20180916『パウロの成熟』IIテモテ4:6-8

『パウロの成熟』 
序、1)敬老の日を前にして、パウロの晩年の姿を見ていきたい
  2)パウロとは誰であるか(ピリ3:3?6)

本論 I 、ダマスコ途上での出来事
 1)ステパノの殉教の目撃   ●絵画?1(レンブラント)
   ?使徒7:54?60
 2)ダマスコ途上で       ●絵画?2(カラヴァッジョ)
   ?使徒9:1?9,26:12?18

本論 II 、晩年を迎えたパウロ
 1)キリストを追求するパウロ
   ?ピリピ4:11?13
 2)苦難を通して成長するパウロ
   ?IIコリント11:24、ローマ5:2?5 「罪人の頭」
 3)天に迎えられようとしているパウロ
  ●絵画?3(レンブラント)
   ?IIテモテ4:6?8
本論III 、老年を迎えて歩む希望
 1)あらゆる環境の中に生きる希望
   ?ピリピ4:11?13
 2)日々新たにされる希望
   ?IIコリント4:16
 3)主とともに歩む希望 
  ?イザヤ46:3?4       ●絵画?4(レンブラント)
* 老年を迎えることは主の恵みである
  (老年の恵みを備えておられる主)

メッセージ:町田俊之師

広告

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20180909『年老いてもなお実を』詩篇92:8-15

 
「彼らは主の家に植えられ私たちの神の大庭で花を咲かせます。彼らは年老いてもなお実を実らせ青々と生い茂ります。」
                           <詩篇92:13,14>
 敬老の感謝の礼拝をともにささげられることを感謝したい。年を重ねることは、だれにも与えられることではない。長く生きたくても、そうできなかった方々は少なくないからだ。また長く生きることにも葛藤があることも事実だ。しかし、主が私たちにいのちを与え、委ねて下さり、私たちを生かしてくださっている事実に目を留めるとき、私たちの人生の中心が変えられてくる。
 この詩篇の作者は、神の前に正しく歩むことの素晴らしさ、その恵みを歌い上げている。人や自分からの評価以上に、重要なのは、神の目から見た私たち。誰も見ていなくても喜んで行えること、喜んで止めることができること…ひとつひとつを真実に行う力を神が私たちに与えて下さる。その歩みは、実を実らせる歩みともいえる。聖書には、多くの実を結んだ人々の歩みが記されている。しかし、その一人ひとりにも様々な失敗があり、挫折があった。その所からなお神様に向かい、悔い改め、真実な歩みを取り戻していったのが、年を重ねた信仰者であり、年老いてもなお実を結ぶ者、青々と生い茂る者として、その歩みが聖書に記されている。私たちの人生はどうだろうか。神の前に砕かれ、整えられるものでありたい。神は私たちを愛し、恵みと祝福を用意して待っていて下さる。神の大庭に進み行こう。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20180902『百人隊長の信仰』マタイ8:1-13

「しかし、百人隊長は答えた。『主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。』」  <マタイ8:8>
 神の御子キリストの愛の姿は、様々な病や弱さ、葛藤を抱える方々に寄り添う姿に現されている。当時の社会でツァラアトに冒された人々は、汚れた者として、人々から切り離された生活を余儀なくされ、彼らに触れる人はいなかった。しかし、主イエス・キリストは、ツァラアトに苦しみ、主の前にひれふす人に、愛を持って接し、触れられ、癒された。苦しみの中にあったこの人にとって、それは病の癒し以上の人としての回復があったのではないだろうか。主が癒しのみが伝わることを避けられたことも彼への愛と真実の現れであったろう。
 ローマ兵である百人隊長は、自分のしもべが中風で苦しんでいることに心を痛め、主イエスのもとに彼を癒して下さるようにと申し出た。自分の部下の為にへりくだる彼の愛の姿に私たちは倣いたい。しかも彼の信仰は見事なものだった。主ご自身が向かうことを申し出たのに対し、この百人隊長は、主イエスのことばだけで充分であるとし、主の真の権威に深い信頼を置いていたからだ。異邦人の中にこのような信仰を見ることができることは、ユダヤ人たちへのチャレンジであるとともに、招きでもあったであろう。それは私たちにも開かれている招きでもある。私たちはどのように主に信頼し、主の権威に従おうとしているだろうか。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20180826『頑なな心の危険』列王記 16:21-34

「アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。」 (列王16:33)
 私たちの心の奥底には、様々な闇がある。それが表面に出てくるとき、自分自身でも驚いてしまうことがある。しかし、それと向き合い、その闇の中で、主の憐みを受け取るとき、私たちには赦しと共に癒しがあることを心にとめ、感謝したい。
 ジムリはイスラエルの王エラの配下で戦車隊の半分の長であったが、ティルツァで王が酒に酔っている機会をねらって殺害し、王位を奪った。さらに預言者エフーの言った通り、バシャの全家を打ち殺した。しかし王位についてわずか7日で、民衆の立てたオムリに攻められ自害する。ジムリを倒したオムリが実質的な王位を得たが、神の前に悪を重ねていく。人間の欲望が満たされていく歩みは、神から離れていくことになることがなんと多いことか。そしてついにオムリの子、アハブがイスラエルの王となる。聖書は、このアハブの神への背きの姿を明確に語っている。「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った」「彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は…イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。」と聖書は語る。坂を転がるようにして、神に背くイスラエルの王の姿がここにある。私たちはどうだろうか。神の前に真実に歩むことがいつも誰にも求められる。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20180812『二つの人生』マタイ7:24-29

※12日と19日が逆になりましたことをお詫び申し上げます。

「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」                     <マタイ7:24,25>
 人生は、表面的なものよりも、内面的なことの方が大きな違いを生む。イエス・キリストが山上の説教の締めくくりとして語られたのは、「二つの人生」の決定的な違いだった。
 その違いは、人生に押し寄せる苦難の中で明らかにされた。雨、洪水、風に象徴される苦難、それはまるで上から、下から、横から受ける困難を象徴しているかのようだ。そして違いは、しっかりと岩の上に土台を据えていたかどうかにかかっていた。しっかりと岩の上に土台を築き上げた家はびくともせず、そうでなかった家は酷い倒れ方をした。人生の中で、目に見えるところばかりに心を奪われる時、苦難に耐え得ない。神の言葉、キリストのことばに心をとめ、しっかりと聴き、それを自分のこととして受け入れ従うという歩みは、まさに「狭い門から入り、狭い道を歩み続けること」であろう。しかしそれこそがいのちに至る道であることを忘れてはならない。平行箇所のルカ6章には、深く掘り下げる必要が指摘されている。人生を掘り下げ、キリストと出会い、みことばに従う人生を歩み続けたい。神は心の真実を見る

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20180819『ふさわしい礼拝と献身』ローマ12:6-9

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」 (ローマ12:1,2)
 ローマ書1〜16章は、大きく二つに分かれる。1〜11章は、信仰義認の教理のことが中心に書かれ、12〜16章は、信仰の歩みについて書かれている。すなわち信仰を持った人の最初の歩みが、ここにある「献身」であることを心にとめたい。献身は、特定のキリスト者に求められることではなく、全てのキリスト者に求められている「ふさわしい礼拝」であり、本来の礼拝なのだ。私たちが、キリストにあって本来のあり方、神のものとされたことに、いつでも戻っていく必要があろう。
 しかし私たちは、この世の流れに影響を受け、失敗を繰り返してしまう。だからこそ日々、主の前に心を新にし、主に取り扱われ、内側から、返られ続けていく必要がある。自分が喜ぶことを選びやすい私たちであることを認め、神に喜ばれる、神の前に完全なことを見分け、それを選び取るものとさせていただきたい。憐れみ深い神様は、忍耐を持って、私たちを導き続けてくださる。主の愛と恵みに期待し、主ご自身を待ち望み、主と共に歩む者とさせていただこう。主は私たちを愛していて下さる。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20180805『狭い門から入る』マタイ7:13-23

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」                  (マタイ7:13,14)
 主の弟子として、整えられる歩みは、決して容易ではない。しかし、主の憐れみは、私たちの愚かさを越えて豊かに届く。弟子の歩みの重要さの一つは、狭い門からはいることである。滅びに至る門は大きいので入りやすく、歩みやすい。従って滅びに至る門から入って行く者が多いが、いのちに至る門を見いだす者はまれである。表面的な豊かさに惑わされず狭い門を通る決断をし、狭い道を歩き続けることを選ばなければならない。
 本物を見極める重要さは、どんな人にも言える。見たところ無害な羊のようでも、現実には貪欲な狼、自分の利益のために群れを食い物にする教師がいる。彼らを見分けるには実を見る。良い木は良い実を、悪い木は悪い実を結び、例外はない。実といっても、外見上の華々しさではない。主よ、主よという告白や力あるわざでさえ、イエスとの結び付きを保証しない。
重要なのは神のみこころを行なう者であるかどうかである。主の御心の中心は罪の悔い改めという狭い門に人を導くことだ。真に主の弟子となる者は自己中心的な生き方から解放され、主の前に砕かれ、整えられ続け、実を結び、御心を行う者に変えられていくのである。私たちもまた、狭い門に向かい歩み続けたい。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized