20171126『真の豊かさと知恵』列王10::1-10

「あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、主はほむべきかな。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行なわせられるのです。」(列王10:9)
 ソロモンの知恵は際だっており、周辺諸国にその噂は鳴り響いていただろう。シェバの女王が、主の名に関連してソロモンの名声を伝え聞き、難問をもってソロモンを訪ねた。ソロモンの知恵というだけではなく、「主の名に関連して」という表現に、ソロモンの知恵の源が明確にされ、女王が聞きたかったあらゆる難問にソロモンが、神の知恵を持って答えたことが想像される。
 女王の驚きは、その答えだけではなかった。宮殿や料理、従者の態度・服装、神への礼拝のささげものに驚きを隠せなかったのだ。そこには、神を見上げ、礼拝し、神を中心とした王国の姿、そして神の祝福を彼女は目の当たりにしたのだろう。
 しかし、異邦の女王が神を見上げ、賛美しているのに対し、ソロモンは神から与えられた知恵や、豊かさ、権力等を神を誉めたたえるためではなく、自分の栄光や力を示すために用い、その心が神から離れていく。豊かさの中に生きること自体の中に、誘惑があり、悪しき者の攻撃があることを忘れてはならない。
 ソロモンは、主がモーセを通して民に語った「王のあり方」を逸脱していく(申7)。それはサムエルが警告していたことでもある。真の豊かさと知恵に生かされる歩みは決して簡単ではない。しかし、主は私達の人生の祝福のために、真の王をこの地上に送られる。ダビデの子孫としての祝福は真の救い主にこそある。

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20171119『永遠の希望』I コリント15:48〜58

「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。の後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」     (コリント15:3〜6)
 今日は召天者合同記念礼拝をささげます。愛する大切な方を天に送られた方々の合同であると共に、天に帰られた方々と地に残る私達の合同の礼拝であることにも心を留めたいと思います。そして一緒に私達の地上の人生、また永遠を考えましょう。
「キリスト教の葬儀は明るいですね」と良く言われます。その原点がキリストの復活にあることは言うまでもないでしょう。キリストは、私達の罪のために十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえって下さったからです。そしてその永遠のいのちの希望は、キリストを救い主として信じる全ての人に与えられると聖書ははっきりと約束しているのです。
死を恐れ、死から逃げたい、死への現実を避けたいと私達は願います。しかし、私達は必ずその時を迎え、多くの信仰の先輩達が、その中にあって永遠の希望に生かされ、平安と喜びを持って天へと凱旋されたことを覚えたいと思います。そして私達もそうありたいのです。「死は勝利に飲まれた」とあるとおりに、キリストの勝利は、あらゆる恐怖をうち破ります。真の希望に生かされる時にこそ、私達は「今」を本当の意味で生きることができ、堅く立って動かされないわざを行うことができるのです。キリストにあってこそ真の平安があり、決して無駄ではないからです。

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20171112『地の塩・世の光として』マタイ5:13-16

「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」     (マタイ5:14-16)
 イエス・キリストは、山上の説教の中で、弟子達に豊かなチャレンジをなさった。それは、まだまだ未熟で何も分からない弟子達にとってとまどうような内容であった。しかし、主は欠けの多い弟子達の中に、神の国の民としての姿勢を見て下さっており、彼らにチャレンジをなさったと言えるだろう。
主は彼らを「地の塩」「世の光」と呼ばれたのだ。地の塩は当時も重要な存在だった。食物に味と旨みを与え、腐敗を防ぎ、栄養を与えるかけがえのない存在であり、死海の塩は今なお全世界へと届けられている。世の光は、暗闇を照らし、周りを温める。そして光は隠れてはならない。人々の中にあって、自らに与えられた輝きを示し、届け、そして人々が神をあがめることが出来るようにと整えられ続けていくのだ。弟子達の現実はそれにほど遠いものであり、私達も同様である。しかし、主の私達へのビジョンは小さくない。どんな未熟さや愚かさを抱えていても、私達は置かれたところで、地の塩・世の光としての歩みをなすことができると聖書は語っている。私達の現状を越えて、主は私達のうちにある望みや希望、可能性に目をとめ、そして導いて下さる。諦めることなく、主の光を輝かせ続けたい。

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20171105『神の子の祝福』マルコ10:13〜16

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」  (マルコ10:14,15)
現代のように子どもが大切にされるのは、新約聖書の時代では考えられなかったようです。それは女性も同様でした。
救い主キリストのもとに多くの子どもたちが近づいてきたとき、弟子たちは、それをとどめました。しかし、キリストは上記のように語られたのです。神の御子キリストは、子供も女性も大切にされ、どんな小さな存在にも神の愛を届けたのです。そして、こどものような素直な心で「神の国」を受け入れる大切さと共に、神の国はこのような子どもたちのものだと語られました。
 子どもが親を信頼する心に、私たちは教えられます。またその心を押しつぶすことのないように、家庭の中にあっても、社会の中にあっても、大人に求められる誠実さと成熟があるでしょう。誰もが子どもの時代を通りました。そして子どもの様な素直な心を忘れてはならないと主は語られます。それは子供っぽいことではなく、どんな苦難の中であろうと、悲しみの中であろうと心から神に信頼し、その言葉に渇き、求め、従う心を表わしているでしょう。また神の国を受け入れるということそのものが、神の御心が私になるようにとの祈りと信頼を示しているでしょう。私たちはどのように神の国、神のご支配を今の現実の生活の中で受け入れているでしょうか。神の国に入ることのできる者とさせていただきましょう。主はあなたを祝福しようと待っておられます。

