20180422『35周年の 主の教会の歩みに感謝して』使徒の働き22:1〜21

「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」                               (エペソ4:13)
 この清瀬・新座の地域に清瀬福音自由教会が建てあげられて、今年で35周年を迎える。最初は志木街道沿いのそろばん塾をお借りしての午後からの礼拝だった。現関東西地区の牧師先生たち、また米国福音自由教会の宣教師の方々のご協力によって主の教会の歩みは始まった。すでに主のもとに帰られたハルストロム先生、コンラッド先生、初代牧師の日名先生、顧問牧師の古山先生の尊い働きと、熱心な信徒の方々の熱い祈りと献身的な尊いご奉仕の中で、主の教会は建て上げられてきた。私たちはその恵みを忘れてはならない。
 そして設立 年で新座市西堀に、また設立28周年にこの新座市新堀に主を礼拝する会堂を主にささげ、100名が一緒に主を礼拝できる時をと願ってきた。その祈りに主は答えてくださり、会堂が満たされることも時折与えられている。これから私たちはどのような歩みへと踏み出していくのだろうか。様々な夢やビジョンが各自にも与えられているだろう。しかし今日私たちは、主の憐れみと恵みによってみことばに聞き従う者でありたい。主はご自身の栄光の教会を私たちのうちに築き上げてくださる。  35周年の恵みを覚え、主ご自身に私たちをささげて行きたい。 

広告

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20180415『恵みの選びによって』ローマ11:1-10

「ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。」                         (ローマ11:5〜6)
 「選び」というテーマは私達の心に波を立てる。神の民として選ばれたユダヤ人もその波を覚えただろうか。主の民として選ばれたのだという理解は、時に人を傲慢にする。しかし、聖書は一貫して、主の選びはただ恵みなのだと強調し繰り返す。
 そして主は敢えて小さな存在や愚かな存在を選ばれるのだ(コリント1:26-29)。神は誰をも誇らせないために、そして恵みの中でへりくだり、主の憐れみの中を歩むようにと人々に謙遜さを教えられ、導かれる。それは神の民ユダヤ人も同様だった。彼らは、数々の失敗や罪の故に、神の御前に遜ることを余儀なくされた。そのことを通して、異邦の民も神を畏れるものとされ、そして主に従う者としての招きを恵みとして覚える者とされた。私達は皆、自分の愚かさや罪深さを正直に神の前に認め、そして赦しの恵みに立って主に心から従っていく必要がある。
 バアルやアシェラの預言者に大勝利を収めたエリヤでさえも、時に失望を抱えた。しかし、主は憐れみの民、恵みの民を残し、彼と共に歩む者とされた。主は私達をも遜らせ、一方的な憐れみと恵みの中で、用いて下さる。主の恵みを深く覚えたい。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20180408『主への恵みの祈り』マタイ6:9-15

『御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。』                   (マタイ6:10)
 主イエス・キリストが弟子たちに教えられた「主の祈り」は、私たちの信仰と祈りを整える。祈りの成長、成熟こそ、私たちの信仰と人格の成長とも言えるだろう。祈りは私たちの願いを叶える手段ではなく、私たち自身が、神の御心のままに取り扱われ、変えられていく目的とも言えよう。主の祈りを二回で学びたい。
 主は未熟な弟子達に祈りを教えられた。そしてその祈りには、誰に祈るのかが明確にされている。そして「御国が来ますように」「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」との祈りの内容へと向かっている。それは自分の願いを届けるための祈りではない。自分の願いを叶えて貰うための偽善的な熱心や、人に認めて貰うためのパフォーマンスは退けられる(5-8v)。私達は全てをご存じであり、主権者である神の前に、神の御支配がこの世界に明確にもたらされ、主の御心が、天において完全であるように、この地(自分も含めて)においても完全になされるようにと祈るように教えられている。それは自分の願いを届けるのとは逆に、神の御心がこの私と地に完全になされるようにという委ね献げた祈りだ。私達の祈りはどうだろうか。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20180401『主の勝利の証人』ルカ24:36-53

