20240310『使徒イスカリオテ・ユダ』マタイ27 :3-5

「そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言っ た。『私は無実の人の 血を 売っ て罪を犯しました。』」(マタイ27:3-4a)

 イエス様を祭司長たちに引き渡したユダは、まさか「先生」が殺されることはないと考えていたような態度を示します。後悔したユダは、イエス様が無実であると証言しますが、もはや後の祭りでした。
 しかし皮肉なことに、裏切り者の口を通して、イエス様の真実性が証明されることになりました。身内の証言だけでなく、敵となった者の証言が加えられることで、イエス様が偽り者ではないという証拠が補強されているのです。
 後悔したユダは、立ち返るべき先を祭司長たちと長老たちに求めてしまいます。そんな彼らが、立ち返るチャンスをユダに与えることはありませんでした。「われわれの知ったことか、自分で始末することだ。」直訳すると「自分で自分を見つめろ」を意味する心ない言葉を浴びせます。宗教指導者にあるまじき矛盾した姿を彼らは、さらしました。  ですが、イエス様は違います。復活された後、逃げ去った弟子たちさえ兄弟と呼んで、そんな者たちをも「そこでわたしに会えます」と、御前に招いてくださるお方なのです。

20240303『教会の祈り』使徒12:1-17

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」(使徒12:5)

 使徒の一人であったヤコブが殺され、続けてペテロが捕らえられ殺されようとしているとき、教会は熱心な祈りを神にささげました。それはまさにヘロデ王に象徴されるこの世の権力と剣、すなわち死への恐怖によって支配しようとする力に対して、祈りを武器に教会が戦ったということです。
 ところが、いざペテロが救われると、祈っていた人たちがそれを信じられないということが起こります。これはただの不信仰なのでしょうか。このようなことが起こったのは、教会の祈りの中心がペテロ救出ではなかったからにちがいありません。
 それでは、教会は何を熱心に祈っていたのでしょうか。その鍵は牢の中から教会に祈りのリクエストをしたパウロの手紙の中にあります。パウロは自分が牢から出られるように祈ってくれと頼んだのではなく、語るべきこと(みことば)を大胆に語ることができるように祈ってくれと頼みました。ペテロのための教会の熱心な祈りというのも、そのような祈りだったのでしょう。
 神様のみこころは「神のみことばが広がっていくこと」です。すべての出来事と祈りの答えはそこをゴールにしているのです。そして神様は、それが多くの人によってなされることを望んでおられるのです。

20240225『彼らの不信仰』マルコ 6:1-6

「それで、何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」(マルコ6:5-6a)

安息日にイエス様が、郷里の会堂で教え始められると、それを聞いた人々は驚きました。その教えに権威があったからです。初めて出会う教師であれば、優秀なラビから学んだのだと、都合良く解釈して、自分を納得させるでしょう。ですが、彼らのイエス様に対する疑念は収まりません。
「この人は大工でないか」郷里の人々は、イエス様が汗水流して働く肉体労働者であり、その家族も幼い頃から知っていたからです。境遇も優れず、学識も劣ると思っていたイエス様から、思いもよらない権威ある教えが語られ、その手を通して、力あるわざが行われる。「いったい何なのだろう?」彼らは納得できません。そして、彼らは目の前におられるイエス様を、自分の中のイエス像より、小さく捉えてしまいます。その結果として表れされた彼らの不信仰に驚かれたイエス様ですが、別の場面でも驚かれています。
それは、百人隊長の信仰に対してです。ローマ帝国の支配体制に表わされる権威をよく知っていた百人隊長は、それを超越する権威をイエス様に見出していました。おことばだけで力あるわざを行うことが出来る方、と信じていたのです。 私たちは全知全能なるお方をどのように信じているでしょう。不信仰と信仰、どちらの驚きをもたらす者でしょうか。

20240218『栄光をもたらす苦しみ』第二コリント 4:16-5:2

「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。」(コリント人への手紙第二 4 章 17 節)