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20171029『賛美の祝福』〜宗教改革記念礼拝〜コロサイ3:12-17

「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」     (コロサイ3:16)
 マルチン・ルターがヴィッテンベルクの城教会の門に95か条の提題を張り付け、「聖書に戻る」ことを中心とした宗教改革が始まって今年で500年目を迎える。続く宗教改革者達が闘った歩みは、『5つのソラ』: 「聖書のみ」 (Sola scriptura)、「信仰のみ」(Sola fide)、「恵みのみ」 (Sola gratia)、「キリストのみ」(Solus Christus)、「神の栄光のみ(神にのみ栄光を)」 (Soli Deo gloria) に代表される。何よりも最終的な権威は、人にではなく、神のことばにあることが確認されたことは大きな事だった。
 コロサイの教会は、当時の間違った教えに振り回されていた。しかし、その教会のためにパウロが語ったのは、「キリストのことば」を人々の心、生活、交わりの中に豊かに住まわせ、互いにみことばを通し、その知恵を尽くして、互いに教え合い、戒め合うこと。そして第二には、詩篇と賛美と新しい霊の歌とによって、感謝に溢れて、主に向かって賛美をささげることにあった。
 ルターは多くの賛美をみことばに基づき作詞し作曲した。讃美歌267に代表される多くの神への賛美は、5つのソラに基づくものと言っても良いだろう。それは宗教改革を生きた信仰者の原点であり、生涯の指針であり、宝であった。
 私達は何を宝として生きているだろうか。どこに価値を置いているだろうか。聖書・信仰・恵み・キリスト・神の栄光に私達も基盤を置き生かされ、なお豊かに神を愛する者とされていきたい。

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20171022『神と共に歩む』I 列王記9:1-5

「あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正しさをもって、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、わたしが、あなたの父ダビデに、『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれない』と言って約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上に永遠に確立しよう。」    (列王9:4,5)
 神の臨在を表す神殿建設は、ソロモンの父ダビデの時からの悲願であった。ソロモンは、知恵と財、宝と力の全てを尽くして、神への礼拝の場を建てあげ、神にささげる。それは、神ご自身が「わたしの名をそこに置く」(8:29)と主の臨在を約束して下さった故だ。建物や建設という事業そのものに依存するのではなく、ソロモンの献身として、その神殿は建てられた。それゆえソロモンは8:23以降の主への祈りをささげることができたのだろう。
 その祈りに対する応答が、この9章の前半にある。主はソロモンだけではなく、神の民とその子孫(6v)神の前を真実に生き、神と共に歩むことを求められる。しかし、それは豊かな祝福が約束されていたチャレンジであった。ダビデは確かに大きな過ちを犯した。しかし、真に悔い改め、神の前を誠実に歩む者へと変えられ続けていったのだ。主は神の民にそれを求められる。
 しかしソロモンは、神殿建設に莫大な財をささげ、協力したエブス人ヒラムにたいして、不誠実な対応をした。神への姿勢は容易に人への態度に表れる。「神と人との前に好意と聡明を得よ」(箴言3:4)と主は語られる。そして続く6,7節を心に刻まなければならない。私達はどのように神の前を歩んでいるだろうか。主は私達の心と共に、その態度や姿勢に心を留められる。

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20171015『神の選びの恵み』ローマ9:1-13

 「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。」                   (ローマ9:11,12)
 神様の選びは、本当に不思議だ。その人がまだ生まれもせず、また何の歩みもないうちに、恵みの選びを与えられる。実際、イサクの息子たちの中で、神はエソウではなく、ヤコブを選ばれた。兄は弟に仕えるとのことばを神は双子の誕生の前に、母リベカに与えていたのだ。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と聞くと神に不公平さがあるように感じてしまう。しかし、聖書は「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」と私たちに語る。
 神の選びは、私たちには理解できない時がある。しかし実際エソウは神の前を歩まず、ヤコブは多くの問題を抱えながらも神の取り扱いの中で変えられていく。主の選びは、ただただ恵みである。自らを誇ることのできる者は一人もいない(コリント1章)。
 それは神の民とされたイスラエルにとって大きなチャレンジだった。神の民との自負を持っていたからだ。しかし主は、そのひとりひとりの内側にある心を問われる。全てをご存知の主の憐みの中で、私たちは生かされていく。
 それゆえ私たちは、決して心を頑なにしてはならない。主に取り扱われることを受け入れ、葛藤や悩みの中で私たちは変えられていくからだ。パウロはキリスト者の成長の為に、自らが呪われることさえ願う。他者の成長の為にも祈る者とされたい。

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