20190317『復活の勝利に生かされて』ローマ4:24,25 

「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ4:25) 今日は、イースター・スペシャルの礼拝として、約1ヶ月早くイースターの勝利を覚えたいと思います。<ライフライン収録>
復活の勝利は、私たちが毎週礼拝で確認すべき事だと癒えるでしょう。その勝利を記念して私たちは日曜の朝に主を礼拝するからです。私たちはその勝利に生かされているでしょうか。
主イエスは、私たちの罪の身代わりとして十字架で裁かれ、私たちの救いといのちの道を開かれました。そして主は私たちが義と認められるためによみがえられたと聖書は証しします。主の復活の確かさはキリストの墓は空であり、遺体がなかったこと、復活した主の目撃者の存在、主の弟子たちの変化、主を礼拝する日をあのユダヤ人が日曜日に変えたこと等が挙げられるでしょう。私たちは、救いの確かさを主の十字架と復活の事実の上に置くことができるのです。
それゆえ私たちは主の復活の勝利に生かされ、救いと、永遠のいのちの確かさに生きること、死や裁きを恐れずに真の希望を持つこと、共におられる復活の主と共に苦難の中をも生きること、この勝利の喜びを苦難の中にある人々にも届けることができるのです。私たちの人生を変える勝利を主キリストは成し遂げられました。その希望と勝利に日々生かされましょう。

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20190310『収穫のための働き人』マタイ9:35-38

「イエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」          (マタイ9:37,38)
主イエスのもとには、様々な病気や患いを持った方々が集まってきた。しかし主がなさったことの第一は、その癒しではなく、町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えられたことであることに心をとめたい。私たちはともすれば、自分の願いを果たすために神を利用しようとしてしまうからだ。祈りの中心は、私たちの内側が変えられることでありたい。主は群衆を見て深くあわれまれたと記されている。主がご覧になるのは、私たちの心の状態なのだ。そして主の目には、彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れている状態が明確に見えていた。私たちはどうだろうか。他の人の状態も、自分の状況も、外側に見えることや評価されることで判断してしまいがちではないだろうか。主は私たちの魂の状態をご覧になるだけではなく、その真の救いと癒しを人々に与えるために人を用いられる。
そして主は、弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない」こと、そして、「収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と命じられたのだ。それは主の働きに参与するためへの招きであるとともに、彼らへの信頼への証でもあった。私たちも主の収穫のために、人々が主のもとに集い新しい人生を歩むために、自らをささげたい。主は私たちを用いて下さるからだ。

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20190303『主の愛と奇跡』マタイ9:27-35

「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。」                        (マタイ9:35)
先に主イエスは、12年間長血を患っていた女性の病を癒し、また会堂司ヤイロの12歳となっていた娘を死からよみがえらせた。創造主である主イエスにとっては、その愛のわざは至極当たり前のように私たちは感じてしまうのだが、そこには主の愛の犠牲があることを忘れてはならない。人となられた主は、自らの愛と癒しの力を注ぎだして、人々を癒され、そこに平安と慰めを豊かに与えておられたからだ。時に、目の不自由な二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながら主について来た。主はその人達に「わたしにそれができると信じるのか」と問われたのだ。主は単に癒しを行なわれることを目的とされているのではない。その人の内側にある信仰を引き出され、真の成長へと招かれているのだ。彼らが、「はい、主よ」と答えると、主は彼らの目に触れ、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。すると、彼らの目が開いたと記されている。主は人々の信仰を引き出され、そのとおりに…と愛と奇跡のわざを行なわれる。それは、今の私達にも共通することではないだろうか。どうしても自分の願いや思いが先走りやすい私達だが、私たちの信仰はどのような状態なのか、どのように主に向かい、主に仕え、人々に仕えようとしているのか、私たちの信仰の姿勢を主は問われ、引き出される。新年度も主にある成長を与えられたい。

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2190224『主の不思議な計画』列王記20:13-34

「主はこう言われる。『アラム人が、主は山の神であって低地の神ではない、と言っているので、わたしはこの大いなる軍勢をすべてあなたの手に渡す。そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る。』」                 (列王20:28)
アラムの王ベン・ハダドは、北イスラエルの王アハブの前に自国の強さを誇る。アハブは恭順の意を示しつつも、長老たちの意見、またハダドの傲慢さ故、ハダドへの警告を与える。アラムは大群でイスラエルを攻めるが、主は不思議にも一人の預言者を通して、アハブを備えさせた。主に背き続けたアハブをさえ、主は勝利の為に用いられ、アラムに勝利する。しかしそれはアラムの傲慢を打ち砕き、主こそ主権者であることを示すためであった。逆転の敗北を喫したアラムは、負けを認めない。そして一年後、今度は平地で戦えば勝てると考えた。そこにも神の前に進み出ない傲慢さを見ることができる。そこに私たちの姿もある
主はこの時もご自身の主権を示すために、アハブを通し、またご自身のわざを通して圧倒的な勝利をイスラエルにもたらされた。それはアハブの勝利ではなく、主の勝利であった。アハブもまた、憐み豊かな主の御前に整えられる必要があったし、先の危機からの勝利も、この勝利も主の招きであったのだ。
しかし、アラムの王ハダドが自分の前に助けを請い求めた時、アハブは軽率にもハダドを兄弟と呼び、アラムを助けてしまう。そこには主の勝利をまるで自分の勝利であるかのように考えたアハブの傲慢さと愚かさがあった。聖絶しなかったアハブの前に預言者が立つのだ、私たちの心はどうだろうか。