 私たち一人ひとりは、必ず何らかの形で困難を経験します。避けたいと願うけれども、それはできません。よく人は問います。「もし神が愛する方であるなら、どうして苦しみをゆるされるのですか?」と。これに関して、理解できないことは多くあるのですが、私たちの苦しみに意味があることが聖書からわかります。 1.苦しみは、人が真の神を求めるように助けとなるのです。
2.苦しみを通して、私たちの信仰が強められるのです。
3.苦しみは、私たちに栄光をもたらしてくれるのです。
ただ単に、今の苦しみを我慢すれば、後になってそれは喜びと変わるだけではありません。主を信頼する信仰者は、苦しめば苦しむほど、その中で主の恵みと力をいただけます。また、それほど、後に来る喜びや栄光を満ち満ちたものとして味わうことができるでしょう。信仰によって、目に見えない神ご自身と、神の約束のことばと、永遠の栄光を見上げましょう!

20240211『何も思い煩うな』ピリピ人4:6,7

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていた
だきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」 (ピリピ4:6,7)

 私たちは将来起こるであろうことに、心配し思い煩い、不安になる。しかし振り返ってみると、その不安や恐れの根底には、自分の思いや考えを握りしめている時が少なくない。ここにも自分を明け渡し、ささげることへの招きがある。OwnerChanged である。そしてそこには、こんな私たちを「あなたはわたしのもの」と呼んで下さる主の愛があるのだ。
 聖書は私たちに「何も思い煩わないで」、ストレートに言うと「何も思い煩わうな」と語りかける。そして「感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」と続いて命じる。何故だろうか。感謝ができないから思い煩い、自分の思い心の全てを主に注ぎだすことができないゆえに、私たちは悩むのではないだろうか。何よりも誰よりも「主に信頼すること」そこから私たちの新しい歩みが始まる。私たちの全てを理解や思いや考えを超えた神の平安が私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれるからだ。そして神が心配してくださるからだ<ペテロ5:6,7 >。

20240204『キリストの十字架を見上げて』第一ペテロ2:21-25

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(ペテロの手紙 第一 2:24)

 「キリストの教会」を建てあげる使命を進んでいく時の大きな鍵は、皆さんひとりひとりが、キリストの十字架を見上げることで
す。キリストが私たちの為になされた犠牲の上にこそ、キリストの教会があるからです。
 癌研有明での病理検査を明日に控える中(2/1)、私自身がキリストの十字架を見上げる必要を感じています。高々一本肝臓に針を通すこと、しかも麻酔があってというだけで痛みを予想する自分がいて情けなくなります。主イエスが、ローマの鞭を死ぬほど受け、手足を釘で刺し貫かれ、十字架の上で、肉体的にも精神的にも、そして霊的にも全ての苦しみを受け尽くされたと言うことは、どれ程だったのだろうかと考えると、想像を絶します。しかし、その主の苦しみのゆえに、私たちは癒やされ、罪赦され、罪を離れ、義のために生きる者とされたのです。今日の聖餐式を通しても、共に主の十字架を見上げたいのです。主の復活の希望を見上げたいのです。そして「主の教会の一致と前身の姿に心を留めて、共にその使命に生かされたいのです。長野篠ノ井教会の金先生のオリジナル曲、『見上げます』を通しても、心を一つにしたいのです。

20240128『キリストを恐れて互いに従う歩み』エペソ5 :15-21

「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」(エペソ5:19-21)

「キリストの教会」を建てあげる使命をみなさんと共有できることを感謝します。41周年を迎える私たちに問われているのは「献身」です。ひとりひとりが自らを主に献げ、キリストの教会を建てあげ続けていただきたいと願っています。
 教会が揺るがされる時こそ悪しき霊は働きます。キリストと聖霊による一致をもってみことばに立ち、みんなで「主の教会」を建てあげていってください。光の子らしく歩む道は祝福と希望に満ちています。日々悔い改め、御霊に満たされて歩ませていただきましょう。どんなときにも詩と賛美と霊をもって神を賛美し、感謝にあふれて互いに愛し合い、赦しあい、仕えあって歩んでいただきたいと願っています。  すべての主権を持つキリストが教会に与えられています。人を見るのではなく、キリストを見上げて地上の生涯も栄光の生涯も共に歩ませていただきたく願っています。