「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」                         (ルカ 24:46-48)
 キリストの弟子たちは、自分たちの主が死からよみがえる事を全く期待していなかった。それゆえ彼らは人々を恐れて隠れ、ペテロは主を三度も否定したのだ。実は幾度も主はご自身のよみがえりを語っておられたが、彼らの心には届いていなかった。主が苦難を受けることそのものを受け入れられなかったからでもあろう。マリヤをはじめ女性たちからよみがえった主との出会い聞いても彼らは閉じこもっていたのだ。恐怖は私たちの心を縛り閉じる。しかし、その彼らに主はご自身を示され、永遠のいのちがあること、復活の勝利ゆえの罪の赦しがあることを明確にされた。キリストの復活は「永遠の死」に対する「完全な勝利」なのだ。そして主は、弱く恐れやすい弟子たちを主の勝利の証し人とされる。それは彼らが優れているからでは全くない。彼らの弱さや愚かさを超えて、主ご自身が完全な勝利をとられたからだ。どんな人も主の勝利を自分のものとして受け取るとき、この勝利の証し人とされ得る。私たちの内側にも恐れ、弱さ、愚かさ、罪がある。しかし、主はそこにいのちを与え、あなたを勝利の証人とされる。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20180325『手を差し伸べる神』ローマ10:16-21

 
「イザヤは大胆にもこう言っています。『わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。』そして、イスラエルのことをこう言っています。『わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。』」                             (ローマ10:20,21)
 今日は、棕櫚の日曜日で、主イエスが、平和の印であるロバの背に乗ってエルサレムに入城された日であり、多くの人々が棕櫚の葉を手にして、「ダビデの子にホサナ」と歓喜して主を迎えたのである。しかし、わずか5日後の金曜日には、群衆は「キリストを十字架につけろ」と叫びました。人間の心の闇を見る重いです。しかしそれはまた私たちの現実でもあるのです。
 その闇を光に変えるために、キリストはこの地に肉体を持って来られました。その目的は全ての人を神の子として招くためでした。しかもそれは、キリストを裏切り見捨てた弟子たちやユダヤ人達だけではなく、神を認めようともしない異邦人である私たちにもその愛は注がれているのです。それゆえ、神を探さなかった者達も神を見いだし、不従順で反抗する者達にも神は愛の御手を伸ばして下さっているのです。そしてそれは今もなお、全ての人に差し伸べて下さり、招いて下さる愛の御手なのです この受難週に私たちはもう一度、永遠の愛といのちを受け取りたいと思います。主はあなたのためにこの地に来られたのです。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20180318『主に信頼する力』ローマ10:8-15

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」 (ローマ10:9,10)
 私たちの人生の歩みには、様々な葛藤があり、痛みがある。しかし、その中でこそ私たちは本当の信頼をどこに置くのか、だれに頼るのかを学んでいく。失望は私たちを真理に導くのだ。
 イスラエルの民に神は「律法」を与えられた。それは律法主義に陥らせるためではなく、神の民がどのように歩むことができるのかの模範を示して下さった。それは主イエスが完全に成し遂げられた。さらに私たちの主は、私たちもまたそのように歩めるようにと模範を示され、私たちが行う力を与えられる。それは聖霊による働きなのだ。旧約聖書の律法に代表される「神のことば」は「キリストのことば」であり、私たちの近くに心に与えられている。そしみことばに生かされ、主への信頼を教えられ、信頼の祝福を先に受けた者は、それを宣べ伝える恵みも与えられている。それは私たちもまた誰かによってその恵みを受けたからだ。
 宣べ伝える人がいなくては聞くことができず、聞くことができなければ、信じることができず、信じることができなければ呼び求めることができない。主を真実に呼び求める全ての人が救いに導かれていくために、私たちも恵みに生かされ、なお主に信頼し、そして主のみことばを語る者として遣わされていきたい。主は私たちを信仰と信頼の勝利の証し人として用いて下さる。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20180311『キリストの栄光』黙示録1:9−18

「この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。『恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。』」  (ヨハネの黙示録1:17−18)
福音書の中で記されているキリストを見ることが非常に大事だ。そこで私たちは、人となられたキリストのいのちのことばを聴き、力ある業や贖いの死と復活を見ることができる。しかし、本当の権威、偉大な力、大いなる栄光をもたれた、今生きていおられるキリストを見るだろうか? 使徒ヨハネが栄光に満ちたキリストを幻の中で見たとき、圧倒され、死んだ者のようになって地面に倒れ込んだ。
キリストは、(1)父なる神と一つであり、(2)裁かれる方であり、(3)栄光に満ちた方である。絶対的主権をもっておられる。 しかし、私たちは恐れなくていい。キリストは、私たちを愛し、私たちを罪から解き放ってくださっている。(5節)
キリストの愛の中にとどまり、キリストとなお親しくて生きた関係を養っていくべきだ。
私たちは、ヨハネと同じ経験をしないかもしれないが、ヨハネの記した幻によって、もう少し正しくキリストの本当の姿を見よう。
(リーズナー宣教師)

コメントする

カテゴリー: Uncategorized