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20190217『人々と共に歩む』ローマ14:13-23

「このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう」                        (ローマ14:18,19)
私たちは、自分の内側にある基準で人を裁きやすく、時にはそれで人を傷つけてしまう。私たちは常に自分の内側にある判断基準や価値基準を聖書によって整えられ続ける必要があるとともに、自分の正義を振りかざしてはならないのだ。
私たちは、神の前に真実に歩むことが求められる。それは私達を愛してやまないキリストの愛に応答することであり、キリストに仕える者は、人々にも仕える者とされ続ける。それは神に喜ばれることであり、人々にも理解され認められるへと向かう。この文脈の中には、食事規程のことが挙げられている。旧約聖書にある食事規程がことさらに気になる方もいれば、恵みの事由に生かされる人もいる。しかし私達は他の人の心に寄り添いつつ、愛をもってともなる歩みを心がけていく、キリスト者にとっては愛こそ自由を行使する上での基準であり動機でもあるからだ。その人のためにもキリストが死んで下さった方々の心を踏みつけるようなことがあってはならない。しかしそれによって真理が歪められてはならない。私たち自身が神と共に歩み、その愛と真実に生かされて私たちは、人々と共に歩む者とされ続けたい。主は私達と共にいて、私たちの歩みを支え続けて下さる。  平和に役立つこと、互いの霊的成長に役立つことを求めたい

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20190127『恐れの中、主の細き御声』I列王記19:8-18

 
「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」                (列王19:18)
カルメル山でのバアル・アシェラの預言者たち850人とエリヤの戦いは、エリヤの仕える主の大勝利であった。とどめられていた雨も、主の恵みによって豊かに与えられたのだが、イスラエルの王アハブは主に悔い改めることをせず、ことの次第をすべて王妃イゼベルに告げ、イゼベルはエリヤの殺害を宣告した。
大勝利を収めた後のエリヤは、このイゼベルの言葉に意気消沈し自分の死をも願ったのだ。どんな勇士も預言者も人間であり、弱さを抱えている。極度の緊張と疲労で燃え尽き寸前であったエリヤを御使いが励まし、彼を神の山ホレブに導いた。そこは主の臨在の場であり、モーセが十戒を与えられた場であった。そこで主の細き御声をきいても、エリヤはなおも立ち上がることができない。このエリヤの問題の一つは、孤独であった。主に熱心に仕えたが、私だけが残ったのだとの思いはそれを表しているであろう。しかし、主はご自身の臨在を示すとともに、彼に新しい使命として、彼に代わる預言者エリシャに油をを注がれるようにと示された。それは次世代へバトンを渡すチャレンジであるとともに、彼の孤独に慰めと力を与えるものであったろう。そして、主はエリヤにさらに七千人を残していたことを告げる。主は私たちを決して見放さず、見捨てない。私たちに慰めと力と同労者を備えて下さるのだ。主の臨在の中を歩み続けよう。

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20190120『弱い自分を認め、共に歩む』ローマ 14:1-12

「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」                        (ローマ14:8)
私たちは、キリストにあって「自由」が与えられている。しかし私たちはその自由を自分勝手な意味で理解し、自分のためにだけ使おうとしてしまいがちである。聖書は私たちに、「あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい」(ガラテヤ5:13)と勧めている。私たちは与えられている自由を他者に仕えるために用いるのだ。また私たちは他のキリスト者を裁きやすい。自分の価値観で、他の人の考えや行動を判断してしまうのだ。しかしそこには誤解が入り込みやすい。人の心の奥底にあるものを私たちは理解できないからだ。
私たちは、生きるにしても、死ぬにしてもそれを主のためにし自分自身が主のものであることを認めるようにと聖書は語っている。それは自分の愚かさや弱さを認めることから始まる。私たちの罪のために主がいのちを投げ出して下さったからだ。それゆえ私たちは誰もさばくことができる立場にない。それどころか主の愛に生かされ、その愛を人々に届ける者とさせていただけるのだ。私たちは、他者のために生きることの中に、本当の喜びを見出すことができる。そのように私たちは創られているのだ。私たちも主の愛に生かされ、その愛を仕えるために用いたい。

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