20240121『主のとりなし』列王記 19 :9-14

「地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立った。すると声がして、こう言った。『エリヤよ、ここで何をしているのか。』」 (列王19:12-13)

 解決が見込めないような事態に陥ったとき、私たちは、閉塞感に囚われ、聖書を読んでも、みことばが心に届かなくなることがあります。このときのエリヤも同じような状態でした。カルメル山の対決で、主こそ神であると力強く立証されたはずが、期待された効果はなく、かえってイゼベルにいのちを狙われ ることになったからです。
 弱り切ったエリヤに主は、身体的な栄養を摂らせることから始めて、徐々に立ち直っていけるよう、とりなしを続けられます。「主が通り過ぎる」シナイでモーセの前に顕現されたように、主はエリヤの前にもご自身を現わされます。
 『エリヤよ、ここで何をしているのか。』主の問いに、愚痴めいた全く同じ返答を繰り返すエリヤですが、彼は確実に以前とは変わっていました。みことばを受け取れる状態にまで回復をもたらされていました。
 ローマ8:26「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」 私たちに内住しておられる聖霊は、閉塞感から私たちを助け出してくださるのです。

20240114『新しい皮袋としての歩み』ルカ 5 :33-39

「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。」(ルカ5:37-38)

 私たちの喜びの源はどこにあるでしょうか。主は私たちに何をチャレンジしていらっしゃるでしょうか。
 イエスの時代には、パリサイ人は週に2度(月・木)断食を行い、それが彼らの宗教的熱意のしるしであったようです。主イエスが、取税人や罪人たちと交わり食事をしていることに腹を立て、なぜ断食をしないのかと問うたようです。キリストの行動が、彼らの理解の中に収まらなかったゆえでしょう。
 その批判に対して、その状況を結婚の祝いの宴にたとえられた。喜びの祝いの席で、悲しみの表現である断食を実施するのはふさわしくないというのです。主と共にいること、すなわち、花婿であるキリストと一緒にいる時は喜びに満ちているゆえに、やがて主が取り去られる日には断食するというのです。
 この質問をきっかけに、主は古い皮袋(布)と、新しいぶどう酒(布)を区別されました。新しい救いの時代がイエスと共にすでに展開しているのに、律法を守るだけの断食や、さばきの備えとしての悔い改めの断食に目を奪われていると、救いを逸することになるからです。今必要なのは、救い主であり、 真の花婿であるこの方に目を留め、この方を信じ、この方について行くことです。真の喜びに生きることが原点にあるのです。

20240107『悔い改めて救われる恵み』ルカ 5 :27-32

「そこでイエスは彼らに答えられた。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。』」(ルカ5:31,32)

 2024年の新しい年が始まりました。元日に起きた、石川・能登半島地震や、羽田空港での飛行機事故は、私たちが当たり前のように感じてしまう平穏や静けさが、決して当たり前ではないことの現実を示しています。私達は皆、主の憐みの中で生かされているのです。
 自分たちの現実と向き合うことは簡単ではありませんが、主イエスは12弟子として、ローマ側に立ち、ローマに収める税金を集める取税人も、またローマを倒そうとする熱心党員からも選びました。共に歩むことが難しい人々が、キリストにあって共に歩むように、互いの立場を理解することで、自らの内側にあるものに心をとめるようにと招かれたのです。取税人は優秀な人たちであり、ローマから立場も与えられていましたが、当時のユダヤく人達から疎まれ、罪人として扱われていたのです。しかし主は、彼らの「友」として歩まれ、彼らを受け入れ、彼らを裁く人々に、自らの内側にある高慢や罪に気づき、それを認めるようにと導かれたのです。罪を認め、悔い改めることは、主の祝福に向かう歩みです。そして主は「悔い改めの実を結ぶ」ようにと私達を導きます。さらに一歩主にあって成長を与えられ、砕かれ、主を愛し従う者とさせて戴きたいのです。