20190818『とりなし手として神と人に仕える』ローマ15:14-17

「私は、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。」                    (ローマ15:15,16)
パウロは、ローマ書を記す時にはまだローマを訪れたことがなかった。当時の中心都市であったローマには、各地で主に導かれ救われた人々が集まって来ていた。そこには多くの異邦人もユダヤ人も共存し共生する主の教会が誕生していた。その為にパウロはこのローマ書を記し、最初に教理的な重要なことを整理して記し、後半では信仰の歩みについて具体的な勧めを記してきたのだ。最後の締めくくりの時を迎え、パウロは自らの使命を再掲する。それは「異邦人のための器」として、神と人に仕え、異邦人もまた、神に喜ばれる聖なるささげ物となる事であった。パウロは、そして聖書は、私達キリスト者が皆、成長し、神に喜ばれる存在、地上に生かされると共に聖なる神の物として、また共に神と人に仕える存在として成長するようにとチャレンジする。それは使命を共有することであり、互いに仕え愛し合うことであった。それはまた他者のためにとりなし祈る使命でもある。私達は誰のために祈り続けているだろうか。主は決して私達を諦めない。私達も互いに仕え、愛し赦し祈り合う者とされたい

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20190811『神の民として生きる』ペテロ2:9-12

「あなたがたは旅人、寄留者なのですから、… 異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。」  (第1ペテロ2:11-12)
ペテロは、色んな国に散らされていた神の選ばれた人たち(特にユダヤ人でない人々)へ、この手紙を書き送った。彼らは、神の栄誉を告げ知らせるために、神によって召されていた人々だった。神のものとされた彼らは、周りの人たちと違う生き方をするように召されていた。神の民として、神に喜ばれた生活を送るように勧められていた。地上の国籍を超えた神との関係を優先にして、キリストに従うように歩む人となっていた。   この手紙の中で、三つのことが繰り返して強調されている:
1 善い行いをして、神をあがめる生活をすること。
2 そうすると、苦しみや迫害を受けるかもしれない。そうしたら、幸いなことだ。
3 他の人を恐れず、神を恐れて、神のために生きること。
神の大きな憐れみによって、私たちは、神の驚くべき光の中に召されている。私たちの立場に反対する社会の中にあっても、神の助けをいただきながら、キリストに従う生き方をして神の栄光を表して行こう。

メッセージ:リーズナー宣教師

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20190804『不当な苦しみを神に任せる』ペテロ 2:18-25

「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。」 (第1ペテロ2:21b, 23b)

信仰者は何のために召されているだろうか?良いことをして反対を受けたら、それを耐え忍ぶためにだ。(2:20)まさにそのことをされたキリストは、私たちに模範を残された。(2:21)私たちは、その足跡に従うようにと召されている。
どうやってそれができるだろうか? 秘訣は23節にある。「キリストは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられたも、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。」
神は、愛の神であり、正義の神でもある。神は、ご計画の中で決められているときにすべてを正しくさばかれる。聖書の中で、「誰に対しても悪に悪を返すな」と何度も教えられている。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」と主は言われる。
自分を傷つけた人がいるだろうか? その人をどうしても赦せないと思っている? 罪びとであるあなたのために十字架に掛けられたキリストのこと覚えよう。キリストと同様に、自分に起こる不当なことすべてを正しくさばかれる神に任せよう。

メッセージ:リーズナー宣教師

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20190728『時が満ち、神の国が近づいた』マルコ 1:14-15

「時が満ち、神の国が近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい。」     (マルコ1:15)

私は日本に来る前に、北朝鮮の核の問題やミサイルのことでとても不安を感じたことがあります。軍隊経験者である私はそれらの恐ろしさをよく知っているからです。日本に来た後は、自然災害の恐れから不安を覚えたりします。世界、どの国においても色んな問題と不安がありますね。平和、平安がある正しい国は存在しないのか。と考えさせられます。そんな中で、私は2年前に母を癌で亡くしました。このことは、人生について深く考えさせられる機会となりました。なぜ、人間は死ぬしか出来ないのか。死に対する恐れ。恐れがない国はないのか。これらに対して、聖書はちゃんと答えています。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
聖書は罪に満ちて不安だらけのこの世界に、神の国が近づいたと述べています。平安があり、正義がある国。永遠のいのちがある国。それが神のみ国であります。誰でも、どんな罪人でも、悔い改め、福音を信じるならば、入ることができます。罪に満ちた世界に、救い主イエス様が治めるみ国が近づきました。真の神に立ち返え、福音を信じ、王なるイエス様に従いましょう。そこには平和、平安、正しさ、永遠のいのちがあります。罪の赦しがあります。そこには真の喜びがあります。

