20180826『頑なな心の危険』列王記 16:21-34

「アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。」 (列王16:33)
 私たちの心の奥底には、様々な闇がある。それが表面に出てくるとき、自分自身でも驚いてしまうことがある。しかし、それと向き合い、その闇の中で、主の憐みを受け取るとき、私たちには赦しと共に癒しがあることを心にとめ、感謝したい。
 ジムリはイスラエルの王エラの配下で戦車隊の半分の長であったが、ティルツァで王が酒に酔っている機会をねらって殺害し、王位を奪った。さらに預言者エフーの言った通り、バシャの全家を打ち殺した。しかし王位についてわずか7日で、民衆の立てたオムリに攻められ自害する。ジムリを倒したオムリが実質的な王位を得たが、神の前に悪を重ねていく。人間の欲望が満たされていく歩みは、神から離れていくことになることがなんと多いことか。そしてついにオムリの子、アハブがイスラエルの王となる。聖書は、このアハブの神への背きの姿を明確に語っている。「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った」「彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は…イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。」と聖書は語る。坂を転がるようにして、神に背くイスラエルの王の姿がここにある。私たちはどうだろうか。神の前に真実に歩むことがいつも誰にも求められる。

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20180812『二つの人生』マタイ7:24-29

※12日と19日が逆になりましたことをお詫び申し上げます。

「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」                     <マタイ7:24,25>
 人生は、表面的なものよりも、内面的なことの方が大きな違いを生む。イエス・キリストが山上の説教の締めくくりとして語られたのは、「二つの人生」の決定的な違いだった。
 その違いは、人生に押し寄せる苦難の中で明らかにされた。雨、洪水、風に象徴される苦難、それはまるで上から、下から、横から受ける困難を象徴しているかのようだ。そして違いは、しっかりと岩の上に土台を据えていたかどうかにかかっていた。しっかりと岩の上に土台を築き上げた家はびくともせず、そうでなかった家は酷い倒れ方をした。人生の中で、目に見えるところばかりに心を奪われる時、苦難に耐え得ない。神の言葉、キリストのことばに心をとめ、しっかりと聴き、それを自分のこととして受け入れ従うという歩みは、まさに「狭い門から入り、狭い道を歩み続けること」であろう。しかしそれこそがいのちに至る道であることを忘れてはならない。平行箇所のルカ6章には、深く掘り下げる必要が指摘されている。人生を掘り下げ、キリストと出会い、みことばに従う人生を歩み続けたい。神は心の真実を見る

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20180819『ふさわしい礼拝と献身』ローマ12:6-9

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」 (ローマ12:1,2)
 ローマ書1〜16章は、大きく二つに分かれる。1〜11章は、信仰義認の教理のことが中心に書かれ、12〜16章は、信仰の歩みについて書かれている。すなわち信仰を持った人の最初の歩みが、ここにある「献身」であることを心にとめたい。献身は、特定のキリスト者に求められることではなく、全てのキリスト者に求められている「ふさわしい礼拝」であり、本来の礼拝なのだ。私たちが、キリストにあって本来のあり方、神のものとされたことに、いつでも戻っていく必要があろう。
 しかし私たちは、この世の流れに影響を受け、失敗を繰り返してしまう。だからこそ日々、主の前に心を新にし、主に取り扱われ、内側から、返られ続けていく必要がある。自分が喜ぶことを選びやすい私たちであることを認め、神に喜ばれる、神の前に完全なことを見分け、それを選び取るものとさせていただきたい。憐れみ深い神様は、忍耐を持って、私たちを導き続けてくださる。主の愛と恵みに期待し、主ご自身を待ち望み、主と共に歩む者とさせていただこう。主は私たちを愛していて下さる。

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20180805『狭い門から入る』マタイ7:13-23

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」                  (マタイ7:13,14)
 主の弟子として、整えられる歩みは、決して容易ではない。しかし、主の憐れみは、私たちの愚かさを越えて豊かに届く。弟子の歩みの重要さの一つは、狭い門からはいることである。滅びに至る門は大きいので入りやすく、歩みやすい。従って滅びに至る門から入って行く者が多いが、いのちに至る門を見いだす者はまれである。表面的な豊かさに惑わされず狭い門を通る決断をし、狭い道を歩き続けることを選ばなければならない。
 本物を見極める重要さは、どんな人にも言える。見たところ無害な羊のようでも、現実には貪欲な狼、自分の利益のために群れを食い物にする教師がいる。彼らを見分けるには実を見る。良い木は良い実を、悪い木は悪い実を結び、例外はない。実といっても、外見上の華々しさではない。主よ、主よという告白や力あるわざでさえ、イエスとの結び付きを保証しない。
重要なのは神のみこころを行なう者であるかどうかである。主の御心の中心は罪の悔い改めという狭い門に人を導くことだ。真に主の弟子となる者は自己中心的な生き方から解放され、主の前に砕かれ、整えられ続け、実を結び、御心を行う者に変えられていくのである。私たちもまた、狭い門に向かい歩み続けたい。

