20180520『御霊に導かれて』ガラテヤ5:13-26

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」                            (ガラテヤ5:24,25)
 今朝は、弱かった主イエス・キリストの弟子たち、ひとりひとりに聖霊が臨み、彼らが聖霊に満たされ、主の教会が誕生した日を覚えるペンテコステの時だ。旧約聖書において五旬節として祝われるこの日は、大麦の収穫の終りを意味し、いよいよ小麦の収穫となる時であると共に、主がシナイ山において律法を与えられたことを記念する時でもあった。主の恵みと贖いに感謝し、主を恐れると共に、みことばを与えられて歩むその記念は、このペンテコステの出来事に深く関わっている。
 主の教会は、様々な問題を抱えつつも、みことばによって整えられ続け、聖霊に導かれ、満たされて歩むというチャレンジをどの時代でも受けている。聖霊はすべてのキリスト者に臨み、信仰の告白、そして日々の歩みを導く。しかし、私たちは自分に与えられた「自由」をどのように、そして誰のために用いるのかが日々問われている。肉に従って歩んでしまう弱さや罪深さを私たちは抱えながら歩んでいるからだ。そして私たちは失敗をする。しかし、私たちの全てをご存じの主は、どこまでも私たちに期待してくださり、みことばによって促し続け、そして祈りをもって待ち続けて下さっている。私たち一人一人が、御霊に導かれて歩みを進めたい。教会の成長は一人一人の成長による。

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20180513『恐れを締め出す愛』Iヨハネ4:18-21

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」                      (ヨハネ4:10,11)
 すべての存在を無から創造され、愛を持って導かれた神様が、私達の存在をも全ての創造の前からすでにご存知で(エペソ1:4)、父母を通して、いのちを与えて下さったこと、そして今をも導いて下さっていることを心から感謝したい。この母の日は、アンナ・ジャービスが1907年5月12日に、教会学校等でも教師をし2年前に召された母の愛を覚えて、白いカーネーションを贈ったことが世界に広がった。私達の愛には、限界があるが、神から受ける愛には、私達を内側から変えさらに広げられていく力がある。父なる神は、御子を与え尽くすほどのいのちがけの愛で私達を愛して下さっているからだ。私達はどのような愛と感謝を周りの方々に贈っているだろうか。「愛(アガペ)」ということばは、「愛する(アガパオー)」という動詞から派生している。愛は本来的に、具体的な行動やことばを伴う。そして不思議にその行為は次の行為を生み出す力となる。家庭やあらゆる共同体の中で、先に神からの愛を知り、受けたものが、感謝と愛を表し、また互いに愛し合うものとされたい。母への感謝を心から表そう。

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20180506『主への恵みの祈り』マタイ6:9-15

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」               (マタイ6:12,13)
 主が教えて下さった「祈り」は、私たちが心に留めやすい「願い」中心のものとはほどとおい。むしろ御心がなりますように…との信頼と献身が原点にある祈りであることを私たちは、忘れてはならない。その時にこそ、私たちは後半の祈りを心から祈ることができるものへと変えられていくことができる。
 主の祈りを学ぶ後半は、「罪の赦し」ということが大きなテーマとなっている。私たちがこの地上を歩む中で、神の御心を求めながらも、そうできない現実、実際に罪を犯してしまう心の闇があることを誰も否定できない。この祈りにもその自分の罪(負い目)を主に赦していただきたいとの願いがある。しかし、そこには並行して、他者への赦しの宣言があることを忘れてはならない。
 赦された者として、また主の愛と恵みを先に受けた者として、私たちは、私たちに罪を犯す者への赦しへと向かうことができるのだ。それは決して簡単ではない。しかし主は再度そのことを14,15節でも繰り返している。どれほど重要であるかと共に、どれほど難しいかも思わされる。しかし主は整えられた弟子たちにではなく、まだ何もわかっていない弟子たちにこの祈りを教えられた。祈りを通して弟子たちも私たちも変えられていく。自らの弱さと向き合い、誘惑に遭わせないで…と祈りつつ歩もう。

