20200621『父の愛と真実』ヘブル人への手紙12章4-11節

「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」 (ヘブル 12:11)
「父の日」を迎えた。社会での父親の存在は、時代によって大きく変わってきた。しかしこの新型コロナの問題は私たちの生活にチャレンジし、父親の存在の意義を改めて問うている気がする。父親が抱える葛藤や痛みは見えにくい。しかしそこを通り続ける父の背中に私たちは多くを教えられる。
ユダヤの社会にあっては、父親の存在はとても重要であり、子供の霊的精神的教育の基盤となっていた。それは父なる神の存在を指し示すものであり、父なる神の厳しさの背後には愛があり憐みがあることを忘れてはならない。へブル書の11章で信仰者の歩みを綴った作者は、キリストへと目を留め、父なる神の愛に心を留めるようにと導く、そこには人生のゴールを目指して歩む大いなる秘訣がある。人生の苦しみの中で、私たちは神の愛と恵みに心を留め、父なる神は意味もなく苦しみや苦難を与えないこと、そのことを通してこそ私たちは豊かに成長していく事を心に刻み、なお主に信頼して人生の旅を続けることができるのだ。そして愚かな私たちの内側に、主は平安の実、義の実を結ばせてくださるのだ。主は私達と共にして、私たちの為に祈り、そして鍛えて下さる。私たちはどこを目を留め、何を目指して歩んでいるだろうか。どんな時にも父なる神の愛と真実に心癒され、力を与えられたい。

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20200614『新しく生まれさせてくださる神』ペテロの手紙 第一 1章3-5節

「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。」 (ペテロ 1:3〜5)
キリストに属する者になることは、心において新しく生まれることです。そうなることは、私たちが何かをするというのではなく、全く神がなさることです。 新しく生まれた人は、生ける望みを持つようになり(1:3)、神の力によって最後の救いの完成の時まで守られ(1:5)、最も価値のある資産を天で受け継ぐことが約束されています(1:4)。その他の良い結果とともに、これら全てはキリストの救いの業により、何よりも神の大きなあわれみのゆえに成り立ちます(1:3)。 人が新しく生まれることは、必要でしょうか? どうやって新しく生まれるようになるのでしょうか? それは、人の生活に違いをもたらすでしょうか? このようなことに関して、聖書の言葉の中に具体的な教えが与えられています。 自分が新しく生まれていることを確認し、心を尽くしてキリストに従って、常に心からの感謝と賛美を真の神にささげましょう。

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20200607『心から出るもの』マタイ15:12〜20

「しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。 」 マタイ 15 18
弟子たちがパンを食べるときに、宗教的な儀礼 とも言える手洗いをしなかったことを咎めた、パリサイ人や律法学者たちに答えたことが、この箇所の流れにある。なぜ長老たち、自分たちの言い伝えを守らないのかという怒りが根底にあることを忘れてはならない。私たちは時に「自分の義」を振りかざしてしまい、神が真に求めていることは何かを忘れやすいのだ。
キリストは彼らに対し、本当に重要なのは、口に入るものではなく、口から出るものであり、心から出るものこそが、人を汚してしまうのだと、彼らの心を見抜いて言われた。そのメッセージは私たちの心にも突き刺さる。「私は大丈夫です。私 は良い言葉だけを口から出しています」と言える人はおそらく一人もいないだろう。しかしその自分の心を見つめ、罪の事実と向き合っているだろうかは神の前に最も重要なことの一つだ。主イエスが彼らを「白く塗った墓」と揶揄したことも彼らを真の悔い改めに招くためであり、あえて彼らのプライドを 傷つけるかのように人前で語った背後にも、主の愛があることを忘れてはならない。私たちは皆、主に愛され問われているのだ。
憎しみや怒りの連鎖が広がりやすいこの時代の中で、私たちキリスト者は何を世界に届けることができるだろうか。主はあな たをいのちがけで愛し用いようとされている。主と共に歩みを続けていきたい 。

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20200531『聖霊による力と祝福』使徒2:1-13

「彼らは驚き、不思議に思って言った。『見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。…あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。』」 (使徒2:7-11)

今日はペンテコステの礼拝であり、教会の誕生日でもある。「教会」とは何か、「教会」はどうあるべきかが問われる中にあって、教会の原点を確認できることは幸いだ。旧約時代においては五旬節の祝いの時であり、収穫の感謝と共に、モーセに律法が与えられた事を記念する時だ。主の弟子たちが一人ひとり聖霊に満たされ、各国各地域のことばで大胆に神の大いなるみわざを語り、実りが与えられたことが、この日の恵みの出来事であり、教会誕生の原点であることを覚えたい。 教会は建物ではなく、主イエス・キリストを自らの救い主として信じ告白し、自分の弱さに妨げられずに恵みの主と主の業
を証しする一人ひとりの集合体なのだ。そしてその交わりは世界へと広げられ、すべての人を招き、どんな人も主の憐れみ
によって用いられていく。不必要な人はひとりもいないのだ。
全てが聖霊なる神のわざである。聖霊は私たちに罪を示し、私たちが罪を認め、信仰を告白し、キリストに似た者として変
えられていくように働き続けてくださる。聖霊によって私たちはどんな苦難や状況の中にあっても、力を与えられ、修復を届ける者として用いられていくのだ。 今のこの苦難の直中にある時にこそ、私達一人ひとりが、聖霊によって導かれ、生かされる者でありたい。主はどんな時
にも私たちと共にいて、私たちを豊かに用いてくださる。

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20200524『神による驚きの助け』列王記第二 7:1-15

「彼らは互いに言った。『われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。』」 (列王7:9)
困難な状況の中で、私たちの思考は停止し、否定的、悲観的な思いに支配されやすい。アラムの王ベン・ハダドがサマリヤを包囲する前から、大飢饉に襲われていた北王国イスラエルの王も民も深い失望の中にあった。主に見放された思いの中、食べるものに困った彼らには自、分の子を食べるほどの現実と痛みがあり、王も深い悲しみと痛みを表していた。
しかし、その苦境の中にあって神の人エリシャは、主による不思議な助けを大胆に語った。王が信頼する侍従を筆頭に、誰もそれを信じることができない中、ツアラアトに冒された4人は死を覚悟し、夕暮れになってからアラムの陣営へと向かったのだ。そしてそこで驚きの光景を目の当たりにした。それは神の業としか言いようのない驚きの状況であり、彼らはそれで密かに自分たちを満たしたのだ。しかし神を知る彼らは、自分たちの行為を反省し、その「良い知らせ」を伝えるべく、サマリヤの町に入ったのだ。それは彼らには許されていない行為だった。しかし彼らのメッセージは門衛から、王の家に伝えられ、王に届けられた。ところが、王はそれを信じることができない。すでにエリシャが語った事の実現を聞いても、それはアラムの罠だとしか理解できなかったのだ。家来の進言で偵察を送ると、4人が伝えたとおりの驚きの助けの事実を知ることができたのだ。信じなかった先の侍従は残念な死を迎える。私たちはどのように信仰に立てるだろうか。 神のことばに信頼を置く者の祝福を聖書は語っている。

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20200517『大胆に神に近づく』エペソ人への手紙3:1-13

「私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。」
(エペソ3:12)
キリストの「教会」を中心テーマとする、エペソ人への手紙を学び始める中、この苦難を伴う現代にあって「教会」がどうあるべきなのかが問われている。共に集まることが出来ない今、主のある交わりの重要さを逆に痛感する。そして、一人ひとりがどのような思いで、キリスト者としての自分を自覚し、それぞれが神に近づいていくのかが重要となる。
パウロは、自らをどう自覚していたのだろうか。今日の箇所には主に3つの表現がある。一つは「キリストの囚人」。文字通り囚人であったパウロだが、そこにはキリスト自身に捕えられ、神の恵みの務めを担っている自覚を持つ。第二には、キリストの奥義と福音を分かち合う使命を持ち、キリストにある共同の相続人として異邦人も共なる「教会」の一員であるとの自覚だ。そして第三には、その福音に仕える者として、すべての聖徒たちの中で、もっとも小さい者であるとの自覚(参考:コリント15:9、テモテ1:15)と、異邦人への使命の自覚を持っていた。その一つひとつに私達へのチャレンジがある。
そして、主からの使命を受け取り、謙りつつパウロは、大胆に神に近づくようにと私達を招く。そこに「教会」の特権がある。それは神の永遠の計画に基づくものであり、教会を通して神の知恵が現わされるためである。私達は恐れず、ためらわず、いつでも大胆に神に近づくことが出来る。主の教会に連なる者として、私達は憐みに生かされ続けることが出来る。

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20200510『母の愛と神の愛』サムエル記第一 1:1-20

エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。 (サムエル1:17,18)
母の日を迎えた。今年の母の日は痛みを伴う。諸手を挙げて喜ぶことが難しい状況が世界にある。しかしこの深い痛みを世界で共有するこの年にこそ、私たちはそれぞれの母が通ってきた悲しみを共有できるのではないだろうかとも思う。
子供が与えられることは、当たり前のことではない。時には命がけのことだ。孤独を味わうことがある。しかしそれらを越えて全ての母はいのちを産み出し、孤独と忍耐の中で祈りと共に私たちを育んで下さった事を忘れてはならない。
ハンナは主からの試練を受けていた。夫から愛されながらも子が与えられず、夫からの悲しみの理解もなかった。しかし彼女は主を知っていた。そして主の御前に祈り心を持って進み出た。心を注ぎ出す彼女の祈りは祭司さえ誤解するほど、真剣であり情熱的であったろう。母の愛を主は豊かに用いられる。その背後には主の愛があり、主の招きがある。乾きの中で、孤独と痛みの中で、ハンナは祈り手として、また育む者としての招きを覚えていく。そして彼女の献身へと主は導かれる。そしてこの後ささげるハンナの賛歌が、イエスの母として用いられるマリアの賛歌に繋がっていく。何という恵みか。 私たちは皆、主からの招きとチャレンジを受ける。今の悲しみの中に主の臨在があり、招きがある。

