20170521『キリストとの共同相続人』ローマ8:12-17

「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」         (ローマ8:16,17)
 キリストと共に歩む人生は、主の恵みと憐みに基づいている。しかし、それは決して甘えではない。いのちがけの愛で愛された私たちは、その愛に応えるべく、その歩みがなお整えられていくことを願い求めていく。たとえそれが幾度失敗してもだ。
 私達は「子とされる恵み」を受けている。「奴隷の霊」と訳されている言葉は「養子の霊」と訳したほうが適切であろう。神の子どもとして全くふさわしくない私達を主は愛し、キリストの十字架の贖いと犠牲を通して、私達を養子としてくださった。そしてそれは、神の御子イエス・キリストと共に、恵みの相続人とさせていただく大いなる特権を持つことを意味している。
 ペテロはまた、「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられている」(ペテロ1:4)と語ると共に、その直前には「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(同1:3)と語っている。さらにパウロは、「世界の相続」として信仰の義による恵み(ローマ4:13)、ガラテヤ4章やこの箇所には、神を「父」と呼び求めることのできる大いなる特権が描かれている。創造主であり、全能の主を「アバ、父」と呼び、全幅の信頼を置くことができることは何という憐みだろうか。また私達はキリストと愛の使命をも共有していくことを忘れてはならない。主は小さな私たちをも用いてくださる。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170514『聖書に登場する3人の女性たち』ヨハネ20:11〜18

自分が母であることを、また自分の母を思い出しましょう
・ 聖書の中には、多くの女性が登場している
・ その中で、代表的な女性を取り上げて、女性の大いなる
役割を考えてみましょう
1、人類の母としてのエバ
  ・神によって造られた女性
  ・アダムの夫とされた女性
  ・罪の現実を知らされた女性
・子育てに苦労した女性
2、御使いのことばに従ったマリア
  ・神からマリアに近づかれた
  ・マリアは御使いのことばに疑いを持ちつつ従う決心をした
  ・神はマリアを通してご計画を進められた
  ・マリアはイエスを育て上げた
3、復活のイエスに出会ったマグダラのマリア
  ・イエスの後を最後まで見届けた女性
  ・イエスの死を心から悲しんだ女性
・ 復活のイエスに呼びかけられた女性
・復活のイエスから新しい使命をいただいた女性
<まとめ>
  ・神は女性を造られ、女性を選ばれ、女性に使命を与えられるお方です。
   母である方は、自分の役割を思い出し、またすべての人は自分の母の労苦を
   思い出して、感謝と祈りの時を持ちましょう 
(メッセージ:町田俊之先生)

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170507『主の憐みの系図』マタイ1:1-17

 「アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」                   <マタイ1:17>  今日から福音書の学びは、マタイの福音書となる。少し時期的にずれるが、改めて救い主の受肉の意味やインマヌエルの恵みを味わっていきたい。
 マタイの福音書の最初に登場する系図を読み飛ばしてしまう誘惑は多くの人が受けるだろう。しかし、この中に大切な4人の女性が登場している。ヤコブの嫁タマル、遊女ラハブ、ウリヤの妻とてのバテシェバ、そしてキリストの母として用いられたマリヤである。旧約からの関連を明示するキリストの系図の中に登場するには、いささか課題を含む女性たちとも言えようか。
 タマルは遊女のふりをし、舅ヤコブの子を宿し、ラハブは文字通り遊女であった。しかし彼女たちの悲しみや真実を主はご覧になる。バテシェバも夫を殺された悲しみを背負い、マリヤも誤解を受けかねないチャレンジを主から与えられた。しかし、主は彼女たちを憐み、ダビデの子の誕生に関わっていく。
 さらにこの系図は3つに分かれ、省略を含みつつも、アブラハムからダビデ、ダビデからバビロン移住、そしてキリストまでと整理される。特に2期目の後半から神の民の歴史の暗さが系図を通しても伝わってくる。しかし、その闇の中にこそ救い主イエス・キリストは誕生された。私たちも様々な弱さや愚かさを露呈し、闇の深まりを覚えるときさえある。しかし主はその私達を憐み、恵みと祝福を豊かに与えて下さる。主は我らと共におられる。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170430『平和のための神の器』I列王5:1-12

