元旦礼拝『互いに愛し合う祝福』ヨハネ 15:7-17

  
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」                          (ヨハネ15:16,17)  新年明けましておめでとうございます。
 この新しい一年も、主にあって共に歩める幸いを感謝しています。私達は、神様の不思議な導きの中で今の歩みが与えられています。全てを神様が備え、選び、召し、そして用いようとしてくださっています。その背後には、神様の豊かな無条件の愛があることを私達は今年も心に留めて歩み続けたいと思います。
 主は私達の弱さも愚かさも全てご存じで、なお私達が実を結ぶことを期待し、時に刈り込みをして下さる。それはたとえ痛みを伴ったとしても豊かな実を結ぶための祝福だと聖書は語っている。そして、その実の中心は、互いに愛し合うことにあるとのチャレンジである。私達の中には真の愛はない。自分中心な時に身勝手な愛は容易に相手を傷つけてしまう。私達はその事実を心から認め、主の前に悔い改め続けたい。そして、自らが愛なる主によって召されたことを覚え、主からの愛を求める特権が与えられていることを日々心に留めたい。主は求める者に、豊かに与えて下さると約束して下さっている。この一年、私達は誰のために祈り、具体的な愛を表せるだろうか。主の愛を心一杯に受けたい。

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20171231『実を結ぶ人生の刈込』ヨハネ15:1-9

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」                                  (ヨハネ15:1-2)
 宗教改革から500年の節目を迎えた2017年の最後の礼拝だ。みことばに立ち、主への礼拝と賛美の改革をも成し遂げてきた宗教改革のリーダー達は、これほどの影響があるとは思わなかったであろう。しかし、彼らにではなく、主のみ言葉にこそ力があり、人を内側から造り変え、教会をも変え、豊かな実を結んできたのだ。
 まことのぶどうの木である主イエスキリストにしっかりと繋がり、霊的な交わりをし、いのちを受け取っている人は必ず実を結んでいく。霊的ないのちは私達をそのままにはしておかないからだ。御霊の実を結んでいるかどうかは、私達の側に問われているチャレンジだ。この一年、私達はどのような成長が与えられてきただろうか。私達の教会はどうであろうか、みことばに生かされ、問われ、実を結んできただろうか。
 農夫である父なる神は、私達を愛しておられる故に、私達がなお豊かな実を結ぶことが出来るようにと、刈り込みをなさるという。それは枝にとって痛みを伴う試練や苦難であろう。しかしそこにこそ主の愛と祝福がある。

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20171224『救い主誕生の喜び』ルカの福音書 2:1-20

★クリスマス礼拝★

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』」            (ルカ2:10-12)  イスラエルの民が待ち続けていた救い主・メシヤの誕生のメッセージは、寒空の中、野原で夜番をする羊飼いたちに届けられた。
 夜空を埋め尽くすような御使いたちの賛美と輝きは、孤独や貧しさ、多くの不安を抱えた羊飼いたちによってどれほどの喜びだったであろうか。人口登録にも関係がなく、証言が信用されない彼らをこそ、主は永遠の喜びの最初のメッセンジャーそして、礼拝者として用いられた。ローマに支配され、屈辱的な人口登録さえ、メシア誕生の預言の成就に用いられる主は、私達が抱える様々な問題を全てご存知で、それを用いて豊かな祝福を与えることのできるお方だ。
 彼らに与えられた「飼い葉おけに寝かせられたみどりご」は彼らにとって、探し出しやすいしるしであったろう。羊飼いは迷子となった羊を見出し、おるべき場所に連れ帰る存在だ。しかしこの時、彼らこそ、真の救い主に見いだされ、導かれ、真におるべき場所として救い主の礼拝者として招かれた。それを導いた御使いの天の賛美も、そして東方の異邦人博士たちをも礼拝者として導いた星も、救い主誕生の喜びを世界に知らしめた。それを受け取った人々を主は招かれたのだ。そして、私達も招かれている。自分自身に与えられている恵みのしるしに気づき、愛なる主のもとに心から行きたい。

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20171217『救い主の誕生への備え』ルカの福音書1:24-38

「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。」      (ルカ1:38)
 神の民イスラエルが、待ち望んでいた救い主メシヤ(キリスト)の誕生は、ナザレに住む一組の婚約者が用いられた。王家ダビデの家系のヨセフ、そしておそらくレビ族でしかも祭司の家系のマリヤだった。しかし二人は名もない貧しい婚約者達だった。
 マリヤのもとに御使いが現れた時の彼女の驚きはどれほどだったであろうか。しかもそのメッセージは彼女の人生を揺るがすだけではなく、終わることのない王位を得る男の子の誕生という想像を超えたものだったのだ。しかし主は、親類のエリサベツに大いなる業を持って、人の思いをはるかに超える誕生をご計画され、「神にとって不可能なことはひとつもない」とのメッセージがマリヤの内側の信仰を深く呼び覚ましていくことになる。
 主が彼らを用いられたことに、不思議なご計画があるだろう。ヨセフもまた御使いを通し取り扱われ、二人ともに、主の御心に自らをゆだねていくことになる。主が一人一人を愛し、主の業の為に用いられることにも心を留めたい。そして主は、小さな私達にもご計画を持って臨み、導かれ、チャレンジをなさる。  私達はどのようにそのチャレンジを受け止めていくだろうか。マリヤのように信仰を持って進み行きたい。

