20170416『心はうちに燃えて』ルカ24:13-39

 「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。』」                       <ルカ24:30-32>  イースターおめでとうございます。死を恐れる私たちにとって、このイースターの喜びは、人生の大きな意義を持っています。
 主イエス・キリストが十字架にかかられたことは、主の弟子たちにとって大きな痛みであり、失望の原因でした。主が殺されてしまったゆえに、彼らの今までの人生が否定されただけではなく、彼らにも死への恐怖が押し寄せ、彼らは隠れ、またエルサレムを離れていったからです。エマオに向かった主の二人の弟子もそうでした。しかしその彼らに復活の主が共に歩まれました。彼らの痛みに寄り添い、彼らの心を聞き、そして彼らに旧約聖書から救い主の苦難を通る勝利を語られたのです。それでも彼らの目は閉ざされていました。しかし、主がまるで彼らの食卓の主人のように、パンを祝福し裂かれたとき、彼らの目が開かれ、その方が主イエスであることを理解し、主は見えなくなられたのです。
 しかし、彼らの心は全く変えられ、心が内に燃えていることを彼らは感じたのです。みことばの真理が、また主の臨在が、そして主の復活の勝利が彼らを内側から変え、彼らを再びエルサレムへと向かわせました。主の復活の勝利は、この二人だけではなく、主の弟子たちの人生を大きく変えていくことになるのです。  私たちの心にも人生にも主は勝利と希望を与えて下さいます。

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20170402『健全な成長と祝福』IIIヨハネ1:1-15

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。…愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神を見たことのない者です。」                         ( ヨハネ1:2,11)
 ヨハネがエペソの教会を中心にしたアジア諸教会に記した、第三の手紙には、教会の混乱の問題が根底にある。ガイオが所属していた教会に、使徒たちをののしり、服従せず、欲しいままに振舞っていた人の存在が教会に悪影響を与えていたからだ。
 しかし、ヨハネはその中にあっても、主の教会が、真理に立って歩んでいることを感謝している(3,4v)。また、巡回伝道者や巡回教師に対しても、愛を持って接し、もてなしている事をも感謝している(5-8v)。その上でこの混乱の問題を取り扱う。
 私たちは時に、起こってくる問題にばかり目を留めてしまい、与えられている感謝や喜びに心を留めることが少なくなる。しかし、聖書は私たちに主が良くしてくださったことを忘れず、恵みを数えるようにと教え導く(詩篇103:1-14)。その恵みの上で私たちは与えられている問題に取り組んでいく必要があろう。
 混乱をきたす人物について、ヨハネは言葉を緩めず、愛を持って真理を語っている。それは主イエスがそうされたように悔い改めを促し、主にある兄弟として関係を回復するためであったろう。私たちは皆問題を抱えているからだ。そして問題が表面化する時こそ、私たちの成長のチャンスであり、教会が教会として整えられていく恵みの時となる。私たち一人一人が健全な成長を祈り求めるとともに、教会もまたみことばにあって成長したい。

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20170326『キリストの十字架-何のため?』Iペテロ2:22-25

「キリストは…自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」   (第1ペテロ2:24)
「キリストは何のために十字架につけられたか?」と聞かれたら、どう答えますか? 多くのクリスチャンは、自分の罪が赦されて永遠の命をもつためだと言うでしょう。これは、答えの全部ではありません。今日の聖書箇所にあるように、私たちが新しい生き方をするためにも十字架の業がありました。このことは、私たちが思っているよりも多く、新約聖書のあらゆるところに書かれています。  救われた私たちは、罪を離れ、義のために歩むように、聖霊に導かれながら、様々な具体的な聖書の教えに従うように努力すべきです。
新しく歩むことに関する教えの中に、例えば、コロサイ3:5−10、または、第1ヨハネ3:14,23があります。そして、第1ペテロの手紙では、1:14−15、2:1、2:12、2:20−23の勧めのことばもあります。
 私たちが罪から解放され、義のうちに歩むために、キリストは私たちのためにご自分のいのちを与えてくださいました。受動的な態度を取るのではなく、このことを改めて真剣に捉えて、自分の全てをもってキリストに聞き従いたいものです。これこそ私たちの喜びへの道です。 (リーズナー宣教師)

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20170319『深い心の闇』ローマ7:7-25

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」                     (ローマ7:24,25)
 主の恵みを語ってきたパウロは、自分の内側にある葛藤を正直に語り始める。復活の主と出会い、救いを受ける前のパウロと考える考え方もあるが、主と出会った後のパウロの葛藤と考えることに何も問題がないであろう。私たちは主との交わりが深まれば深まるほど、自分の内側にある心の闇に気が付き、それを認めるようにと導かれ、その罪の現実からの解放を主の恵みとして経験していくからだ。
 パウロは、「律法は罪である」(7)という考えを断固否定している。そして、律法は主からのもので、聖であり、義であり、善である(12)と結論した。パウロは、善である律法が自分に死をもたらすことによって、罪が罪として明らかにされただけでなく、自分自身が極度に罪深い者であることを知り、それを主の恵みによって認め悔い改めに導かれてきたことを証する。
  「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」との告白は、私たちが皆経験することともいえるだろう。その罪の現実と向き合い、それを認め悔い改める事を通して、イエス・キリストが私たちのために、義を完全に成就してくださった恵みと、聖霊が私たちの内にあって私たちを変え続けてくださる祝福に与り続けていくことができるからだ。私たちの心にある深い闇は、私たちを主の愛と恵みに導く招きともいえるだろう。闇に輝く光といのちを受け取りたい。

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20170312『御霊によって新しく』ローマ7:1-6

「今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」          (ローマ 7:6)
 キリストにある新しい歩みを進めようとするとき、私達は古い自分の性質、罪に影響を受ける私達自身の問題に悩まされることがある。キリストと共に古い自分に死に、新しいいのちに生かされていることを聖書から教えられながらも、自分たちの弱い現実に誰もが悩み苦しむことがある。ユダヤ人であり、ガマエリエル門下で専門的に律法を学んできたパウロは、このローマ7章で自分自身の通った葛藤を正直に語っている。そして自分のみじめな罪の現実から彼は決して目を背けず、キリストにあるいのちと恵みに心を留め、そして人々に励ましと導きを与える。
 この箇所でパウロは、婚因関係を例にとり、キリストにおける律法の死によって、律法の束縛から解放されたキリスト者は、律法に対して死んだ者であるので、そこに固執する必要がないことを明示している。そして、キリストにある救い、聖霊にある新しいいのちにあって歩むことができるゆえに、その豊かな恵みに心を留め、死者の中からよみがえられたキリストに結ばれることを彼らにチャレンジしている。新しいいのちに生きるということは、過去を忘れることではない。過去の過ちから学び続け、そこに溢れている神の愛と恵みを見出していくのだ。古い自分の死を主にあって確認し続け、聖霊にある新しいいのちの豊かさを知り、聖霊の実を結ばせていただくのだ。主の恵みを深く心に留めよう。

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20170305『真理と愛に生かされて』ヨハネ1:1-13

「私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです。このことは、私たちのうちに宿る真理によることです。そして真理はいつまでも私たちとともにあります。」                    (ヨハネ1:1,2)
 今日から、2017年度を迎え、最初の礼拝となる。教会としての年月がたとえ長く過ぎようとも、私たちは常に最初の思い、純粋な信仰の原点に戻る必要がある。それは初代教会の中でも同様であった。特にヨハネは、主の弟子の中に加えられながら、主の豊かな恵みといのちに触れる恵みと憐みを受けたことを、晩年豊かに分かち合っている。霊肉二元論でキリストの受肉を否定し、霊的な面だけを強調し肉代は悪だとするグノーシス主義的な考え方が台頭するなか、ヨハネは主との交わりの恵みの時を思い返し、その恵みをなお深く心に受け止めている。
 ここで強調されているのは、真理と愛である。私たちの心はどちらかに偏りやすく、真理が強調されると愛が薄められ、愛が強調されると真理がないがしろにされやすい。しかし、みことばの真理とキリストにあって成就した恵みはこの両者の調和と一致の見事さを表している。それが私たちの生活に生かされていくとき、私たちは父なる神に喜ばれる道を歩み、キリストの愛を実践していくことになる。そのためには、キリストの教えにしっかりととどまり続けることだ。晩年を迎えたヨハネは、主の教会の様々な痛みを思い、祈りを深める中で、キリストの愛と真理に立ち続けること、そこに留まることの重要性を幾度も強調している。
 私たちもこの一年の歩みを進めるにあたって、みことばに立ち続けること、そして愛を実践することをしっかりと心に刻む必要がある。主は私たちの歩みを祝福しようと待っておられる。

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20170226『神の祝福と知恵』列王4:20-34

「 神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。それでソロモンの知恵は、東のすべての人々の知恵と、エジプト人のすべての知恵とにまさっていた。」                          (列王記4:29)
 「栄華を極めたソロモン」と表現される。イスラエルの3代目の王ソロモンが所有したものは私達に想像を遙かに超える。しかし、それは主からの恵みと憐れみであり、主からの祝福であった。
 そして、その背後には、主から何を求めるか願えと問われたときに、「知恵」をと求めたソロモンの祈りによって主が与えられた知恵に基づいた祝福がある。「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」と箴言9:10にある。ソロモンが記したこの箴言には、主からの知恵が満ちている。しかし、その原点は主を恐れることにある。それを失ってしまうときに、私達の心は、表面的な豊かさや所有物の多さ等に向けられてしまう。
 ソロモンには、主が豊かな知恵と英知と共に、広い心を与えられたとある。知恵が広い心に繋がる恵みをソロモンは受け、それを用いることも出来たのである。ソロモンのもとに、諸外国から多くの人々が集い、それだけではなく諸外国から多くの財や宝が集まってきた。実はその時にこそ、真に知恵と英知、そして広い心が試されていたとも言えるだろう。試練の時に私達は主を求める。しかし、その試練が去ると私達の心は容易に主から離れ、物や人からの賞賛に向けられてしまう。真の知恵は豊かさの中で試される。多くの所有や祝福を得たとき、私達はどう主に向かうのだろうか。何の為にまたどのように富や知恵を用いるだろうか。

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