20180708『神と人への誠実』マタイ7:1-12

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」                              (マタイ7:7〜8)
 「他の人をさばくな」という命令は、批評や善悪の判断をするなということではない。自己を正当化するあら捜しや、優越感を伴った批判を主は禁じられる。自分の多くの欠けに目を閉じながら、他人のそれはよく見え、善意を装い「忠告」するのは偽善者であり、高慢だ。まず自分の問題に対峙する必要がある。
 人をさばかず、他方で健全な識別力をもつためには、それを神に求め続け、捜し続け、たたき続けなければならない。しかし大切なのは求めの熱心さではなく、求めに応える父なる神の真実さである。人間の父親でも子供の求めに誠実に対応する。父なる神は祈り求める者に良いものを与えないはずはないのだ。
 「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」との黄金律は他の宗教にも見出されるが、たいていは「他の人からされたくないことは自分もするな」という消極的な形である。イエスは積極的に表現し、天の父から良いものを受ける者として、自分も他の人に良いものを与えるよう命じているる。私たちも神と人との前に誠実に愛を現わしたい。

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20180701『神の国とその義を』マタイ6:25-34

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」      (マタイ6:33,34)
 私たちは様々な事で思い煩う。しかし、その思い煩いがどこに起因しているのかを祈り求めていく必要がある。キリスト者が神と富との両者に仕えようとするなら、結局は富に支配されることになる。そして、富に支配された心は思い煩いに支配されやすい。物質的な必要を満たすことがすべてであるかのように生きてはならないの。思い煩いから解放される道がある。
 命や体を与えて下さっている神は、すべての必要をご存じで、備えて下さる。また、空の鳥も、野のゆりも主の知恵に満ちた装いが与えられており、より重要な私達の世話を神はなさる。さらに、私たちの命そのものが神の手の内にあり、思い煩う必要はないからだ。最後に、思い煩いは神への信仰・信頼の問題となる。神を知らない異邦人なら、思い煩うのも不思議である。問題や困難を見るのではなく、神に向かうことが重要である。
 神の国と神の義、すばわち神の御心にかなっていることこそ重要であり、それを求めていく責任がある。神と正しい関係にあるなら、本当に必要なものは備えられていく。主の平安を得続けよう。

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20180624『神の慈しみとご計画』ローマ11:11-24 

「あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」                     (ローマ11:18)
 神は、神の民イスラエルの違反によって、救いが異邦人に及ぶという驚くべき恵みを私たちに与えられた。それは、イスラエルが意図したことではなく、神が意図されたことであって、人の愚かさに妨げられずに、神のわざとご計画が実現されていくことをも示しているであろう。そして、それはイスラエルにねたみを起こさせるためであり、神の招きでもあった(10:19)。
 パウロは、自分がユダヤ人でありながら異邦人の使徒として召され、主のしもべとして用いられている恵みを語りつつ、それこそが、ユダヤ人のねたみを引き起し、それによって彼らの中の幾人かでも救われるようにとの強い願いを持っていることを示す。全てのことが神の恵みであるというパウロのメッセージは、パウロ自身が受け続けている神の憐れみと愛の豊かさを示している。神がイスラエルを捨てられた、しかしそれによって、神から離れていた異邦人が神との和解を得るに至った。もちろん、神はイスラエルを決定的に捨てられたのではない。神の民イスラエルが、神に受け入れられることは必ず起ることが繰り返される。その恵みの勝利と導きは、死者の中から生き返ることに表されるように主の恵みの勝利に基づく、憐みの契約にあるのだ。  主は私たちにも徹底して憐みの計画を持ち、成就される。

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20180617『父なる神との交わり』Iヨハネ1:3-7

「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。…もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」   (ヨハネ1:3,7)
 今日は父の日への心からの感謝を表す日だ。1909年にアメリカ・ワシントン州スポケーンのソノラ・ドッド夫人が、男手1つで自分達を育ててくれた父に感謝し、牧師に父の誕生月の6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われている。母の日とほぼ同時期に始まった父の日もとても重要な示唆がある。父の働きは、子に分かりにくい。世の中で闘いつつ必要な糧を得るべく労し、大きな犠牲を払いつつ家族を養っている。その愛に私達は心から感謝したい。すでに神の支配に移された父親も少なくないだろう。しかし、思いを新たに心からの感謝を表したい。
 そして、何よりも父なる神の存在をも私達は心に留めたい。私達は天の父の働きや愛を日々の歩みの中で、確認し、感謝し、賛美し、そして父なる神との交わりに生かされたいのだ。私達の歩みは、この父なる神との交わりに原点があるといっても良い。全てを創造され、愛を注ぎ導かれる神の御手の中で私達は守られ、支えられているからだ。そして御子キリストのとの交わりもまたそれを豊かにする。キリストが私達になされた愛の犠牲を忘れてはならない。歴史の中に刻まれた神の愛を心深く受け止め、 今の歩みを感謝と共に進めさせて戴きたい。神はどんなときにもあなたと共におられ、恵みと祝福を注いでいてくださるからだ。父への感謝を心に留め、神との交わりに生かされたい。

