20181111『真の勝利と愛』マタイ8:28-34

 「すると見よ、彼らが叫んだ。『神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。』」                 <マタイ8:29>
 ガリラヤ湖の嵐を静め、ご自身の愛と主権を表した後に、キリストが弟子たちとともに辿り着いたのは、ゲラサとも呼ばれるガダラ人たちが住む場所であり、ガリラヤ湖の南東であった。そこは切り立った断崖が湖に突き出ている場所で、異邦人が多く住むデカポリスの地域に含まれていた。そこに悪霊につかれた人が二人いたが、マルコやルカはその内の一人に注視している。彼らを人間の力で抑えることはできなかった。
彼らを何度も苦しめた悪霊は、キリストがどのようなお方かを知っており、裁きの時があることを自覚していたようだ。この悪しき霊はレギオンという名を名乗り、キリストの永遠の裁きを避け、豚に移ることを願い出た。そして2000頭の豚がその犠牲になった。キリストは豚2000頭よりも、この悪しき霊につかれた彼らを尊重し、解放されたのだが、豚を飼っていた人々からはその愛は理解されなかった。しかし、悪しき霊から解放され、本来の姿に戻った彼らの姿は、人々にとって驚きであったろう。キリストの力が明確に示されたのである。解放された彼らは、キリストに従うことを願い出たが、主はそれをお許しにならず、家に戻り、証しすることをチャレンジした。そしてこのデカポリス地方で主を証した。主は、恵みによって人を変え、愛を伝える器とされる。

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20181104『主の主権と子どものような信頼』マタイ8:23-27

 「イエスは言われた。『どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。』それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。人々は驚いて言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。』」 <マタイ8:26,27>
 私たちは、日々の生活で様々な出来事に遭遇する。その時に出来事の何に目を留め、心をとめるだろうか。
 ご自身の主権をもって、病の方々を癒された主イエスの愛の姿を目の当たりにしていた弟子たち。彼らはキリストとともに舟に乗り、漕ぎ出した。しかし、嵐によって湖は大荒れになり、彼らはこともあろうに、休んでいたキリストを起こし、怒りを露わにしたのである。彼らの多くはこのガリラヤ湖で働いていた漁師であった。嵐も当然経験してきたことだろう。しかし、想像を超えた嵐だったのだろうか。自分の身に危険が及ぶとき、それまで主とともに歩む中、経験した主の癒しの業や奇跡は、何の意味も力もなかったのだろうか。
 私たちもまた、自分自身の信仰が、どのようなものなのかを問われる時がある。冷静な時や、平和な時は、心から主に信頼し、主に従うことも公にし、告白していたとしても、自分の想像を超えるような危機、プライドが踏みつけられるような経験、主が共にいることを感じえないという不安…様々なものによって私たちの心には嵐が吹きすさぶのだ。しかし、主は弟子たちだけではなく、私たちをもそのような嵐へと招かれる。そして私たちの主への信頼を問うて下さる。それは愛と恵みのゆえである。そして私たちの信仰は育まれていく。

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20181028『この地に生きる恵み』ローマ13:1-7

 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。…善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。…すべての人に対して義務を果たしなさい。」                   <ローマ13:1,3,7>
この地上に生きる私たちの歩みは、それぞれに置かれている場所、また時代によって様々な違いがあります。しかしどの時代、どの国にもその国をつかさどる権威者がおり、その権威に従うことが求められます。ローマ書が記された時代も、神の民イスラエルは、大国ローマの支配下にありました。熱心党からも主イエスの十二弟子が選ばれたように、人々の内側には、ローマを打ち倒して、神の国イスラエルを再興してくれるメシヤを待ち望む思いがあったのです。しかし、実際の救い主キリスト(メシヤのギリシャ語)は、ローマを倒すことではなく、悪しき霊を滅ぼし、神の民を罪から贖うためにまっすぐ十字架に向かわれたのです。それは当時の権威者であるローマの手によって十字架刑という死刑を受けることでした。
 しかし、キリストは、その贖いによって真の神の国を建て上げる備えをなさったのです。どの時代、どの国にあっても、そこには権威があります。しかし私たちの主は、それを打ち倒すのではなく、愛をもって服従し、善を行い、全ての人に対する義務を果たすことができること、そのことを通して神の栄光が荒らされることを大胆に語ったのです。地上における真の権威に服従するとき、真の神の国の完成を目指し、忍耐と祈りと誠実さに生きることができるのです。

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20181021『神からのリマインダー:祝福の約束』創世記12:1-4