(メッセージ:金神学生)

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20190721『追いやられた主』マルコ1:12-13

「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。」
(マルコ 1:12)
命題: 試みや試練がある荒野のような人生の中で、
頼るべきお方は神の子主イエスキリストです。
序.  試みや試練を受けた時があるか。
本論
1. 試みや試練を受ける時、福音とは何か?1節
1.1. 福音とは主人が変わることである。
1.2. 今私たちは誰に従っているのか?
2. 福音が始まると現れる三つこと
2.1. 試みが神の主権の中にある。12節
2.2. 勝利されたイエス・キリストがおられる。13節
2.3. 助けと奇跡を体験するイエス様との交わりがある。
(ヘブル1:14; 2:18)
結論.
試練がある荒野のような人生の中で、今私たちは福音が始まっているのか。毎日主イエス様のみことばから、励ましを求めているのか?祈りの中で、イエス様との交わりを深めているのか。混乱の時こそ、勝利者イエスとの深い交わりを味わう良い機会である。荒野に追いやられたイエスは私の真の主である。

(メッセージ:金神学生)

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20190714『おいでになるはずの方』マタイ11:1-6

「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」     (マタイ11:5,6)
主の御心に従い、人々に悔い改めを語り、王をも恐れず裁きを語り、真実な悔い改めを求めたバプテスマのヨハネは、捕らえられマケルスの要害に入れられていた。彼自身、主キリストに会い、「罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と紹介していたのだが、主の噂を獄中で聴く中、真実を確認しようとしたのだろうか。
「おいでになるはずの方はあなたですか?」とのヨハネの問いには、彼の心の渇きも見て取れる。しかし主の答えは明快だった。イザヤ書に記されたメシヤ(救い主:キリスト)の預言の成就がイエス・キリストにあって明確に示されたことを主は明らかにされた。そして、それに加えて、バプテスマのヨハネ自身も主の道を備える人であり、女性より生まれた人の中で、最も優れた人であると言明されたのだ。聴く耳を持ち、見るべき目を持つとき、私たちは、主の真理の豊かさと確かさを知ることができる。
旧約聖書が預言し、ヨハネが道を備えたキリスト、主イエスが目の前にいる。しかし人々も弟子たちもその恵みをなかなか受け取れない。私たちはどうだろうか。目と耳を開いていただこう。

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20190707『神と人を愛し、受け入れる祝福』マタイ10:40-42

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。…まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」 (マタイ10:40,42) 私たちは時に、他者を受け入れることが難しい。表面的に受け入れられても、心から真に受け入れることは簡単ではない。
ここでキリストは、主の弟子を受け入れる者は、キリストご自身を受け入れることであり、キリストを受け入れることは、父なる神を受け入れることに繋がると明言されている。人を愛することの原点には、神を愛することがあり、神の愛を受け神を愛することから、人を愛する愛が与えられていくことに繋がっていくのだ。私たちの弱さや限界を主はすべてご存知だ。他者を愛せない自分、受け入れられない自分を私たちはなかなか認められないのだが、主はすべてを知りつつ、私たちを愛し、招き、導かれる。主の弟子たちも様々な困難を覚えていた。しかし主はその彼らを弟子として招き、愛の訓練を与え続けられる。主は決して見放さず、見捨てないお方であり、主に従うゆえに拒絶されることがあっても、恐れる必要がないと主は彼らを、そして私たちを励まされる。その励ましはなんと温かで力強いことだろうか。
さらに、主の弟子だという事で、たとえ一杯の冷たい水しか飲ませられないような現状があろうと、主はその愛に報いて下さると語られる。私たちのどんな小さな愛のわざも、主はすべてご存知であり、それを喜んでくださるのだ。他者を愛する者とされ続けたい。

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