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20200503『神を敬い、親を敬う』マタイの福音書 15:1-11

イエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。」 (マタイ15:3,4)
人生の中には様々な「優先」が問われることがある。そしてその判断の背景には、その人の価値観がある。時には私たちが考える「義」が、人への「愛」よりも優先して、相手をさばいてしまうことがあり、「愛」とは違う「甘え」が、正しい「義」を押し出してしまうこともある。私達はどうだろうか。
キリストの時代、パリサイ人律法学者達は、自分達が定めた「義」で人々をさばいた。そして時には、神への「献身」とされることが、両親への「責任」を押し出したのだ。信仰のあり方が愛を押し出してしまうことと似ているだろうか。しかし主は、神の求める「愛」の重要さを語り、両親を心から敬う事の大切さを強調された。それは神への献身とされる事の背景に、親への義務を避け、そこから逃げる口実とされていたからだ。
私たちも今の現実の中で、「義」と「愛」のバランスが問われる。しかし具体的に人を愛することの背後に神を愛するあり方があり、神を愛するゆえに心から人を愛する者へと変えられていく。親への従順を通して、神への従順を学び、人への真実が神への献身へとも繋がっていく。私たちの信仰の奥行きはどのような広がりを持っているだろうか。 神と人の前に、愛と真実が問われる。心から神を敬い、そして親に代表される隣人を心から愛する者とされたい。

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20200426『目が開かれる祝福』列王記第二6章8〜23節

「主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」
<列王6:17>
私たちは、多くのものを恐れてしまう。目に見える脅威や敵、病も死の恐怖も私たちの心を揺るがせる。今、私たちが恐れているものは何だろうか。そして何がそうさせるのだろうか。
エリシャは、神の導きによってアラムがどこに攻めてくるかをイスラエルの王に進言し、的中した。アラムが内通者を疑うほどであったが、エリシャの存在がその要因だとわかると、エリシャをとらえるべく、彼が住むドタンの町全体をアラムの軍が取り囲んだ。主の存在を認めず、問題の人さえ除けば解決すると考える安易さは私たちの内側にもある。
軍の存在を知ったエリシャのしもべは恐れ惑う。しかし、主が彼の目を開くと、主の軍勢がエリシャを取り巻き、山に満ちていたのだ。エリシャが目に留めていたものは、主の臨在と守りだった。そこに彼の平安の鍵があった。それは詩篇46篇にも共通する真の平安である。主は我らの力ある避け所である。
エリシャが願うとアラムの軍の目が閉じられ、軍はサマリヤへと導かれる。イスラエルの王は、それ幸いとアラムの軍を自ら打つことを提案する。情勢が変わると勢いづく王の姿には、彼の弱さと愚かさが表されている。王自身が主が何を求められるのか、目が開かれる必要があったに違いない。私たちはどうだろうか。エリシャはアラムの軍に憐みと恵みを注ぎ、彼らを食で満たして帰らせる。そこに真に目が開かれている者の歩みと祝福がある。主はあなたの信仰の目を開かれる。

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20200412『イースターの真の希望』コリント第一の手紙15章16〜28節

「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」   <コリント15:19,20>
 先週は、受難週を過ごしました。火曜日には緊急事態宣言が出され、今日のこのイースターから完全WEB礼拝となることとなりました。世界に大きな痛みが襲う中ですが、この地にある教会でも対応できるようにあらゆる準備ができていたこと、主の不思議な導きとご奉仕下さった兄弟たちや執事の方々に心から感謝したいと思います。主もまた、私たちの救いの為に全てを備えて下さったのです。御子の受肉と受難と復活の勝利の歴史的な業は何と力強い、愛の備えでしょうか。
 今日は、この復活の希望にともに心を留めることができることを心から感謝したいと思います。「死」は確かに私たちに大きな不安と恐れ、別れの痛みと深い喪失を与えます。しかし、主イエス・キリストのよみがえりの勝利の事実は、私たちに大いなる力強い希望を与えるのです。それは主イエスの復活は眠った者の初穂としてのよみがえりであり、私たち主をを信じ、主に信頼を置くものには、主と共に永遠のいのちにあって生きる希望があるからです。「死は勝利に飲まれた」とある通り、私たちの罪の裁きも、その結果としての死も、永遠の滅びをも、キリストの復活の勝利はそのすべてを飲み込み、いのちと愛と真の希望に輝くことができるからです。
 どんな困難が私たちを襲おうとも、私たちには真の希望がある事を決して忘れてはなりません。私たちは内側から愛と希望といのちに溢れ、それを人々のところに届けるのです。

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