20190616『主イエス・キリストとの出会い』ルカ5:1〜11

序、私たちがイエス・キリストに出会うとは、その背後にどの
ような状況があるのか。ペテロの状況からともに学んでいこう。
                   
本論I、漁師たちへのチャレンジ(1?4節)
1) 落胆していた漁師たち(よくある出来事)
2) 民衆に語られたイエス
3) 漁師にチャレンジしたイエス
*神との相互主体的な関係である(神は私たちに働きかけておられるお方)

本論II、ペテロの応答(5?9節)
1) イエスの言葉に従ったてみたペテロ
2) 結果に驚いた弟子たち(思いもよらぬ出来事)
3) 自分の罪深さを知り、イエスを信じたペテロ
 *私自身は、どのようにしてイエス・キリストを信じたのか。
 *「人生は出会いで決まる」:マルティン・ブーバー(1878?1965年)=ユダヤ系宗教哲学者 

本論II、キリストについていく弟子たち(10?11節)
1) 自分の弱さを知った漁師たちに使命を与えるイエス
2) 自分の弱さよりもイエスの言葉に従った漁師たち
 *イエス・キリストは、信じた者の生涯の責任を取ってくださるお方

メッセージ:町田俊之師(バイブルアンドアートミニストリーズ代表)

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20190609『主の教会の誕生』使徒2:1-13

「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」            (使徒2:3,4)
主の教会は人の集まりゆえに、様々な問題を抱えます。しかし他の共同体と違って、主の教会は、主ご自身が一人ひとりを導き続け、変え続けて下さるゆえに、成長があるのです。教会に問題があることは問題ではありません。問題から学ばないこと、問題を通して主に向かわず、遜らないことが問題なのです。
今日は主の教会の誕生日とも言われるペンテコステです。旧約時代には「五旬節」として祝われた過ぎ越しの祭りから50日目、また7週目の祭りとも呼ばれました。それは収穫を恵みを覚える時であるとともに、モーセを通して与えられた律法を感謝する時でもありました。そして新約の時代には、霊的な収穫や、弟子たち一人一人に神のことばが与えられ、大胆にキリストを証しする者へと、あの弟子たちが変えられていったのです。それは聖霊なる神の働きでした。復活後40日間弟子たちとともに歩み、天に戻られたキリストは「もうひとりの助け主」を送ることを弟子たちに語っていました。それこそ聖霊のことでした。聖霊は弟子たち一人ひとりの上に臨み、内側から彼らを造り変え、彼らを証し人として用い、多くの人々がキリストの愛と救いに導かれたのです。

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20190602『自分の十字架を負って』マタイ10:32-39

「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」                        (マタイ10:38,39)
キリストが招かれた弟子たちは、全員が無学ではありませんでした。しかし、彼らにはそれぞれの欠けがあり、不十分さを常に抱えていました。 しかし、キリストは弱さを持つ弟子たちを招き続け、整え続けました。そこに主の愛と忍耐があったのです。
主の福音宣教は様々な対立や反発、時には肉親の敵意さえ招くことがありました。現代ではそれは少なくても、私達には、自分に委ねられた使命を受け取り、覚悟を定めることがひつようです。そのような中で弟子たちの主イエスに対する愛が問われました。自分の家族に対する愛に勝る愛を、真の主であるイエスにささげるのでなければ、主の弟子としてふさわしくないからです。それは厳しい面がありますが、素晴らしい特権と祝福でもあったのです。また十字架に象徴される死に自分を渡し続けていくことが、弟子の条件でもありました。自分を主としやすく、自己中心的な自己実現を追求する時、私たちは真のいのちにあずかることが難しいのです。弱さや愚かさを抱えた弟子たちにも、キリストが一番求められたのは、自分に死ぬことでした。しかし私たちは、自分へのこだわりや自己中心的なあり方から離れていくことにこそ、真の喜びと祝福があることを見出すのです。

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20190526『アハブの愚かさと後悔』列王記21:17-29

「ナボテはアハブに言った。『私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。』…エリヤに次のような主のことばがあった。 『あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。』」                     (I列王21:3,28)
悪しき王が多い北イスラエルの王の中でも、アハブは最悪の王と言われる。それは彼が、自分の欲望や、また妻となったイゼベルの言葉に振り回されたからだともいえる。彼自身の実態は弱々しく、エリヤを恐れつつもそれを認められずにいたのかもしれない。弱さや愚かさを認めるには勇気が必要となる。
アハブはナボテが所有していたぶどう畑を自分の畑として譲って欲しいと申し出るが、ナボテは神からの地を譲ることはできないと拒絶する。実はこのナボテの言葉にこそ、王をも恐れず神を正しく恐れる真の姿が見られる。しかし、アハブは自分の欲に固執し、イゼベルの悪しきアドバイスを用い、ナボテを殺害してしまう。民である一人のいのちよりも、自分の欲望を優先してしまう愚かさの背後には、歪んだプライドと闇があろう。しかし、アハブはエリヤを通して語られた神の裁きの前に悔い改める。
それは真実なものではなく後悔としか言えないものであったが、神は彼を憐れまれる。神の憐みによって私たちは生かされていることを覚えたい。そして愚かさを認める勇気と、真理に従う従順さを与えられたい。主は私たちの心をご覧になる。

