレンジを与えて下さる。時に負いかねるように思えるときも、神は不思議な脱出の道を備えて下さるのである。(コリント10:13)
 イエスの父親として用いられることになるヨセフは、婚約者のマリヤが妊娠したことを知らされた。ユダヤ人の婚因法では婚約中の2人はすでに夫婦であるから、妻マリヤの妊娠は死に値するものと誤解されかねなかった。ヨセフはマリヤに尋ねることをしなかったのであろうか。マタイの記事は、マリヤの沈黙を示唆しているように思える。完全に主に委ねるマリヤの姿勢を見ることができるのだろうか。
誠実なヨセフは内密にマリヤを去らせることを決断する。それが最善の方法であると思ったからであろう。しかし、主は御使いを通して、その全てが神の御旨によることであり、恐れずにマリヤを迎えるようにとヨセフを教えたのである。しかし実際にマリヤもヨセフも誤解を受けることがあったかと思う。しかしそれをも恐れないようにと主は二人を導かれたのだ。
私たちの人生にも主が働き、今の苦難を信仰を持って受け取るように、受け入れていくようにと促して下さる。それは「主は救い」と訳される「イエス」の誕生こそ、「神が私たちとともにおられる」というインマヌエル預言の成就だったからである。主はどのようなときにも私たちと共にいて、私たちに力を与え、招き導かれる。私たちは主とともに力強く歩んでいくことができる。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170611『苦難の中での神の臨在』マタイ1:18-25

 「主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。『」          (マタイ1:20) 神様は私たちの人生に、様々なチャレンジを与えて下さる。時に負いかねるように思えるときも、神は不思議な脱出の道を備えて下さるのである。(コリント10:13)
 イエスの父親として用いられることになるヨセフは、婚約者のマリヤが妊娠したことを知らされた。ユダヤ人の婚因法では婚約中の2人はすでに夫婦であるから、妻マリヤの妊娠は死に値するものと誤解されかねなかった。ヨセフはマリヤに尋ねることをしなかったのであろうか。マタイの記事は、マリヤの沈黙を示唆しているように思える。完全に主に委ねるマリヤの姿勢を見ることができるのだろうか。
誠実なヨセフは内密にマリヤを去らせることを決断する。それが最善の方法であると思ったからであろう。しかし、主は御使いを通して、その全てが神の御旨によることであり、恐れずにマリヤを迎えるようにとヨセフを教えたのである。しかし実際にマリヤもヨセフも誤解を受けることがあったかと思う。しかしそれをも恐れないようにと主は二人を導かれたのだ。
私たちの人生にも主が働き、今の苦難を信仰を持って受け取るように、受け入れていくようにと促して下さる。それは「主は救い」と訳される「イエス」の誕生こそ、「神が私たちとともにおられる」というインマヌエル預言の成就だったからである。主はどのようなときにも私たちと共にいて、私たちに力を与え、招き導かれる。私たちは主とともに力強く歩んでいくことができる。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170604『遊女のラハブ』ヨシュア記 2:1-13

 ヨシュア記2章から−6章までは、ヨシュアがカナンのエリコ市の征服の話です。ヨシュア記2章1節に「ヨシュアは二人の者を斥候として遣わした。」と書いてあります。それはヨシュアがエリコを征服するために軍事戦略を立てたかったからです。しかし、エリコに行った二人のスパイの目的は、ヨシュアの思った理由と全然違います。彼らは、「ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。」と聖書が教えます。神様が遊女のラハブの命を救うために彼らを送ったのです。
へブル11:31はラハブの信仰についての話です。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人達と一緒に ほろびる こと を まぬがれました。」信仰があったにもかかわらず、女傑のラハブではなく、「遊女ラハブ」として覚えられています。なぜ、聖書はこの恥ずかしいことを繰り返したのでしょうか。そしてなぜ、神様はラハブを選んだか。それは、神様は罪深い、自暴自棄な、心の痛んでいる人を愛し、神様自身の目的のために用いることを愛しているからです。聖書の神様には、遊女のラハブの罪と過去の生活を隠す必要がまったくありません。私たちも遊女ラハブと同じように、過去の生活を悔やんでいる必要もないのです。ほかの人が自分の短所、恐れ、罪、過去を見て、どう思っているかを考える必要はありません。日本は、恥を主材料とした社会ですから、恥ずかしく思わないように、多くの日本人は問題や罪や過去の生活を隠してしまいます。
イエスは処女に生まれ、人間と一緒に住み、ダビデの血筋の先祖のラハブの子孫です。イエスは私たちの心の扉を開き、癒しの力を私たちに見せたいのです。罪をほかの人から、また、神様から隠すことはありません。それはイエスがその罰を十字架で、すでに受けたからです。私たちは新しい創造物なのです。そして神様にあってよい行いをするためにつくられたのです。過去生活を隠さなくていいです。それはイエスの特別な目的のために選択されることは恥のないことだからです。
エペソ人の手紙2:8−10「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たこと ではなく、神からの賜物です。行いによるではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは(遊女のラハブのように)神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちがよい行いに歩むように、そのよい行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」  メッセージ:ロブ・フレミング宣教師

1件のコメント

カテゴリー: Uncategorized