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20180729『主の目にかなう歩み』I列王記15:1-15

「しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。…アサは父祖ダビデのように、主の目にかなうことを行った。彼は神殿男娼を国から追放し、先祖たちが造った偶像をことごとく取り除いた。」   (列王15:4,11,12)  憐れみ豊かな主は、ダビデに免じ、アビヤムの罪にもかかわらず、王家を断絶させることなく、1つのともしびとして、後継者を与え、神の民、イスラエルを守られる。
 南王国3代目のアサはアビヤムと王母の罪の歩みとは違い、主の目にかなうことを行った。実の母の罪をも徹底的に糾弾し、罪故に消えそうな王家にあっても、アサ王はまさしく「主のともしび」であるべく、罪に対して敏感に反応し、改革を行っていった。無論、アサが全く罪を犯さなかったというのではない。
アサはアラム王ベン・ハダデに金銀を贈り、バシャとの同盟関係を破棄させ、バシャの動きを封印した。アサは残された建築材で南王国の北境に要害を築いた。それらも神の民を守ろうとの策であったが、アラム王に金銀で援助を要請したことは、後に非難を受け、また主ご自身と王との緊張関係を生むことになっていく。どんな人間も完全ではない。しかし主は憐れみによって、神に従おうとする一人の人をも、用いられ、ご自身の計画を行われる。私達も主の目にかなう歩みを進めていきたい。

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20180722『神の賜物と召命』ローマ11:25-36

「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」                        (ローマ11:33)
 神の奥義として、イスラエルの救いについての神のご計画が示される。イスラエル人のかたくなさの中にあっても「残された者」の存在があった。また彼らのかたくなさも、異邦人の完成のなる時までであり、異邦人の中から選ばれた者が皆召されて神の民とされる時、イスラエルのかたくなさも終りを告げ、イスラエルはみな救われると言われる。
 救う者がシオンから出てとは、天上のシオンからキリストが再臨されることを語っている。このキリストによってのみ、すべての民の罪は除かれ、神の「新しい契約」の実現がもたらされる。
 「福音」について言えば、ユダヤ人は不信仰をもって神に敵対している者であるが、それは、異邦人に救いの祝福がもたらされるためである。彼らは先祖たちの信仰のゆえに、神に愛されている者なのである。神は、イスラエルに与えられた賜物と召命を取り消されることはない。そして、その恵みは、異邦人である私たちにも及ぶ。神の憐みの計画はなんと素晴らしいことであろうか。異邦人が、かつて神に不従順であったが、今はあわれみを受けているのと同じように、神の民も今は不従順であるが、神の深いあわれみによって、イスラエルも愛と恵みを受ける。神はすべての人をあわれまれるからだ。そのことを通し、すべての選ばれた人々が、神の主権的選びの栄光と、人の不従順に対する神のあわれみの勝利を見ることができるのだ。  主の憐みと恵み、愛のご計画を受け止めて、今日も歩みたい

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20180715『決して見捨てない愛』イザヤ書49:15

 イザヤ書には、父なる神の愛が、激しい情愛の形で啓示されています。当時、イスラエルは北王国が滅ぼされ、南王国も危険な状況でした。人々は、神は我らを見捨てたと思いました。そのような中で、神は決してあなた方を捨てないと何度も叫んでいるのです。いくつかの例えで描かれています。
 ・妻を捨てない情愛としてイザヤ54:6「若い時の妻をどうして見捨てられようか。」 ・乳飲み子をいとおしむお母さんの情愛で、イザヤ49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れてもこのわたしはあなたを忘れない。手のひらにあなたを刻んだ。」 
 忘れないようにいつも見えるてのひらに、消えないように刻んだというのです。その愛は人間とは違う永遠に変わらない愛であると説明されています。イザヤ54:8「永遠に変わらぬ愛…」
 乳飲み子を捨てる母親はいません。しかし、現在、日本には子供の虐待があり、見捨てる親もいます。たとい、母親が乳飲み子を捨てるようなことがあったのとしても、わたしは決してあなたを捨てないと主は言われています。たとい、あなたが親から捨てられようが、人々から忘れられようが、大事な人から裏切られることがあっても主はあなたを大事な存在で、決して見捨てないと言っておられます。新約聖書に移ると、私たちは世界の基の置かれる前から選ばれていた大切な存在であると説明されています。そして、神の子とするご計画に入れられていたというのです。現代人には見捨てられ感があると言われています。この神の愛の中に憩うことができるのです。 (メッセージ:水野健牧師)

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