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20180610『神の知恵を求める箴言』1:1〜7

「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」                      (箴言1:7)
箴言は聖書の中の知恵文学の一つで、詩のような形で知恵と真理を教えてくれます。私たちは自分の知恵ではなく神様の知恵を求めて、それに依り頼む者でありたいです。知恵をもつということは、他者との関わりについて正しい理解を得ることです。つまり、神と人を愛することです。これは、イエス・キリストが新約聖書において、旧約の律法のすべてを要約した二つの最も大切な戒めと同じです。つまり知恵とは、キリストのようになることといえます。箴言1:7では、主を恐れることが知恵の始まりだとあります。そして2:1-5にはどのようにしたら主を恐れることができるのか説明しています: ? 教えを受け入れ、従いたいと願うこと
? 教えを心に刻み、暗記すること
? 注意深く教えに耳を傾けること
? 教えを情熱をもって求めること
? 世界一の宝のように、教えを大切にしよく調べること
これは箴言に限らず、聖書のすべての教えについて言えることです。これらの教えは全ての人にとって真理であり、有益です。神様からの知恵を求め、そこから学び、私たちの心と行いを変えてもらいましょう。もっとキリストのようになるために! (セドン宣教師)

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20180603『天に宝を積む人生』マタイ6:16-24

 
「自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」                              (マタイ6:20,21)
 私たちは、様々な宝を求める。不安は私たちの心を地上へと向けさせてしまいやすい。地上に蓄えた宝は、高価な織物であれば虫がつき、金属の物はさびて価値を失う。盗人が家の壁に穴を開け盗んで行くことも少なくない。そのようにはかない地上の宝ではなく、失われる心配が全くない天に宝を蓄えるべきであると主イエス・キリストは、語られる。神に喜ばれることは永遠に失われることがないからである。地上のものを最も高く評価して生きているなら、それがその人の真の姿にほかならない。
 私たちの心がどこにあり、どこに向かっているのかが、問われる。しかし、それは地上の富をすべて否定しているのではない。私たちは、誠実に働き、知恵を持って蓄えることを聖書は語っているからだ。しかしそれを何のために、誰のためにするのかが重要となる。その上で、地上の宝によっても心の目が曇らされ、内なる光が暗くなるなら、その暗さは致命的なものとなることを心にとめる必要がある。弟子はふたりの主人に仕えることはできない。神と富との両者に仕えようとするなら、結局富に支配される。神に仕える姿勢は中途半端であってはならない。富に支配された心は思い煩いに支配されやすい。天に宝を積みたい。

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20180527『神の前を歩む』列王記14:1-16

「主はご自分のためにイスラエルの上に一人の王を起こされます。彼はその日、いや、今にもヤロブアムの家を絶ち滅ぼします。」                      (列王記14:14)
 北イスラエルの王となったヤロブアムは、自分の子どもの病から預言者アヒヤの存在を思い出し、妻を身分を隠して遣わした。しかし主の前にはすべてが明らかであり、アヒヤは妻に子の死を宣言し、その通りになった。その背後には、ヤロブアムが、主の前を歩み続けなかった罪があった。アヒヤの言葉から出たダビデもまた、罪を犯し失敗した王である。しかし彼は預言者ナタンによって示された自らの罪を認め、悔い改め、神のもとに立ち返った。神の前を歩む歩みは、失敗しない歩みではない。失敗を犯した時にこそ試される主との真実な交わりから生まれる歩みと言えよう。ヤロブアムの子が死んだ後、彼らが神の前にどうしたのか、聖書はそのことを語っていない。私たちも自戒したい。しかし、主はこの中でさえ、主がご自分のために「ひとりの王」を立てることを語られる。主の憐みと恵みは深い。
 一方南王国ユダはどうだったのだろうか。ソロモンの子であるレハブアムもまた、真実に神の前を歩もうとせず、罪をそのままにし、偶像礼拝、また神殿男娼等の乱れを正すこともしない。主への礼拝そのものが歪められ、主の愛と憐みに誠意をもって応えようとする姿勢が微塵も見られない。罪を継承することは容易だが、神への真実さを継承することは簡単ではない。私たちもまた、主の前をどう歩むのかが問われる。真実に歩みたい。

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