20171008『本物の幸い』マタイ5:1-12

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」
     (マタイ5:3,4)
 幸せを表わす英語には、主に3つある(H,L,Bそれぞれで始まる)。ここで用いられているのは、神の祝福を表わすマカイオイという言葉で、詩篇1,32,41等のギリシャ語訳にも用いられている。
 自分の尺度で幸福を考えやすい私たちにとって、神の視点から見た祝福という理解は、思いや考えを豊かに広げてくれる。心の貧しさは、心の狭さや卑しさではなく、自分の霊的な貧しさを知っている心砕かれた姿だ。悲しみも状況等にではなく、自らの罪深さやこの世の悪への悲しみを持つ姿を現している。神はそのような人を豊かに祝福してくださるのだ。
 神により頼む故に自己主張から解放された者こそ、柔和な人であり、神との交わりにより真の強さを与えられていく。神の御心に従うことをひたすら求めて義に飢え渇く者、神の憐みに生かされ自らも憐みを表す者、神によって砕かれ変えられ、きよめられていく者…、神の愛と平和を人々に届け、どのような迫害を受けようともそこで主に信頼し、主を待ち望む者…、それらの一人一人を主は愛し、神の豊かな臨在を経験し、やがては顔と顔とを合せるようにして神を見る者とされる。
 私たちの現実の姿とは程遠い姿が描かれているように思うし、当時の弟子たちはなおその思いが深かったであろう。しかし主の愛は人を内側から作り変え、神の愛と平和、そして栄光の為にその人を用いられる。主の愛に期待し、生かされたい。

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20171001『愛のわざへの招き』マタイ4:18-25

 「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った。」                      (マタイ4:18-20)
 主イエス・キリストは、ご自身の近くに置き、また生活を共にし、その歩みを見せ、そして派遣する為に12人の弟子を選んだ。それは旧約の12部族に関わる数であったろうし、二人ずつ、時には三人を…と豊かな交わりが生まれる数であったろう。主は憐れみを持って人を選び、用いられる。それは彼らの能力や力によるのではなく、ただ主の恵みによる選びだった(コリ1章)。
 すでにかかわりを持っていた弟子たちを、主は改めて献身の生活へと召した(ヨハネ1‐2章)。ここで召されたシモンとその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネは、後に12弟子の中核になっていく。彼らは漁師という働きの真最中に召された。「人間をとる漁師にしてあげよう」という約束が伴う招きだった。それは、人々に愛を届け、真の愛へと招き導く、重要な働きと使命への招きだった。ユダヤ教では弟子のほうでラビを選ぶが、イエスは逆に自ら弟子たちを選ぶ。
彼らは従うために網を捨てなければならなかった。しかし無責任な従い方ではなく、家族への愛と責任と共に彼らは主に従っていく(参照マコ1:20)。しかしまた主に従うことは、家族の絆以上に重要なことも事実である。主は私達をも愛のわざへと招かれる。私達はその招きにどう応えていくだろうか。

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20170924『主の名が置かれる神殿』I列王8:27-30

 
 「この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く。』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。」      (列王8:27)
  主への礼拝が献げられる「神殿」が完成した。それは神がダビデの心に与えられた思いに基づき、主ご自身がソロモンを通して、なさった主のわざの完成でもあった。主の臨在が明確に示される至聖所に、契約の箱が運び込まれる。民を代表する長老たちが集い、神への祭司たちがそれを行った。イスラエルの民全体による神殿の奉献式と言えるだろう。
 契約の箱そのものが、主の臨在の象徴ともされる。しかし、それは何よりも神と人との契約の証しであった。モーセを通し、エジプトの奴隷状態であった神の民が、神の憐みの契約に基づき、約束の地へと導かれ、恵みの中で、イスラエルという国が建てられ、主への礼拝の場が定められたのだ。それは神のご契約への真実さに基づくものである。民の愚かさに妨げられずに、神はご自身の名をその神殿に置かれる。神の臨在が満ちるその神殿は祭司が近づけないほどの輝きと恵みに満ちたのだ。  ソロモンはじめ、イスラエルの民の感動の大きさを思う。しかし、イスラエルの民の歩みの重要性はそれからだったのだ。
 現在において主の教会は、神の臨在を表わし、礼拝の場である。しかし、それは建物のことではない。キリスト者一人一人が神の臨在を表わす者であり、その歩みが主の栄光を表わすようにと主はチャレンジされる。主の愛に応え主の前を歩みたい。

