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20180805『狭い門から入る』マタイ7:13-23

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」                  (マタイ7:13,14)
 主の弟子として、整えられる歩みは、決して容易ではない。しかし、主の憐れみは、私たちの愚かさを越えて豊かに届く。弟子の歩みの重要さの一つは、狭い門からはいることである。滅びに至る門は大きいので入りやすく、歩みやすい。従って滅びに至る門から入って行く者が多いが、いのちに至る門を見いだす者はまれである。表面的な豊かさに惑わされず狭い門を通る決断をし、狭い道を歩き続けることを選ばなければならない。
 本物を見極める重要さは、どんな人にも言える。見たところ無害な羊のようでも、現実には貪欲な狼、自分の利益のために群れを食い物にする教師がいる。彼らを見分けるには実を見る。良い木は良い実を、悪い木は悪い実を結び、例外はない。実といっても、外見上の華々しさではない。主よ、主よという告白や力あるわざでさえ、イエスとの結び付きを保証しない。
重要なのは神のみこころを行なう者であるかどうかである。主の御心の中心は罪の悔い改めという狭い門に人を導くことだ。真に主の弟子となる者は自己中心的な生き方から解放され、主の前に砕かれ、整えられ続け、実を結び、御心を行う者に変えられていくのである。私たちもまた、狭い門に向かい歩み続けたい。

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20180729『主の目にかなう歩み』I列王記15:1-15

「しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。…アサは父祖ダビデのように、主の目にかなうことを行った。彼は神殿男娼を国から追放し、先祖たちが造った偶像をことごとく取り除いた。」   (列王15:4,11,12)  憐れみ豊かな主は、ダビデに免じ、アビヤムの罪にもかかわらず、王家を断絶させることなく、1つのともしびとして、後継者を与え、神の民、イスラエルを守られる。
 南王国3代目のアサはアビヤムと王母の罪の歩みとは違い、主の目にかなうことを行った。実の母の罪をも徹底的に糾弾し、罪故に消えそうな王家にあっても、アサ王はまさしく「主のともしび」であるべく、罪に対して敏感に反応し、改革を行っていった。無論、アサが全く罪を犯さなかったというのではない。
アサはアラム王ベン・ハダデに金銀を贈り、バシャとの同盟関係を破棄させ、バシャの動きを封印した。アサは残された建築材で南王国の北境に要害を築いた。それらも神の民を守ろうとの策であったが、アラム王に金銀で援助を要請したことは、後に非難を受け、また主ご自身と王との緊張関係を生むことになっていく。どんな人間も完全ではない。しかし主は憐れみによって、神に従おうとする一人の人をも、用いられ、ご自身の計画を行われる。私達も主の目にかなう歩みを進めていきたい。

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20180722『神の賜物と召命』ローマ11:25-36

「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」                        (ローマ11:33)
 神の奥義として、イスラエルの救いについての神のご計画が示される。イスラエル人のかたくなさの中にあっても「残された者」の存在があった。また彼らのかたくなさも、異邦人の完成のなる時までであり、異邦人の中から選ばれた者が皆召されて神の民とされる時、イスラエルのかたくなさも終りを告げ、イスラエルはみな救われると言われる。
 救う者がシオンから出てとは、天上のシオンからキリストが再臨されることを語っている。このキリストによってのみ、すべての民の罪は除かれ、神の「新しい契約」の実現がもたらされる。
 「福音」について言えば、ユダヤ人は不信仰をもって神に敵対している者であるが、それは、異邦人に救いの祝福がもたらされるためである。彼らは先祖たちの信仰のゆえに、神に愛されている者なのである。神は、イスラエルに与えられた賜物と召命を取り消されることはない。そして、その恵みは、異邦人である私たちにも及ぶ。神の憐みの計画はなんと素晴らしいことであろうか。異邦人が、かつて神に不従順であったが、今はあわれみを受けているのと同じように、神の民も今は不従順であるが、神の深いあわれみによって、イスラエルも愛と恵みを受ける。神はすべての人をあわれまれるからだ。そのことを通し、すべての選ばれた人々が、神の主権的選びの栄光と、人の不従順に対する神のあわれみの勝利を見ることができるのだ。  主の憐みと恵み、愛のご計画を受け止めて、今日も歩みたい

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20180715『決して見捨てない愛』イザヤ書49:15