 神はアブラハムを召し出され、その子孫を世界のすべての民族へ祝福を運ぶ器とすると宣言されました。
これは、ハランで初めて語られた神の言葉のようにも読めますが、聖書の他の箇所を見ると、神がカランで初めてアブラハムに語られたことではなく、未だメソポタミアに居た時に既に語られていたことをカランでもう一度語られたことばであったのではないでしょうか。忘れっぽい私達にもしばしば、リマインダーが必要です。思い起こさせ、思い出させてくれるもの、もう一度やり直すように、もう一度取り組むように、もう少し進むようにと励ましてくれるみ言葉が私たちには必要なのです。神はアブラムを用いようとして、このリマインダーを出されたのです。
 さて、今、神は私たちにどんなリマインダーを送ってくださっているでしょうか。リマインダーを与えて下さる神の恵みと哀れみに対して、アブラハムもまた信仰をもって答えました。アブラハムがハランを出たときは、75歳。それでも主の言葉に従って出て行ったのです。アブラハムは神の民として歩むべき姿を身をもって示したのです。アブラハムは、その後 行く先々で主のための祭壇を築いて、祈りました。礼拝する民として生きたのです。礼拝する家族の長として、何処へ行っても、どんな立場になっても、主を第一にして歩む姿がありました。
 世界中のあらゆる人々と民族に神を礼拝する民となるか否かの選択が可能になるように、神のみ言葉を届け、福音を伝えるために、私たちは絶えず神からのリマインダーを受け取って従って行きたいものです。 (土井 彰師)

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20181014『主に従う恵みと祝福』マタイ8:18-22

「イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。』また、別の一人の弟子がイエスに言った。『主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。』ところが、イエスは彼に言われた。『わたしに従って来なさい。』」                   (マタイ8:20-22)
 時に私たちは、主イエスの人々への対応が冷たく感じ、驚くことがある。主イエスについて行きたいと語る律法学者に、主は本当に覚悟があるのかと問われた。真理を知り、その通りに歩みたいと願う私たちも、自分たちの現実の生活に不利益な影響が出てくることが分かると私たちは、とたんに従ったことを後悔したり、引き返したりしたいと願ってしまう。不信仰のゆえに荒野をさまようようになったイスラエルの民と同様の心に私たちもなりやすい。寝食を奪われ、安全をはぎ取られるようななかでも、真理でありいのちであるキリストに従うことは、決して容易なことではない。さらに別の弟子のひとりが、父を葬ることを許してほしいと願ったとき、主は、それよりも自分に従うように彼を招かれた。父がいのちを落としたときでさえ、そんな厳しく冷たい対応をするのかと私たちは誤解してしまうが、彼の父が亡くなったという状況なのかどうか実は分からない。安定したあり方、慣れた環境を捨てられない弱さが私たちにもある。主は全てをご存知で招かれる。 

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20180930『粉も油もいのちも…』列王17:8-24

「主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。『ご覧なさい。あなたの息子は生きています。』」 <列王17:22,23>
 私たちの人生には、様々な痛みが伴う。それは天災によるものもある。エリヤが置かれている状況は、北イスラエルにあって、神に背く王アハブとの対峙にあった。天候をつかさどると言われるバアルへの対抗として、雨が留められる。そして、エリヤはバアルやアシェラの預言者たちと闘うことになる。主は困難な状況をも用いられる。全てのことの中に主を認める信仰を与えられたい。エリヤはこの旱魃の中で、食べるものにも窮する。しかし、主は不思議にもカラスを用いて、彼を養われる。普段ならば奪う存在が与える存在となる。主の不思議さの恵みを思う。さらに、エリヤを一人の女性が助け養う。その彼女の持つ器が粉や油で満たされることを通して主はエリヤを助けられた。私たちが所有する小さなものがそのまま用いられることに、感謝するとともに、私たちは普段の歩みをどう備えることができるだろうか。
 そしてその女性の子供の死という試練が重なる。痛みが重なる中にあっても、エリヤは主ご自身を信頼し続ける。そして主はエリヤの祈りと信仰に応えてその子にもう一度いのちを与えられた。主はご自身の主権を明確に示される。そして圧倒的な勝利をこのあとエリヤを通して示される。どんな時にも主に信頼したい。

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20180923『愛と真実に生きる』ローマ12:9-21

「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」<ローマ12:17,18>
 先週米国で、リーズナー宣教師ご夫妻と恵みの交わりを与えられた。私たち日本人への宣教のために、どれほど多くの犠牲が払われ、愛の祈りがささげられているか、また先生方が良き交わりを築きあげ、誠実に歩み続けてこられたかを垣間見ることができ、本当に感謝だった。キリスト者の交わりの原点に、キリストの平和と、キリストと、またキリストにある愛の交わりがある。
 パウロは、ローマの教会に信仰者として歩む重要な姿勢としての献身とこの世の流れではなく、神の御心にかなう歩みをするチャレンジをした後、具体的に信仰者としての歩みを語っていく。その歩みは、他者とどのように共に歩んでいくかという事であり、愛と真実を持って生きるようにとの促しである。それは、私たちキリスト者の歩みが、地に着いたものであり、地の塩、世の光として人々に、どのように主の真実を届けているかと言うことだと言えよう。隣人を愛さずに、主を愛することができず、他者を赦し、受け入れずに、主からの赦しを受けることができないと主イエスが語られたように、私たちの歩みは、今の現実を、明日からの社会や学舎、また家庭での歩みがどのように整えられ続けていくのかということにある。35周年を迎えるキリストの教会に集う私たち。私たちは、どのような成熟が与えられているだろうか。主の前に静まり、歩みをふり返ると共に、主ご自身に聴く心従う心を与えられたい。真のリトリートは主の前に出ることから

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