20170219『聖さを追い求めて』ローマ6:12-23 

「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」                  (ローマ6:13)
 世には様々な価値観があり、私たちはその影響を受ける。聖書が語る価値観に立つ人生を歩みたいと心では願いながら、現実には罪の誘惑からくる心の葛藤を常に抱えている。しかし、聖書は私たちがすでに罪に対して死んだ者であり、古い自分がキリストと共に十字架につけられたことを心に留めるように教える。
 罪の奴隷という表現は強烈だが、確かに私たちは、奴隷のように縛られ、罪を犯してきてしまった事実を神の前に認めざるを得ない。しかし、すでにキリストにある永遠のいのちを持つ私たちは、そこから離れ、勝利し、従順のしもべ、また義のしもべとして歩むことができると聖書ははっきりと語り私たちを励ます。私たちの内にあるキリストのいのちは、罪の影響を受け、罪の奴隷として歩んでいた私たちをそこから解放し、キリストの義といのちに生きる者へと変えてくださったからだ。もちろん失敗をしないということではない。しかし、幾度も幾度も失敗を重ね、悔い改めを積み重ねていく中で、神様は私たちを内側から取り扱い、憐みと恵みの中で、主の勝利を私たちに与えてくださるというのだ。聖さを追い求める生涯は、恵みを数え、憐みに生かされ、示される罪を悔い改め続けるへりくだりの道だ。しかしそこに豊かな祝福がある。自らの心を振り返ると共に、主を心から愛する者とされたい。主への愛を深めることこそ、聖さを求める歩みに繋がるから。

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20170212『神に求めて生きる祝福』ヨハネ5:13-21

「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」(ヨハネ5:18)
 人生の晩年を迎えた主の弟子ヨハネは、主と共に歩んだ日々また、受けた豊かな恵みを心に留めながら、福音書に引き続き、この手紙を書き綴っているのであろう。この書の目的をヨハネは「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」と記している(13v)。永遠のいのちの豊かさを覚えると共に、それがどれほど豊かな祝福であるかをここでも3つのことを通して、記している。
 第一は、私達の祈りを主が聴いていてくださり、それに応えてくださるという確信だ。私達の願うようにすべてがなると言うのではなく、私達の願いをも主は取り扱い御旨をなしてくださる。それは雷の子と呼ばれたヨハネの人生が物語っていよう。
 第二に、永遠のいのちを与えられたキリスト者は、罪から離れていくことができる勝利だ。私達は確かに弱く、失敗を繰り返す。しかし聖霊を汚す罪からは守られ、主の御手と聖霊の導きの中、罪を示され、悔い改めへと導かれ続けていくのは、いのちの証でもあろう。主の十字架と復活の勝利に預かるものには、悪しき者は触れることが出来ないとはなんと豊かな祝福であろうか。
 第三に真実な方を知る理解力を与えられたことだ。あらゆる時に主を認め、主の真実な御手を覚えられるところにこそ、神を求めて生きる私達の祝福と勝利がある。主が共にいて下さる。

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20170205『神によって生まれた者』Iヨハネ 5:1-12

「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」                            (ヨハネ5:4,5)
 移り変わりやすいこの時代の中にあって、変わることのない神の愛、み言葉の確信に立つことができることは大きな祝福だ。
 このヨハネの手紙が記されたとき、当時の世界も非常に不安定で、教会の内外に様々な混乱があり、キリスト者たちも揺り動かされていた。しかし、主の弟子ヨハネは晩年をエペソで過ごす中、主の真理に立つこと、主の愛に生かされることの重要さを書き送っている。ヨハネは「世」という表現の中に様々な意味を込めた。しかし、その「世」にキリストは来てくださり、闇に満ちた世を光で輝かせ、いのちと喜びをもたらしてくださった。
 そして、この「世」に生きるキリスト者は、キリストにあって、この世で主と共に「世の光」として輝き、喜びと輝きを与え、世に勝利するのだと語っている。その勝利のカギはどこにあるのだろうか。それはキリストを信じることを通して新しいいのちに生かされたこと、そして神の愛を受けて主を愛する者とされた喜び、そして喜んで主のみ言葉に従う従順さにある。このみ言葉は私たちの重荷になるのではなく、私たちに自由を与え、意欲を与え、主体的な主への姿勢を生み出していく。
 どんな弱さを抱えるキリスト者も、このいのちと愛とみことばに生かされる者は、神のあかし(聖霊と水と血のあかし)を通して力を受け、御子のいのちを通して、世に勝利を与えられていくのだ。主の力を受けて、私たちもまた、今いる処で勝利を得続けたい。

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20170129『みことばにて交わり、愛に生きる』Iペテロ 2:1-5