 イザヤ書には、父なる神の愛が、激しい情愛の形で啓示されています。当時、イスラエルは北王国が滅ぼされ、南王国も危険な状況でした。人々は、神は我らを見捨てたと思いました。そのような中で、神は決してあなた方を捨てないと何度も叫んでいるのです。いくつかの例えで描かれています。
 ・妻を捨てない情愛としてイザヤ54:6「若い時の妻をどうして見捨てられようか。」 ・乳飲み子をいとおしむお母さんの情愛で、イザヤ49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れてもこのわたしはあなたを忘れない。手のひらにあなたを刻んだ。」 
 忘れないようにいつも見えるてのひらに、消えないように刻んだというのです。その愛は人間とは違う永遠に変わらない愛であると説明されています。イザヤ54:8「永遠に変わらぬ愛…」
 乳飲み子を捨てる母親はいません。しかし、現在、日本には子供の虐待があり、見捨てる親もいます。たとい、母親が乳飲み子を捨てるようなことがあったのとしても、わたしは決してあなたを捨てないと主は言われています。たとい、あなたが親から捨てられようが、人々から忘れられようが、大事な人から裏切られることがあっても主はあなたを大事な存在で、決して見捨てないと言っておられます。新約聖書に移ると、私たちは世界の基の置かれる前から選ばれていた大切な存在であると説明されています。そして、神の子とするご計画に入れられていたというのです。現代人には見捨てられ感があると言われています。この神の愛の中に憩うことができるのです。 (メッセージ:水野健牧師)

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20180708『神と人への誠実』マタイ7:1-12

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」                              (マタイ7:7〜8)
 「他の人をさばくな」という命令は、批評や善悪の判断をするなということではない。自己を正当化するあら捜しや、優越感を伴った批判を主は禁じられる。自分の多くの欠けに目を閉じながら、他人のそれはよく見え、善意を装い「忠告」するのは偽善者であり、高慢だ。まず自分の問題に対峙する必要がある。
 人をさばかず、他方で健全な識別力をもつためには、それを神に求め続け、捜し続け、たたき続けなければならない。しかし大切なのは求めの熱心さではなく、求めに応える父なる神の真実さである。人間の父親でも子供の求めに誠実に対応する。父なる神は祈り求める者に良いものを与えないはずはないのだ。
 「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」との黄金律は他の宗教にも見出されるが、たいていは「他の人からされたくないことは自分もするな」という消極的な形である。イエスは積極的に表現し、天の父から良いものを受ける者として、自分も他の人に良いものを与えるよう命じているる。私たちも神と人との前に誠実に愛を現わしたい。

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20180701『神の国とその義を』マタイ6:25-34

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」      (マタイ6:33,34)
 私たちは様々な事で思い煩う。しかし、その思い煩いがどこに起因しているのかを祈り求めていく必要がある。キリスト者が神と富との両者に仕えようとするなら、結局は富に支配されることになる。そして、富に支配された心は思い煩いに支配されやすい。物質的な必要を満たすことがすべてであるかのように生きてはならないの。思い煩いから解放される道がある。
 命や体を与えて下さっている神は、すべての必要をご存じで、備えて下さる。また、空の鳥も、野のゆりも主の知恵に満ちた装いが与えられており、より重要な私達の世話を神はなさる。さらに、私たちの命そのものが神の手の内にあり、思い煩う必要はないからだ。最後に、思い煩いは神への信仰・信頼の問題となる。神を知らない異邦人なら、思い煩うのも不思議である。問題や困難を見るのではなく、神に向かうことが重要である。
 神の国と神の義、すばわち神の御心にかなっていることこそ重要であり、それを求めていく責任がある。神と正しい関係にあるなら、本当に必要なものは備えられていく。主の平安を得続けよう。

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20180624『神の慈しみとご計画』ローマ11:11-24 

「あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」                     (ローマ11:18)
 神は、神の民イスラエルの違反によって、救いが異邦人に及ぶという驚くべき恵みを私たちに与えられた。それは、イスラエルが意図したことではなく、神が意図されたことであって、人の愚かさに妨げられずに、神のわざとご計画が実現されていくことをも示しているであろう。そして、それはイスラエルにねたみを起こさせるためであり、神の招きでもあった(10:19)。
 パウロは、自分がユダヤ人でありながら異邦人の使徒として召され、主のしもべとして用いられている恵みを語りつつ、それこそが、ユダヤ人のねたみを引き起し、それによって彼らの中の幾人かでも救われるようにとの強い願いを持っていることを示す。全てのことが神の恵みであるというパウロのメッセージは、パウロ自身が受け続けている神の憐れみと愛の豊かさを示している。神がイスラエルを捨てられた、しかしそれによって、神から離れていた異邦人が神との和解を得るに至った。もちろん、神はイスラエルを決定的に捨てられたのではない。神の民イスラエルが、神に受け入れられることは必ず起ることが繰り返される。その恵みの勝利と導きは、死者の中から生き返ることに表されるように主の恵みの勝利に基づく、憐みの契約にあるのだ。  主は私たちにも徹底して憐みの計画を持ち、成就される。

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