20190630『神の御心を求める』列王22:1-14

「ヨシャファテは、『ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか』と言った。」
    (列王22:7)
私たちは、人生の中で重要な選択を余儀なくされる。その時に「神の御心」がどこにあるのかを正しく知りたいと願う。
南ユダの王ヨシャファテは、北イスラエルの王アハブを訪ねる。それはアラムとの間に戦いがなかったからでもあろう。しかしアハブは、この時アラムとの境にあるラモテ・ギルアデの地をアラムから回復するための戦いをヨシャファテに提案する。善王とも言われるヨシャファテはまず主のことばを伺いたいと申し出てアハブはそれに応じる。アハブとて神の御心を求めていたのだ。しかしそれは400人の預言者集団の忖度をベースとしていた。アハブの願うことを神の御心として語っていた預言者だったのだ。彼らの余りにも一致した賛成のことばに、ヨシャファテは「御心」を求めることのできる預言者をとアハブに求めたのだ。
ここでアハブは預言者ミカヤの存在を明らかにする。アハブも分かっていたのだ。真に神の御心を求めることができる預言者の存在を。しかし自分の意見に逆らう預言者の言葉を退け続けたのだ。私たちも自分の願いにかなった答えが期待できる方に相談する誘惑がある。しかし、それは主の御心を求めることではない。ミカヤは一度アハブの心に沿う預言をあえてする。しかし、それは皮肉であった。その後のミカヤの預言は成就する。 私たちは、真に主の御心に従う心があるだろうか。

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20190623『喜びと平和に満たされて』ローマ15:7-13

「ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」        (ローマ15:7-9) 私たちの交わりには時に様々な葛藤が起こる。違いが強調される時も、同じ弱さを抱える時にも葛藤や摩擦が起こりやすい。
ユダヤ人と異邦人の間には大きな葛藤や摩擦があった。それは教会の中にも持ち込まれ、ローマ教会は多くの問題を抱えた。しかしパウロはどんな違いや葛藤があろうとも、キリストが私たちを受け入れてくださったように、互いを受け入れ合うようにとチャレンジをする。それは主イエスご自身が、ユダヤ人のしもべとなられた姿に倣うことであり、そこにも異邦人が神をあがめるようになるという目的があった。私たちが違いを越えて、共に神を賛美するようになり、互いに仕える者となり、キリストが自分たちに与えてくださった豊かな憐みと愛を思い起こすときに、私たちの思いは一つとされ続けていく。葛藤や摩擦の中にこそ、私たちが主の恵みと出会う大きなチャンスがあるからだ。
人間関係に課題を私たちは抱えている。そこには他者との問題以上に、自分と向き合う問題があり、神ご自身との関りを見つめ直す大きなテーマがあることを教えられたい。神は私たちが一人として、また交わりの中で、豊かな喜びと平安に満ちた歩みをするようにと願っておられる。主のもとに共に近づきたい。

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20190616『主イエス・キリストとの出会い』ルカ5:1〜11

序、私たちがイエス・キリストに出会うとは、その背後にどの
ような状況があるのか。ペテロの状況からともに学んでいこう。
                   
本論I、漁師たちへのチャレンジ(1?4節)
1) 落胆していた漁師たち(よくある出来事)
2) 民衆に語られたイエス
3) 漁師にチャレンジしたイエス
*神との相互主体的な関係である(神は私たちに働きかけておられるお方)

本論II、ペテロの応答(5?9節)
1) イエスの言葉に従ったてみたペテロ
2) 結果に驚いた弟子たち(思いもよらぬ出来事)
3) 自分の罪深さを知り、イエスを信じたペテロ
 *私自身は、どのようにしてイエス・キリストを信じたのか。
 *「人生は出会いで決まる」:マルティン・ブーバー(1878?1965年)=ユダヤ系宗教哲学者 

本論II、キリストについていく弟子たち(10?11節)
1) 自分の弱さを知った漁師たちに使命を与えるイエス
2) 自分の弱さよりもイエスの言葉に従った漁師たち
 *イエス・キリストは、信じた者の生涯の責任を取ってくださるお方

メッセージ:町田俊之師(バイブルアンドアートミニストリーズ代表)