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」          (ペテロ2:5)
 今日の午後、教会の予算総会を行う。新しい一年を主にある一致を持って進むことができることは大きな恵みだ。今の時代にも、キリスト者として歩み抜くことに様々なチャレンジがある。しかし、委ねられた子どもたち、また救いへと導かれている方々と共に、みことばに堅く立ち、主の福音を宣べ伝え、愛に生きる者とされたい。映画「沈黙」が私たちに問うことは小さくない。故小畑進師が指摘するように、その中には、主への信仰を揺るがしかねない人間的なものが刷り込まれているからだ。私たちは見極める必要がある。霊的な戦いは私たちの現実の世界にある。
 このペテロの手紙が記された時代、キリスト者に対する非難や攻撃が強まる中にあった。ローマ皇帝による直接的な迫害の手も広がろうとしている中であった。しかし、ペテロはどんな中にあっても驚くことなく、キリストの栄光に心を留めるようにと人々を導いた(ペテロ4:12,13)。そして、祈りへと心を備え、互いに愛し合い、賜物の良き管理者として互いに仕え合うようにとチャレンジを送っているのだ(4:7-11)。そして、その交わりと愛の行為の原点はみことばにあることが今日の箇所でも強調されている。
 新しく生まれた者は、朽ちることのない生ける変わることのない神のみ言葉によって生まれたからだ(1:22-25)。だからこそ、私たちはこのみ言葉を味わい続け、それに生かされ続け、成長を与えられ、救いの完成を目指していく必要がある。私たちもまた、キリストのからだなる教会を建て上げていくために、生ける石として、主に自らをささげていくことが必要だ。私たちは一人一人、どのように主に仕えていけるだろうか。共に主に従う者とされよう。

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20170115『キリストにあって生きる』ローマ6:1〜11

「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
               (ローマ6:11)
 私たちの人生には、様々な岐路がある。そこでどちらの道を歩み、進んでいくのかによって結果が大きく異なることがある。そして時に私たちは失敗する。しかし真の失敗とは何であろうか。
 人間の罪深さを明らかにするとともに、そこに溢れる主イエスにある恵みを語り、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(5:20)と記したパウロは、恵みが増し加わるために、罪の中に留まろうと考える危険性を明確に否定する(1,2v)。キリストにある者は罪の中を生きることができないこと、キリストの死にあずかったキリスト者は、その復活の勝利にも預かり、キリストにあって新しいいのちに生きる者となったことを強調している。
 しかし、私たちは日々の生活の中に、様々な葛藤があり、キロの選択の中で、主に喜ばれる道を必ずしも選択しないときもある。私たちの罪深さは単純ではない。しかし、それでも私たちは罪の中に留まらない者として、変えられ続け、歩み続けていくことができる。どんなに失敗を重ねようと、主の愛と恵みは、私たちを決して諦めず、私たちに赦しといのちと力を与え続けてくださるのだ。だからこそ、私たちはキリストと共に生きることを選び続けていくことができる。たとえ失敗があったとしても、何度でも何度でも主の前に真摯に出て、悔い改め、その実を結び、日々の生活の歩みを主にあって変え続けて戴くことができるからだ。  キリストにあって生きることは、キリストの内に生きることだ。古い自分が主と共に死んだことを認め続け、いのちへと向かい続けよう。 

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20170108『全き愛は恐れを締め出す』ヨハネの手紙第一4:16-21

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」                (ヨハネ4:18,19)
 新しい年を迎え、私たちは志を新しくする。志を高く掲げることはとても重要だ。たとえ途中で行き詰まっても、前に向かう歩みを主は豊かに祝福してくださるからだ。何よりも動機が重要だ。
 私たちの人生や日々の生活の中で、「愛」を問われることが何と多いだろうか。それは自己中心的な自己愛や、条件や交換を求める打算的なものとは異なる。それらの思いの背後には、恐れが潜んでいることがある。人からの拒絶を恐れ、自分の思い通りに行かないことを恐れ、他者からの評価を恐れる。しかし、全き愛は恐れを締め出すと聖書は語っている。私たちの内なる恐れの背後にどんな思いや動機が隠れているのか、私たちは神の前に問われ、整えられる必要があり、愛は学び続ける必要がある。
 主の弟子として生活を共にしたヨハネ達は、日々の生活のただ中で愛を学んでいった。それは誰が一番偉いかと考えてしまう自己中心的な自分の姿と向き合う日々でもあった。その罪の全てをご存じでなおも永遠の愛で愛してくださった主イエス・キリストの愛を受け取って、はじめて愛することを始めることが出来ることをヨハネは人生の晩年で深く味わっていく。私たちも日々の生活の中で、真の愛を受け取り、愛を届ける者とされ続けたい。

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20170101元旦礼拝『神の前に静まる』詩篇62:1-12

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。」                 (詩篇62:5,6)
 新しい一年が始まりました。昨年中の主にある交わりも心から感謝します。皆さまのご愛と祈り、また献身を通して主の教会が守られ、支えられ祝福されていることを心から感謝します。
 この一年もどのようなことが私たちを待っているでしょうか。移り変わりやすいものに翻弄されやすい私たちですが、変わることのない主の愛と真実の上に歩みを築き上げさせていただき、一人一人が常に静まり、避け所である主ご自身に望みを置く者とされ続けたいと願っています。揺るがされることなく主の恵みに生かされ、愛と福音を宣べ伝える教会とさせていただきましょう。

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