20180225『王国と礼拝の分裂』列王12:21-31

「全イスラエルは、王が自分たちに耳を貸さないのを見てとった。そこで、民は王にことばを返した。『ダビデのうちには、われわれのためのどんな割り当て地があろうか。エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない。イスラエルよ、自分たちの天幕に帰れ。ダビデよ、今、あなたの家を見よ。」イスラエルは自分たちの天幕に帰って行った。』」    (列王12:16)
 聞く耳を持つことはどんな人にとっても重要だ。それはイスラエルの王も同様だ。しかしソロモンの息子レハブアムは、重荷を軽くしてほしいと申し出たヤロブアムとイスラエルの民に厳しく対応してしまう。それは賢明な言葉を退け、自分にとって聞こえの良いアドバイスを受け入れたからだ。結局は、王として聴くべき神の御声を退け、自分の声に従ったとも言えるだろう。
 それゆえ、ヤロブアムとイスラエルの民は、王レハブアムだけではなく、ダビデの家を見限り、王国が分裂することになる。この王国分裂を招いたのは、ソロモンであるともいえよう。ソロモンがどのように主に聞き、従っていたのかが問われる。私たちの主への姿勢は、周りの人々、家族に影響を与える。自分の思いや欲望に振り回される自分の弱さを、私たちは認め、常に神の前に整えられていく必要がある。聴く耳は教えられやすい器に与えられる祝福だ。この王国の分裂は当然のことのように礼拝の分裂となってしまう。神の民の中心が崩れる危険性は常にある。 

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20180220『義と認められる幸い』ローマ10:1-7

「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。…信仰による義はこう言います。『あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを引き降ろすことです。」        (ローマ10:4、6)
 私たちの信仰は、常にみことばによって確認される必要がある。いつの間にか、聞こえの良い事のみを受け止める傾向が私たちには常にあるからだ。正しい教理に基づかない熱心は危険でもある。「神の義を正しく知らずに、自分の義を立てようとする」ことは、「神の義に従わない」ことなのだ。
 救い主キリストは、私たちが義に到達する方法としての律法に終りをもたらされ、成就された。私たちが義とされる道は、信仰による道である。それは異邦人にも、信じるすべての者に与えられるのだ。その信仰による義は、旧約聖書の教えであることをパウロは確認する。律法を守ることによって、神の義を手に入れることは不可能であるが、信仰による義は神からの一方的な愛、そして神の豊かな賜物として与えられるものである。
神はキリストをすでに地上に遣わし、救いを完成して下さっている。神は、人の救いのために必要なことをすでに成し遂げておられるのだ。私たちはその恵みを感謝を持って受け取り、神の義とされた者として、私たちも恵みと愛に生かされ、その愛と救いを人々に紹介する者とさせていただけるのだ。 罪深い私たちをキリストにあって義と認め、内側から愛で変え続け、愛を届けるために用いて下さる主に感謝しよう。

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20180211『主の弟子としての歩み』マタイ5:38-48

「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」                   (マタイ5:43,44)
 神の国に生きる民がどう歩むのかを語られる中で、主は6つの項目から、律法主義者たちの理解にチャレンジされた。それは「殺人」「姦淫」「再婚」「誓約」「報復」「隣人愛」であった。
 前回までで4つを学んだが、どれも神のかたちに創造された恵みに生かされているという前提があった。その恵みに感謝するときにこそ、私たちは人としての本来のあり方を回復し、神と人の前に真実にそして誠実に歩むことができる。
 最後の二つは、さらに人としての闇に踏み込むチャレンジである。「目には目を、歯には歯を」という言葉は誤解されやすく、報復の口実にされやすい。しかし、この同害復習法は同等の所で止めるようにとの制限を加えるものであり、より積極的・意欲的な愛と赦しへのチャレンジへと向かうものである。そして、それは最後の敵を愛し、敵のために祈るという歩みにつながる。
 それは自分を攻撃する者をも愛し、赦し、主の祝福を祈る使命へのチャレンジである。それは神のかたちそのものである御子キリストの愛に因らなければなしえない事である。しかし主の弟子は主の愛に生かされ、砕かれ、用いられていくのだ。

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20180204『神と人の前の誓約』マタイ5:27-37

「しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。」                   (マタイ5:34)
 神の国に生きる民がどう歩むのかを語られる中で、主は6つの項目から、律法主義者たちの理解にチャレンジされた。それは「殺人」「姦淫」「再婚」「誓約」「報復」「隣人愛」であった。
 前回は、「殺人」の事について学んだが、そこには神のかたちに創られた人を殺すはずがないとの視点があった。今日の「姦淫」「再婚」「誓約」に共通する神の前の誓いという事も、神のかたちに創造された人への誠実さと真実さが根底にある。私たちが日常生活の中で、他の人と接するあり方は、常に創造主なる神を心にとめて、その人格を尊重していくのだ。それゆえ特に、結婚という神の前の誓約は決して軽んじられることではなく、結婚相手への誠実な歩みがそこに築き上げられていく必要がある。外側に現れる行為だけではなく、内側の心の状態にまで私たちは真実であることが求められる。再婚の制限にも、同様の視点がある。私たちは他者の人格を尊重することにこそ、神と人への愛と真実の成長を見ることができる。
 しかし、「誓約」に関しては、自分の弱さと向き合うという視点がある。いかに自分が誓えない者であるのか、不誠実、不真実な者であるかを自覚しつつ、神の前に出て悔い改め、日々の歩みを送っていくのである。誓約の本来の意味を心に刻みつつ、私たちは神と人との前に好意と聡明を得る者とされ続けたい。

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20180128『主に従い通す恵み』列王記第一11:1-13

「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現れ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。」                             (列王記11:9,10)
 私たちの生涯の中で、何に価値を置き、何を宝とするかという課題は、非常に重要であり、人生を左右する。
 イスラエルの三代目の王として、あらゆるものを所有し、権力も、知恵も得ていたソロモンは、主の教えに背き、多くの異教の女性を王妃とした。その数は700人、側女も300人という多さだった。
 彼自身の孤独や渇きの深さを現わしているのだろうか。神によってのみ満たされる心や魂の深みを他のもので満たそうとするとき、それは偶像となる。ソロモンは王妃たちの異教の礼拝のために、財を用い、彼もまた、その礼拝に参加していくことになる。彼が最も深いところで宝としていたものは何だったのだろうか。彼の父ダビデが、孤独や挫折、失望やいのちを狙われる恐怖と闘いながら、神と向き合ったこと。また、神の前に出、自分の罪を告白し、赦しの恵みを受け取ったことをソロモンは、自分の人生の中に迎え入れることが出来なかったのだろうか。表面的に神に従うように見せることはできても、深みにある弱さや愚かさは、露呈し、周りの人々を巻き込んでいく。私たちはどうだろうか。真に神に信頼し、従い通していく信仰と覚悟を主から与えられているだろうか。祈り求めたい。

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20180121『主の憐みと祝福』ローマ9:24-33

 
「それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」                                (ローマ9:23,24)
 私たちは神様の愛と恵みの中にあって不思議な選びを受けている。選びという言葉は誤解を受ける。パウロは2つの誤解に明快に答えている。神に不正はないことと、神の憐みの主権である。
 そして、この主の憐みの主権は、陶器師の手によって創られる陶器のように、創造主なる神の側に愛の主権がありつつも、愚かな私たちが主の憐みによって尊いことに用いられる器へと変えられていくこと、そしてその恵みが異邦人にまで及ぶべく、神の民を取り扱い導かれることが語られていく。しかもその憐みの恵みは、旧約聖書の中からすでにホセア書、イザヤ書の中で明確に語られてきていることが明示されていく。主権者なる愛の神は、取るに足りない神の民を心から愛し、彼らのそむきの罪さえ、異邦人への愛の注ぎへと導き、受けるに値しない恵みを与え続けて来てくださったのだ。
 私たちは、先にその恵みに気が付かされたものに過ぎない。異邦人の中から召し出された私たちは、「彼」に信頼することを教えられ、失望することのない歩みが与えられている。私たちはなお感謝を持って、神の民としての憐みの道を歩ませていただきたい。そして心から主を愛し、主に従い、主の祝福を届ける器とさせて戴きたい

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20170114『人への愛と真実』マタイ5:20-26

「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」                               (マタイ5:23-24)
 新しい年が始まり、日常が戻ってきた。日常の生活の中で、私たちの心は様々な悩みや不安を抱える。その多くは他の人間との関わりであり、その原点には自分自身との関わりがあり、その中心には神との関わりがある。私たちはどのように自分を認識しているだろうか。人との関わりに悩むあまり、自分との関わりを疎かにしてはいないだろうか。それには神の前の静まりが重要となる。
 自分自身を神の愛によって受け入れ、正しく理解することによって私たちは他者をも受け入れ、理解してくことができる。神の律法と対峙する中にあって、私たちは自分を問われ、自らの罪と向き合い、主の憐みと赦しを受け取っていく者とされる。律法学者たちに勝る真実の姿勢が神の前に養われていく歩みは、自らの罪を認め、そこで主の愛を受けていくことから始まっていく。そして神の前に自分を受け入れるとともに、全ての人も愛していて下さる主の愛によって、愛しにくい人をも愛する者へと変えられていくことができる。主の前に静まり、他者との確執に気が付くとき、私たちは他者への愛と真実を明らかにするべく、一歩を踏み出すことができる。主は私たちの内側に変化を与え勇気と力を与えて下さる。

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