20180617『父なる神との交わり』Iヨハネ1:3-7

「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。…もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」   (ヨハネ1:3,7)
 今日は父の日への心からの感謝を表す日だ。1909年にアメリカ・ワシントン州スポケーンのソノラ・ドッド夫人が、男手1つで自分達を育ててくれた父に感謝し、牧師に父の誕生月の6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われている。母の日とほぼ同時期に始まった父の日もとても重要な示唆がある。父の働きは、子に分かりにくい。世の中で闘いつつ必要な糧を得るべく労し、大きな犠牲を払いつつ家族を養っている。その愛に私達は心から感謝したい。すでに神の支配に移された父親も少なくないだろう。しかし、思いを新たに心からの感謝を表したい。
 そして、何よりも父なる神の存在をも私達は心に留めたい。私達は天の父の働きや愛を日々の歩みの中で、確認し、感謝し、賛美し、そして父なる神との交わりに生かされたいのだ。私達の歩みは、この父なる神との交わりに原点があるといっても良い。全てを創造され、愛を注ぎ導かれる神の御手の中で私達は守られ、支えられているからだ。そして御子キリストのとの交わりもまたそれを豊かにする。キリストが私達になされた愛の犠牲を忘れてはならない。歴史の中に刻まれた神の愛を心深く受け止め、 今の歩みを感謝と共に進めさせて戴きたい。神はどんなときにもあなたと共におられ、恵みと祝福を注いでいてくださるからだ。父への感謝を心に留め、神との交わりに生かされたい。

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20180610『神の知恵を求める箴言』1:1〜7

「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」                      (箴言1:7)
箴言は聖書の中の知恵文学の一つで、詩のような形で知恵と真理を教えてくれます。私たちは自分の知恵ではなく神様の知恵を求めて、それに依り頼む者でありたいです。知恵をもつということは、他者との関わりについて正しい理解を得ることです。つまり、神と人を愛することです。これは、イエス・キリストが新約聖書において、旧約の律法のすべてを要約した二つの最も大切な戒めと同じです。つまり知恵とは、キリストのようになることといえます。箴言1:7では、主を恐れることが知恵の始まりだとあります。そして2:1-5にはどのようにしたら主を恐れることができるのか説明しています: ? 教えを受け入れ、従いたいと願うこと
? 教えを心に刻み、暗記すること
? 注意深く教えに耳を傾けること
? 教えを情熱をもって求めること
? 世界一の宝のように、教えを大切にしよく調べること
これは箴言に限らず、聖書のすべての教えについて言えることです。これらの教えは全ての人にとって真理であり、有益です。神様からの知恵を求め、そこから学び、私たちの心と行いを変えてもらいましょう。もっとキリストのようになるために! (セドン宣教師)

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20180603『天に宝を積む人生』マタイ6:16-24

 
「自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」                              (マタイ6:20,21)
 私たちは、様々な宝を求める。不安は私たちの心を地上へと向けさせてしまいやすい。地上に蓄えた宝は、高価な織物であれば虫がつき、金属の物はさびて価値を失う。盗人が家の壁に穴を開け盗んで行くことも少なくない。そのようにはかない地上の宝ではなく、失われる心配が全くない天に宝を蓄えるべきであると主イエス・キリストは、語られる。神に喜ばれることは永遠に失われることがないからである。地上のものを最も高く評価して生きているなら、それがその人の真の姿にほかならない。
 私たちの心がどこにあり、どこに向かっているのかが、問われる。しかし、それは地上の富をすべて否定しているのではない。私たちは、誠実に働き、知恵を持って蓄えることを聖書は語っているからだ。しかしそれを何のために、誰のためにするのかが重要となる。その上で、地上の宝によっても心の目が曇らされ、内なる光が暗くなるなら、その暗さは致命的なものとなることを心にとめる必要がある。弟子はふたりの主人に仕えることはできない。神と富との両者に仕えようとするなら、結局富に支配される。神に仕える姿勢は中途半端であってはならない。富に支配された心は思い煩いに支配されやすい。天に宝を積みたい。