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20180429『神の人の歩み』列王13:1-10

 
「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、一人の男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちを、いけにえとしておまえの上に献げ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」       (列王13:2)
 ソロモンの後の王国の分裂は、大きな悲しみを神の民に与えた。ヤロブアムが北王国に持ち込んだ礼拝のあり方は、さらに混乱をもたらしたのだ。神の人が主から北王国に遣わされ、ヤロブアムがささげる礼拝の祭壇に向かって預言する。それは主の礼拝をゆがめているヤロブアムに対する裁きであると共に、約300年後に主が立てられる南王国ユダ王ヨシヤの誕生の預言であり、彼を通してその祭壇が破壊されることの預言でもあった。正しい礼拝がささげられなくなるときの、神の民の混乱は深い。主は神の人を通して語られたのであるが、この神の人をも主はためす。老預言者のことばを通し、この神の人はあるべき姿を逸脱し、いのちを落とすことになるからだ。
 しかし、この神の人への裁きを通して、主は神の民全体に語られている。「主を恐れる」ことを。老預言者はそれに気づく。しかし、神の人が去った後、ヤロブアムは聞く耳を失う。私達は神の警告を真摯に聞いているだろうか。主は私達に語られている。

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20180422『35周年の 主の教会の歩みに感謝して』使徒の働き22:1〜21

「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」                               (エペソ4:13)
 この清瀬・新座の地域に清瀬福音自由教会が建てあげられて、今年で35周年を迎える。最初は志木街道沿いのそろばん塾をお借りしての午後からの礼拝だった。現関東西地区の牧師先生たち、また米国福音自由教会の宣教師の方々のご協力によって主の教会の歩みは始まった。すでに主のもとに帰られたハルストロム先生、コンラッド先生、初代牧師の日名先生、顧問牧師の古山先生の尊い働きと、熱心な信徒の方々の熱い祈りと献身的な尊いご奉仕の中で、主の教会は建て上げられてきた。私たちはその恵みを忘れてはならない。
 そして設立 年で新座市西堀に、また設立28周年にこの新座市新堀に主を礼拝する会堂を主にささげ、100名が一緒に主を礼拝できる時をと願ってきた。その祈りに主は答えてくださり、会堂が満たされることも時折与えられている。これから私たちはどのような歩みへと踏み出していくのだろうか。様々な夢やビジョンが各自にも与えられているだろう。しかし今日私たちは、主の憐れみと恵みによってみことばに聞き従う者でありたい。主はご自身の栄光の教会を私たちのうちに築き上げてくださる。  35周年の恵みを覚え、主ご自身に私たちをささげて行きたい。 

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20180415『恵みの選びによって』ローマ11:1-10

「ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。」                         (ローマ11:5〜6)
 「選び」というテーマは私達の心に波を立てる。神の民として選ばれたユダヤ人もその波を覚えただろうか。主の民として選ばれたのだという理解は、時に人を傲慢にする。しかし、聖書は一貫して、主の選びはただ恵みなのだと強調し繰り返す。
 そして主は敢えて小さな存在や愚かな存在を選ばれるのだ(コリント1:26-29)。神は誰をも誇らせないために、そして恵みの中でへりくだり、主の憐れみの中を歩むようにと人々に謙遜さを教えられ、導かれる。それは神の民ユダヤ人も同様だった。彼らは、数々の失敗や罪の故に、神の御前に遜ることを余儀なくされた。そのことを通して、異邦の民も神を畏れるものとされ、そして主に従う者としての招きを恵みとして覚える者とされた。私達は皆、自分の愚かさや罪深さを正直に神の前に認め、そして赦しの恵みに立って主に心から従っていく必要がある。
 バアルやアシェラの預言者に大勝利を収めたエリヤでさえも、時に失望を抱えた。しかし、主は憐れみの民、恵みの民を残し、彼と共に歩む者とされた。主は私達をも遜らせ、一方的な憐れみと恵みの中で、用いて下さる。主の恵みを深く覚えたい。

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20180408『主への恵みの祈り』マタイ6:9-15

『御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。』                   (マタイ6:10)
 主イエス・キリストが弟子たちに教えられた「主の祈り」は、私たちの信仰と祈りを整える。祈りの成長、成熟こそ、私たちの信仰と人格の成長とも言えるだろう。祈りは私たちの願いを叶える手段ではなく、私たち自身が、神の御心のままに取り扱われ、変えられていく目的とも言えよう。主の祈りを二回で学びたい。
 主は未熟な弟子達に祈りを教えられた。そしてその祈りには、誰に祈るのかが明確にされている。そして「御国が来ますように」「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」との祈りの内容へと向かっている。それは自分の願いを届けるための祈りではない。自分の願いを叶えて貰うための偽善的な熱心や、人に認めて貰うためのパフォーマンスは退けられる(5-8v)。私達は全てをご存じであり、主権者である神の前に、神の御支配がこの世界に明確にもたらされ、主の御心が、天において完全であるように、この地(自分も含めて)においても完全になされるようにと祈るように教えられている。それは自分の願いを届けるのとは逆に、神の御心がこの私と地に完全になされるようにという委ね献げた祈りだ。私達の祈りはどうだろうか。

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