「今、私は、私の神、主の名のために宮を建てようと思っています。主が私の父ダビデに『わたしが、あなたの代わりに、あなたの王座に着かせるあなたの子、彼がわたしの名のために宮を建てる。』と言われたとおりです。」       <列王記5:5>
 ツロの王ヒラムとは、すでにダビデの時に相互の必要と信頼による交易があった。ヒラムはダビデ王宮建築のためにかなり出費している(サム5:11)。ヒラムが喜んだのはダビデによる強力な平和であり、それはヒラムが意識するとしないとにかかわらず神によるものであった。
ソロモンは、父ダビデが成し得なかった「主の名のための宮」を建てるという使命をツロの王ヒラムに申し出る。ダビデが望みながら果せなかった理由は幾つかある。神殿建築の発端はダビデがヒラムの援助で立派な杉材の家を建てたが、神の箱が天幕に安置されていた故であった。この神殿建築については、主ご自身がダビデによる建築を否定され、ダビデの世継ぎの子に引き継ぐことを明言された(サム7:13)。なぜダビデではないのか。確かに、ダビデは多くの失敗と罪を犯した。しかし、ソロモンのそれはなお大きい。ただし闘いや争いという点ではソロモンは名の通り平和な歩みを継続していく。主の平和がこの地にもたらされるために、主はご自身の栄光を表される。神殿は神の御心に従って、神自ら建てるのだ。それが神の国がこの地にもたらされ、主の教会が建て上げられていく歩みに繋がっていく。  主は欠けの多い者をも器として用いられる。ヒラムもソロモンも主が栄光の為お用いになる。主の平和のために歩みたい。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170423『聖霊によって歩む』ローマ8:1-11

 
 「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」 <ローマ8:9,10
 私たちの内側には葛藤が常にある。キリストに従いたいと願いつつも、そうではない罪の方向へ、神に喜ばれない歩みへと向かってしまう矛盾した罪の傾向への葛藤が…。しかし、7章までの書き方と異なり、8章からは聖霊が私たちをどう導かれ、変えて下さるのかが中心に描かれている。私たちの闇の現実をも光に変えて下さる主の勝利といのちが描かれているのだ。
 そこには、私たちが自覚すべき大きな恵みがある。私たちの内に、聖霊なる神が住まわれ、またそれゆえ、キリストがうちにおられる事実だ。私たちのいのちとはキリストであり、キリストの御霊が私たちの内にあるゆえに、私たちは外なるからだが罪のゆえに死んでも御霊のいのちが私たちの内で輝くというのだ。そのとき、私たちにどのような現実があろうとも内にあるいのちに目を留め、御霊のいのちにあって生かされること、今抱えている問題の中を御霊に導かれて歩むことができるのだ。  私たちと共に、主がいてくださる。復活の主の勝利、いのちの輝きが私たちの人生の歩みの現実にある。主を信頼して歩もう

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170416『心はうちに燃えて』ルカ24:13-39

 「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。』」                       <ルカ24:30-32>  イースターおめでとうございます。死を恐れる私たちにとって、このイースターの喜びは、人生の大きな意義を持っています。
 主イエス・キリストが十字架にかかられたことは、主の弟子たちにとって大きな痛みであり、失望の原因でした。主が殺されてしまったゆえに、彼らの今までの人生が否定されただけではなく、彼らにも死への恐怖が押し寄せ、彼らは隠れ、またエルサレムを離れていったからです。エマオに向かった主の二人の弟子もそうでした。しかしその彼らに復活の主が共に歩まれました。彼らの痛みに寄り添い、彼らの心を聞き、そして彼らに旧約聖書から救い主の苦難を通る勝利を語られたのです。それでも彼らの目は閉ざされていました。しかし、主がまるで彼らの食卓の主人のように、パンを祝福し裂かれたとき、彼らの目が開かれ、その方が主イエスであることを理解し、主は見えなくなられたのです。
 しかし、彼らの心は全く変えられ、心が内に燃えていることを彼らは感じたのです。みことばの真理が、また主の臨在が、そして主の復活の勝利が彼らを内側から変え、彼らを再びエルサレムへと向かわせました。主の復活の勝利は、この二人だけではなく、主の弟子たちの人生を大きく変えていくことになるのです。  私たちの心にも人生にも主は勝利と希望を与えて下さいます。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized

20170402『健全な成長と祝福』IIIヨハネ1:1-15

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。…愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神を見たことのない者です。」                         ( ヨハネ1:2,11)
 ヨハネがエペソの教会を中心にしたアジア諸教会に記した、第三の手紙には、教会の混乱の問題が根底にある。ガイオが所属していた教会に、使徒たちをののしり、服従せず、欲しいままに振舞っていた人の存在が教会に悪影響を与えていたからだ。
 しかし、ヨハネはその中にあっても、主の教会が、真理に立って歩んでいることを感謝している(3,4v)。また、巡回伝道者や巡回教師に対しても、愛を持って接し、もてなしている事をも感謝している(5-8v)。その上でこの混乱の問題を取り扱う。
 私たちは時に、起こってくる問題にばかり目を留めてしまい、与えられている感謝や喜びに心を留めることが少なくなる。しかし、聖書は私たちに主が良くしてくださったことを忘れず、恵みを数えるようにと教え導く(詩篇103:1-14)。その恵みの上で私たちは与えられている問題に取り組んでいく必要があろう。
 混乱をきたす人物について、ヨハネは言葉を緩めず、愛を持って真理を語っている。それは主イエスがそうされたように悔い改めを促し、主にある兄弟として関係を回復するためであったろう。私たちは皆問題を抱えているからだ。そして問題が表面化する時こそ、私たちの成長のチャンスであり、教会が教会として整えられていく恵みの時となる。私たち一人一人が健全な成長を祈り求めるとともに、教会もまたみことばにあって成長したい。

コメントする

カテゴリー: Uncategorized