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20180527『神の前を歩む』列王記14:1-16

「主はご自分のためにイスラエルの上に一人の王を起こされます。彼はその日、いや、今にもヤロブアムの家を絶ち滅ぼします。」                      (列王記14:14)
 北イスラエルの王となったヤロブアムは、自分の子どもの病から預言者アヒヤの存在を思い出し、妻を身分を隠して遣わした。しかし主の前にはすべてが明らかであり、アヒヤは妻に子の死を宣言し、その通りになった。その背後には、ヤロブアムが、主の前を歩み続けなかった罪があった。アヒヤの言葉から出たダビデもまた、罪を犯し失敗した王である。しかし彼は預言者ナタンによって示された自らの罪を認め、悔い改め、神のもとに立ち返った。神の前を歩む歩みは、失敗しない歩みではない。失敗を犯した時にこそ試される主との真実な交わりから生まれる歩みと言えよう。ヤロブアムの子が死んだ後、彼らが神の前にどうしたのか、聖書はそのことを語っていない。私たちも自戒したい。しかし、主はこの中でさえ、主がご自分のために「ひとりの王」を立てることを語られる。主の憐みと恵みは深い。
 一方南王国ユダはどうだったのだろうか。ソロモンの子であるレハブアムもまた、真実に神の前を歩もうとせず、罪をそのままにし、偶像礼拝、また神殿男娼等の乱れを正すこともしない。主への礼拝そのものが歪められ、主の愛と憐みに誠意をもって応えようとする姿勢が微塵も見られない。罪を継承することは容易だが、神への真実さを継承することは簡単ではない。私たちもまた、主の前をどう歩むのかが問われる。真実に歩みたい。

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20180520『御霊に導かれて』ガラテヤ5:13-26

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」                            (ガラテヤ5:24,25)
 今朝は、弱かった主イエス・キリストの弟子たち、ひとりひとりに聖霊が臨み、彼らが聖霊に満たされ、主の教会が誕生した日を覚えるペンテコステの時だ。旧約聖書において五旬節として祝われるこの日は、大麦の収穫の終りを意味し、いよいよ小麦の収穫となる時であると共に、主がシナイ山において律法を与えられたことを記念する時でもあった。主の恵みと贖いに感謝し、主を恐れると共に、みことばを与えられて歩むその記念は、このペンテコステの出来事に深く関わっている。
 主の教会は、様々な問題を抱えつつも、みことばによって整えられ続け、聖霊に導かれ、満たされて歩むというチャレンジをどの時代でも受けている。聖霊はすべてのキリスト者に臨み、信仰の告白、そして日々の歩みを導く。しかし、私たちは自分に与えられた「自由」をどのように、そして誰のために用いるのかが日々問われている。肉に従って歩んでしまう弱さや罪深さを私たちは抱えながら歩んでいるからだ。そして私たちは失敗をする。しかし、私たちの全てをご存じの主は、どこまでも私たちに期待してくださり、みことばによって促し続け、そして祈りをもって待ち続けて下さっている。私たち一人一人が、御霊に導かれて歩みを進めたい。教会の成長は一人一人の成長による。

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20180513『恐れを締め出す愛』Iヨハネ4:18-21

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」                      (ヨハネ4:10,11)
 すべての存在を無から創造され、愛を持って導かれた神様が、私達の存在をも全ての創造の前からすでにご存知で(エペソ1:4)、父母を通して、いのちを与えて下さったこと、そして今をも導いて下さっていることを心から感謝したい。この母の日は、アンナ・ジャービスが1907年5月12日に、教会学校等でも教師をし2年前に召された母の愛を覚えて、白いカーネーションを贈ったことが世界に広がった。私達の愛には、限界があるが、神から受ける愛には、私達を内側から変えさらに広げられていく力がある。父なる神は、御子を与え尽くすほどのいのちがけの愛で私達を愛して下さっているからだ。私達はどのような愛と感謝を周りの方々に贈っているだろうか。「愛(アガペ)」ということばは、「愛する(アガパオー)」という動詞から派生している。愛は本来的に、具体的な行動やことばを伴う。そして不思議にその行為は次の行為を生み出す力となる。家庭やあらゆる共同体の中で、先に神からの愛を知り、受けたものが、感謝と愛を表し、また互いに愛し合うものとされたい。母への感謝を心から表そう。

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20180506『主への恵みの祈り』マタイ6:9-15

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」               (マタイ6:12,13)
 主が教えて下さった「祈り」は、私たちが心に留めやすい「願い」中心のものとはほどとおい。むしろ御心がなりますように…との信頼と献身が原点にある祈りであることを私たちは、忘れてはならない。その時にこそ、私たちは後半の祈りを心から祈ることができるものへと変えられていくことができる。
 主の祈りを学ぶ後半は、「罪の赦し」ということが大きなテーマとなっている。私たちがこの地上を歩む中で、神の御心を求めながらも、そうできない現実、実際に罪を犯してしまう心の闇があることを誰も否定できない。この祈りにもその自分の罪(負い目)を主に赦していただきたいとの願いがある。しかし、そこには並行して、他者への赦しの宣言があることを忘れてはならない。
 赦された者として、また主の愛と恵みを先に受けた者として、私たちは、私たちに罪を犯す者への赦しへと向かうことができるのだ。それは決して簡単ではない。しかし主は再度そのことを14,15節でも繰り返している。どれほど重要であるかと共に、どれほど難しいかも思わされる。しかし主は整えられた弟子たちにではなく、まだ何もわかっていない弟子たちにこの祈りを教えられた。祈りを通して弟子たちも私たちも変えられていく。自らの弱さと向き合い、誘惑に遭わせないで…と祈りつつ歩もう。

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