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20190519『互いに弱さを担い合って』ローマ 15:1-6

「私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。…どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。」  (ローマ15:1,5)
私たち人間は、他者と共に生きるようにと創造されている。それもまた、私たちが「神のかたち」に創られた恵みでもある。他者の存在に信頼し、時には健全な依存を学び、そしてお互いの存在を喜び、受け入れて歩んでいく。そこに豊かな祝福がある。誰も完全な人間はいない。私たちはみな弱さを持ち、他者の存在を必要としているのだ。その原点には、神を求め、神と共に生きる存在という霊的な存在のあり方があるが、その弱さは私たちが互いに担い合うものとしても、私たちにゆだねられている。そして力のある者が力のない人たちの弱さを担うようにと勧められている。信仰のゆえにこだわりをもちやすい人の弱さを、私たちは神の愛によって互いに担い合っていく、その原点には、自分を喜ばせるべきではないとの御心がある。
私たちの罪の姿は、自己中心への傾きと言える。自らを神とする罪から離れ、他者のために主の愛によって生かされ用いられていくことは、神の御心を行うことへとつながっていく。パウロは多くの葛藤を通るローマの教会の人々が、忍耐と励ましの神によって同じ思いを抱くようにと祈る。それこそが主の教会の交わりであり、成長につながっていくからだ。私たちもまた、神の恵みと赦し、そして愛に生かされ互いの弱さを担い合いたい。

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20190512『一羽の雀さえ』マタイ10:24-31

「ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」                 (マタイ10:31)
今日は、「母の日」です。私たちのために多くの犠牲を払い、豊かな愛を注ぎ、祈りと共に育んでくださった母親に、そしてその母を与えて下さった神様に心から感謝をささげたい。
母の恐れは何だろうか。そして私たちの恐れは何だろうか、そこには少し違いがあるだろうか。今の苦しみも、将来への不安も、そして過去の過ちも私たちの心を恐れへと導く。その恐れの中にとどまり続けることは決して簡単ではない。母の苦悩のひとつは、その様々な恐れを受け止めながら、そこに忍耐をもってとどまり続けることではないだろうか。その困難さをも理解される主は、私たちをも招かれ「恐れてはいけません」と語られる。
それは、主ご自身が、師として全ての苦難をも受け止められ、様々な迫害をも味わわれたからだ。そして全てが神の前には明らかであり、主が主権を持っていて下さるからだ。それゆえ私たちはどんな迫害や苦難をも恐れずに、それを明るみに出し、主に委ねることができる。それは主が私たちのたましいにも権威を持っておられ、最終的な裁きをも行うことができるからだ。そして私たちを主は豊かに愛してくださっているからだ。どんな小さな存在である雀でさえも、主は豊かに愛しいつくしみ、守っていて下さる。細い髪の毛さえも主は全て数えていて下さるのだ。どんな小さな存在も主は限りない愛を豊かに注いでくださる。それゆえ私たちは恐れる必要がない。いや恐れてはならないのだ。主は永遠の無条件の愛を私たちに注がれている。

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20190505『助けはどこから来るのか?』詩篇121篇

わたしたの助け(守り)は天地を造られた神様(イエス・キリスト)から来る。
序論:日本の助けを求めている姿

1. 助けを求め、被造物として創造主を認める謙遜さ(謙遜さ)1、2節

2. 天地を造られた神様はと?んなお方なのか。
2.1.  生きておられる神様はあなたを守る方。
2.2.  助けと守りの内容。
2.2.1. 足をよろけさせない。
2.2.2. 陰になってくた?さる。
2.2.3. 全てのわさ?わいから守る。
2.2.4. 守りか?と?こしえまて?も続く。

3. 造り主から離れている人生の旅路は?
(創造主を無視する罪人の現実)
3.1. 造り主から離れていた少年の証
3.2. 少年か?悟られたイエス様はと?んなお方なのか?
結論: 罪人の助けは、
天地を造られた神様(イエス・キリスト)から来る。

(メッセージ:金神学生)

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