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20170917『老いの祝福』詩篇71:14-24

 「神よ。あなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。
あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、
私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。」                    (詩篇71:19,20)
 今日は、「敬老感謝礼拝」です。今の私たちの世界を支え、苦難の中を歩んでくださってきた方々に心からの感謝を表したいと願います。それは次の私たちの恵みと力となると思うのです
 この詩篇71篇について、70人訳は「ダビデによる。ヨナダブの子らと最初に捕囚になった者たちによって歌われた詩篇」という意味の表題をつけています。ヨナダブはダビデの甥ですから、本来はダビデによって作られた詩篇とも考えられます。
この詩人は老年に達し、なお信仰の戦いを続けています。ダビデが背景にあるとしたら、我が子に関する痛みがあったことだと思います。しかし、詩人は苦難の中でこそ、変わることのない神ご自身に信頼し、その恵みと平安に生かされていくのです。その生涯は、後に続く者たちにとっての模範であり、力となります。私たちの願いや思いを超えた神のご計画の中にこそ、主の祝福があると信じてゆだねる平安は、年を重ねていく中でこそ、確信をもって与えられる平安ということができるでしょう。
本当に信頼でき、委ねることのできる方に明け渡し、その方の与える義と救いによって生かされる祝福は、私たちが生涯をかけて求め続けたいものです。苦難を通られた方々が持つ、素晴らしい恵みを私たちも受け取っていきたいと願います。

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20170910『勝海舟・最期の告白』ローマ1:16-17

「 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」(ローマ1:16,17)
  勝海舟が70歳の時、長男・小鹿を脳卒中で若くして失う。悲嘆にくれている勝に、日本に伝道旅行に来た伝道者ジョージ・ニーダム師が面会した。勝氏は一時間以上、ニーダム師が語る福音の真理に耳を傾けた。ニーダム師は終わりに、少し躊躇しながら、勝に、ひざまずいて祈りたいかどうかと尋ねると、勝は、即座に同意した。祈りの言葉は、日本人牧師により、一行ずつ日本語に訳された。祈りを終え、彼らが立ち上がると、勝は、涙に濡れた目をして立っていた。そして、ニーダム師の手を握り締め、『人生で一番すばらしい恵みの時でした』と、低い静かな声で感謝を表した(エドワード・クラーク著より)。

本日は、『勝海舟・最期の告白』の著者、守部喜雅氏による特別歓迎礼拝でした。

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20170903『暗闇に輝く光』マタイ4:12-17

 「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
     (マタイ4:16)
 イエスはバプテスマのヨハネからの受洗と、断食後の荒野での勝利の後、ユダヤとガリラヤを行き来したことが、弟子のヨハネによって記されている(ヨハ1:29‐3:36)。しかし宣教の開始の場所は、ガリラヤであった。そこには主のご計画があった。
 主イエスがバプテスマのヨハネの投獄を知ってガリラヤへ退去したのは、自分に類が及ぶのを避けるためではない。もしそうなら、ヨハネを牢に入れた領主ヘロデ・アンテパスの治めるガリラヤを避けただろう。むしろヨハネの逮捕に、立つべき時が来たことを確信し、ガリラヤに移ったと言えよう。ガリラヤは肥沃で人口が多く、交易も盛んで、新しいものに開かれた土地であった。山岳地帯のユダヤが閉鎖的であるのと対照的であったのだ。
 イエスは育ったナザレではなく、ガリラヤ湖畔の町カペナウムに移った。中心都市とは言えないカペナウムを拠点とした。そこには、イザ9:1‐2の成就がある。ゼブルンの地とナフタリの地であるカペナウム、異邦人が多く住み、ユダヤの人々から異邦人のガリラヤとさげすまれている地方、霊的暗黒にあった人々が、救い主イエス・キリストの活動によって偉大な光を見ることになる。霊的な暗黒、人間の心の闇を越えて、主はそこに光を輝かせることが出来る。そのために主は来られたからだ。  私達も闇を認め、悔い改め、主の光の中を生かされたい。

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20170827『神を待ち望む者』詩篇25:1-5

「あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」                   (詩篇25:5b) 私たちは、大切な決め事のある時に、自分の考えを中心にするか、それとも主なる神を待ち望むか、これは大事なチャレンジとなる。 「神を待ち望む」とは何か?
それには色々な面があるのだが、一言でいうと、神に対する継続的、絶対的信頼という意味がある。
どのようにして、「神を待ち望む」ことができるか?
全生活において、神とそのみこころを求めるように心を動かすのが必要である。特に祈りの時に、へりくだり開かれた心をもって神の御前に静まるのも必要である。 なぜ「神を待ち望む」ことはそんなに大切なのか?
神は、すべての物事をご存知だ。もし、神を待ち望まなければ、神の業を制限してしまう危険性がある。また、私たちは、すべてを神からいただいている。したがって、日々の必要のために、常に神を待ち望まなければならない。 個人としても、教会としても、「神を待ち望む」心を育てていこう。「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」(イザヤ30:18) (メッセージ/リーズナー宣教師)

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