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20171210『神の憐みのご計画』ローマ9:14〜23

「神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」               (ローマ9:23,24)
 創造主なる神様は、私達に豊かな計画を持っていてくださる。時間と空間を創造された神の憐れみのご計画は、私達の想像を遙かに超える。神の御子キリストの来臨は、創世記3:15から既に記述されている。罪を犯した人の為に、神はすでに女の子孫としての救い主を用意してくださっていたのだ。
 私達罪人である人間は、神の愛や恵みを受けるのにふさわしくない。民の罪深い姿は、神の前に何も隠すことが出来ない。にもかかわらず、神は憐れみのご計画の中で私達を導き、憐れみの見本としてくださるだけではなく、憐れみの器に、神の豊かな栄光を知らせ、そして栄光の為の器として用いてくださるのである。しかもそれは異邦人である私達にまで及ぶ神のご計画である。陶器師である主の主権の中にあって私達は創造され、導かれていく。主権者なる主に私達は何も申し開きが出来ない。罪深い私達を貴いことの為に、神の栄光の為に用いて戴くべく、私達も自らの歩みを整えさせて戴きたい。主が愚かな者をも用いてくださることを心に留め、このクリスマスの恵みをなお深く味わう者とさせて戴きたい。

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20171126『真の豊かさと知恵』列王10::1-10

「あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、主はほむべきかな。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行なわせられるのです。」(列王10:9)
 ソロモンの知恵は際だっており、周辺諸国にその噂は鳴り響いていただろう。シェバの女王が、主の名に関連してソロモンの名声を伝え聞き、難問をもってソロモンを訪ねた。ソロモンの知恵というだけではなく、「主の名に関連して」という表現に、ソロモンの知恵の源が明確にされ、女王が聞きたかったあらゆる難問にソロモンが、神の知恵を持って答えたことが想像される。
 女王の驚きは、その答えだけではなかった。宮殿や料理、従者の態度・服装、神への礼拝のささげものに驚きを隠せなかったのだ。そこには、神を見上げ、礼拝し、神を中心とした王国の姿、そして神の祝福を彼女は目の当たりにしたのだろう。
 しかし、異邦の女王が神を見上げ、賛美しているのに対し、ソロモンは神から与えられた知恵や、豊かさ、権力等を神を誉めたたえるためではなく、自分の栄光や力を示すために用い、その心が神から離れていく。豊かさの中に生きること自体の中に、誘惑があり、悪しき者の攻撃があることを忘れてはならない。
 ソロモンは、主がモーセを通して民に語った「王のあり方」を逸脱していく(申7)。それはサムエルが警告していたことでもある。真の豊かさと知恵に生かされる歩みは決して簡単ではない。しかし、主は私達の人生の祝福のために、真の王をこの地上に送られる。ダビデの子孫としての祝福は真の救い主にこそある。

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20171119『永遠の希望』I コリント15:48〜58

「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。の後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」     (コリント15:3〜6)
 今日は召天者合同記念礼拝をささげます。愛する大切な方を天に送られた方々の合同であると共に、天に帰られた方々と地に残る私達の合同の礼拝であることにも心を留めたいと思います。そして一緒に私達の地上の人生、また永遠を考えましょう。
「キリスト教の葬儀は明るいですね」と良く言われます。その原点がキリストの復活にあることは言うまでもないでしょう。キリストは、私達の罪のために十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえって下さったからです。そしてその永遠のいのちの希望は、キリストを救い主として信じる全ての人に与えられると聖書ははっきりと約束しているのです。
死を恐れ、死から逃げたい、死への現実を避けたいと私達は願います。しかし、私達は必ずその時を迎え、多くの信仰の先輩達が、その中にあって永遠の希望に生かされ、平安と喜びを持って天へと凱旋されたことを覚えたいと思います。そして私達もそうありたいのです。「死は勝利に飲まれた」とあるとおりに、キリストの勝利は、あらゆる恐怖をうち破ります。真の希望に生かされる時にこそ、私達は「今」を本当の意味で生きることができ、堅く立って動かされないわざを行うことができるのです。キリストにあってこそ真の平安があり、決して無駄ではないからです。

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