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20190609『主の教会の誕生』使徒2:1-13

「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」            (使徒2:3,4)
主の教会は人の集まりゆえに、様々な問題を抱えます。しかし他の共同体と違って、主の教会は、主ご自身が一人ひとりを導き続け、変え続けて下さるゆえに、成長があるのです。教会に問題があることは問題ではありません。問題から学ばないこと、問題を通して主に向かわず、遜らないことが問題なのです。
今日は主の教会の誕生日とも言われるペンテコステです。旧約時代には「五旬節」として祝われた過ぎ越しの祭りから50日目、また7週目の祭りとも呼ばれました。それは収穫を恵みを覚える時であるとともに、モーセを通して与えられた律法を感謝する時でもありました。そして新約の時代には、霊的な収穫や、弟子たち一人一人に神のことばが与えられ、大胆にキリストを証しする者へと、あの弟子たちが変えられていったのです。それは聖霊なる神の働きでした。復活後40日間弟子たちとともに歩み、天に戻られたキリストは「もうひとりの助け主」を送ることを弟子たちに語っていました。それこそ聖霊のことでした。聖霊は弟子たち一人ひとりの上に臨み、内側から彼らを造り変え、彼らを証し人として用い、多くの人々がキリストの愛と救いに導かれたのです。

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20190602『自分の十字架を負って』マタイ10:32-39

「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」                        (マタイ10:38,39)
キリストが招かれた弟子たちは、全員が無学ではありませんでした。しかし、彼らにはそれぞれの欠けがあり、不十分さを常に抱えていました。 しかし、キリストは弱さを持つ弟子たちを招き続け、整え続けました。そこに主の愛と忍耐があったのです。
主の福音宣教は様々な対立や反発、時には肉親の敵意さえ招くことがありました。現代ではそれは少なくても、私達には、自分に委ねられた使命を受け取り、覚悟を定めることがひつようです。そのような中で弟子たちの主イエスに対する愛が問われました。自分の家族に対する愛に勝る愛を、真の主であるイエスにささげるのでなければ、主の弟子としてふさわしくないからです。それは厳しい面がありますが、素晴らしい特権と祝福でもあったのです。また十字架に象徴される死に自分を渡し続けていくことが、弟子の条件でもありました。自分を主としやすく、自己中心的な自己実現を追求する時、私たちは真のいのちにあずかることが難しいのです。弱さや愚かさを抱えた弟子たちにも、キリストが一番求められたのは、自分に死ぬことでした。しかし私たちは、自分へのこだわりや自己中心的なあり方から離れていくことにこそ、真の喜びと祝福があることを見出すのです。

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20190526『アハブの愚かさと後悔』列王記21:17-29

「ナボテはアハブに言った。『私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。』…エリヤに次のような主のことばがあった。 『あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。』」                     (I列王21:3,28)
悪しき王が多い北イスラエルの王の中でも、アハブは最悪の王と言われる。それは彼が、自分の欲望や、また妻となったイゼベルの言葉に振り回されたからだともいえる。彼自身の実態は弱々しく、エリヤを恐れつつもそれを認められずにいたのかもしれない。弱さや愚かさを認めるには勇気が必要となる。
アハブはナボテが所有していたぶどう畑を自分の畑として譲って欲しいと申し出るが、ナボテは神からの地を譲ることはできないと拒絶する。実はこのナボテの言葉にこそ、王をも恐れず神を正しく恐れる真の姿が見られる。しかし、アハブは自分の欲に固執し、イゼベルの悪しきアドバイスを用い、ナボテを殺害してしまう。民である一人のいのちよりも、自分の欲望を優先してしまう愚かさの背後には、歪んだプライドと闇があろう。しかし、アハブはエリヤを通して語られた神の裁きの前に悔い改める。
それは真実なものではなく後悔としか言えないものであったが、神は彼を憐れまれる。神の憐みによって私たちは生かされていることを覚えたい。そして愚かさを認める勇気と、真理に従う従順さを与えられたい。主は私たちの心をご覧になる。

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20190519『互いに弱さを担い合って』ローマ 15:1-6

「私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。…どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。」  (ローマ15:1,5)
私たち人間は、他者と共に生きるようにと創造されている。それもまた、私たちが「神のかたち」に創られた恵みでもある。他者の存在に信頼し、時には健全な依存を学び、そしてお互いの存在を喜び、受け入れて歩んでいく。そこに豊かな祝福がある。誰も完全な人間はいない。私たちはみな弱さを持ち、他者の存在を必要としているのだ。その原点には、神を求め、神と共に生きる存在という霊的な存在のあり方があるが、その弱さは私たちが互いに担い合うものとしても、私たちにゆだねられている。そして力のある者が力のない人たちの弱さを担うようにと勧められている。信仰のゆえにこだわりをもちやすい人の弱さを、私たちは神の愛によって互いに担い合っていく、その原点には、自分を喜ばせるべきではないとの御心がある。
私たちの罪の姿は、自己中心への傾きと言える。自らを神とする罪から離れ、他者のために主の愛によって生かされ用いられていくことは、神の御心を行うことへとつながっていく。パウロは多くの葛藤を通るローマの教会の人々が、忍耐と励ましの神によって同じ思いを抱くようにと祈る。それこそが主の教会の交わりであり、成長につながっていくからだ。私たちもまた、神の恵みと赦し、そして愛に生かされ互いの弱さを担い合いたい。

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